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<深遠を覗き込むとき、深遠もまた君を覗き込む。> 

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「未来を知りたい」

その気持ちを持ったことが一度も無い人間は、恐らくは人として生きてはおらぬ者であろう。

それほどに“予見”は人間の生活、文化と密着しつづけてきた要素であり、
また今日もそのように、求め続けられる要素であるとも断言できる。

故に、魔法として扱われる“予見”の裾野も広く――
その体系は極めて細分化され、混乱し、“本流”を見定めることさえ、容易ではなくなってしまっている。

しかし、真に『魔術』と呼びうる値するまでに効率化されたディビネーション

――予見術―― は極めて稀だ。

その理由は、大きく二つに集約できる。


一つは、ディビネーションという魔術が本質的に回避できないアンビバレンツを有しているためだ。

かの偉大なる予見術師。
恐らくは最も非・魔術師達の人口に膾炙したであろう魔術箴言を遺した
ドイツ人ディビナーの末路を見れば、それは容易に理解できる。


予見術師が “見る” ことを望むのは、
“約束された未来” ではありえない。

そういうものがもし、仮に存在するとしたならば――
それが真に“約束され”=“不可避”なものであるならば――

それを“見る”ことが内包する意味は、全くのゼロでしかないからだ。


故に、魔術としての予見は常に、
“未来を不確定と推測し、その上で観測すること” を前提として、発展してきた。


が、しかし