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<災いは、未来には無い。それは、過去から引き擦られ来たるのだ> |
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人が知覚しうる無意識の集合体を、“社会的無意識”と呼び、
知覚すらしえない無意識の集合体を、“根源的無意識”と呼ぶことを我々は学習した。
そして、“根源的無意識”の実在を証明することは、
『群盲象を撫ぜる』に等しい、非常に困難な努力であるということも。
が、我々は前回の講義において (魔術の
ひどく横柄な弟である)
科学の持つ目と知識とを借用し、その実在に、わずかなりと近づこうとは試みた。
その試みは、基礎的な古典魔術知識をいまだ十分には有しない、
受講生諸兄の理解の助けになれば――と望んでのものではあったが、
果たして
その望みが果たされたのかどうかは、極めて心もとない。
ので、今回の講義においては、
純粋な “魔術の目によるアプローチ”により、
“根源的無意識”の実在を証明することを試みることとしよう。
諸兄は、既に [予見術]
に関する受講を修了し、
また、講義内容の概略から、
[六域分類]内に、どのような魔術系が示されているのかを、
承知おいていることと思う。
示された各魔術系を見て――
あるいは、おのおのが魔術師足らんと志すにいたった、その道程において――
諸兄は、次のような疑問を抱いたことは無かっただろうか?
即ち、
【何故、予見があるのに、過去視という魔術系が存在しないのだろうか?】
という疑問を。
魔術系は、人の欲望をそのまま映し出す表であるともいえるだろう。
「死者をよみがえらせたい」「死にたくない」という欲望は [死霊術]を、
「健康でありたい、病から回復したい」という欲望は
[治癒術]を、
「自然と対話し、その力を借りたい」という欲望は [精霊術]を、
「人の心を覗き見、操ってしまいたい」という欲望は
[魅了術]を。
そして、「未来の姿を垣間見たい」という欲望は [予見術]を、
それぞれに練磨させ
また昇華させ、「魔術」の域にまで編みあげていった。
ならば、「過去の姿を確認したい」という、[予見]と対になる欲望を、
有史以来、人は抱くことが無かったのであろうか?
そのようなことは、ありえない。
P.d.アリアコを代表とする、“過去視に挑んだ予見術師”
も少なからず存在しているし、
また、
歴史上の重要場面。埋蔵金の正確な埋蔵地点。気になる異性の見知らぬ一コマ等、
過去を見ることによって満たされであろう卑近な欲求は、いくらでも、とても容易に思い浮かべられるのだから。
が、かのアリアコをもってしても、“過去視”への挑戦は、
『その糸口にさえ触れることが出来なかった』 と記録されている。
[死霊術] あるいは [召喚術]によって 呼び出すことの出来る
“過去を知るモノ” は、
「呼び出されるそのときにまで、意識において連続をした時間を過ごしてきているモノ」
――
のみであるという仮説も、 A.B.H.アルジャバルティー魔術師霊により
1906年に唱えられ、
現在のところ、これに対する有力な反証は示されていない。
つまり、
「誰も知らない過去の姿
=
今につながる意識を持つ誰の“記憶”にも無い過去の姿」 を、
我々は、 【知りうる手段を、有史以来一度も有したことが無い】 のである。
“記録”であれば、いくらでも存在しているにもかかわらず、だ。
そしてまた、予見術師は、
「複数の未来を見」 「その中の一つの未来を選びとる (あるいは、引き寄せられてしまう)」
という現象も、これは無数に確認されている。
さて、受講生諸君。
ここで じっくりと考えてほしい。
「予見され、しかし実現されなかった未来」
は
【存在しない未来】で果たして、あるのだろうか?
もしも、「その未来が存在しない」
すなわち、「世界が過去から未来まで、一直線に連なるもの」 であるのなら、
何故
【“断絶された過去”を、有史以来の全ての天才魔術師たちもってしても、
あるいは欲望の集合として、確実に存在しているであろう社会的無意識の表れとしてでも、
人は今の今まで一度も、確認をすることはできなかった】
のであろうか?
・・・この問いかけは、“時間術”が、【究極にして、存在しないとされる魔術】であることとも、
あるいは
恐らくは密接に関係しているのであろうと思われる。
また、他の複数の――いや、多数の魔術の本質とも、恐らくは深くかかわってくる問題でもあろう。
が、本講義においては、その問いかけを、
『根源的無意識の実在』を示す という一点のみのために、用いることとしたい。
“不確な存在でしかないのかもしれない <未来>を見ることは可能であるのに”
“確かな記録であるはずの <過去>を見ることが不可能である”
という現象と――
[魔術とは、意志と意識との技である]
という事実とを、重ね合わせて考えるのなら。
そこには、
『誰の意志も、いかなる意識も “過去を見ることを望んでいないし、望まなかった”
』
という事実が確認される必要が生じてくる。
しかしながら、前記したように、
『P.d.アリアコという圧倒的に研ぎ澄まされた意志と意識 が <過去視>を希求し』
『<過去視に対する>欲望も、非常に卑近なものであり、<社会的集合>として伏流しているであろう』
という “要求されているものとは正反対の事実” のみしか、我々には確認できない。
で、あるのならば、その相反から――
『【我々には知覚し得ない無意識】が、
“我々の持つ、<過去視>への、意志と意識と社会的無意識とを、圧倒し、
<過去視>の実現を阻んでいる』
――という現象が、存在しているのではないか、と類推することが出来るだろう。
そして、この
【我々には知覚し得ない、しかし意志も意識も社会的無意識も圧倒するほどの、 “無意識”】
が存在するのであれば
それに我々は“根源的無意識”という名を、便宜上与えるのだ。
・・・この説明は、私の感覚としては、
前講で為した <科学の目を借用>しての説明よりも、
“根源的無意識の実在を、よりわかりやすく示した” ものとなっているように思う。
が、しかし、
<過去視の不可能>という現象の由が、他にある、という可能性も常に存在している。
<過去視に対する欲求が、果たして真に社会的無意識として伏流しているのか>
を、実際に確認した
[魅了術師]がいるという話も、現在のところ聞こえて来てはいない。
“根源的無意識”が“知覚できない無意識”である以上、
我々には、その存在を、 “信じる”か “信じない”かを、選びとる以上のことは、結局は出来ないのだ。
にもかかわらず、“根源的無意識”の実在問題について、
二回の講義を費やしてもの説明をこころみたのは、
『この問題こそが、“魔術の本質” に非常に深く関与する』
ものであるからに、他ならない。
魔術師を目指す諸兄よ、私は何度でも、繰り返し説こう。
意識して、意識して、意識しなさい。
そして“流れ”
を見出したのなら、
まずは焦らず、 “流れ”に
その身をまかせなさい。
あるいは、“流れ”を見出せないなら、
その反対を、その裏を――
“流れない場所”に、果たして何があるのかを――
意識し、意識し、意識しなさい。
貴兄の意志と意識とは、その繰り返しを繰り返すことによってのみ、磨かれえるのだ。
さて、本日までの講義で、諸兄らは
(その自覚があろうとなかろうと)
“魔術師になる” ための “知識の種”を、その意識化に収めることを完了している。
が、仮にその種が芽吹いたとしても、
その芽を伸ばし、花を開かせ、実を実らせるそのためには、
“魔術知識とは異なる知識”が、悲しいかな、必須となってしまっている。
ので、次講においては、その “異なる知識”を、諸兄らに示すこととしようと思う。
“魔術師となる” ことは、
“魔術師を生きる”
ことと比べれば、何ほどの苦労でも無いということを。
とはいえ、そう身構えることもあるまい。
諸兄らの “道” は、すでに開かれているのであろうから。
そして次講の内容は、その道を正しく迷わず歩むための、大きな助けとなるのであるから。
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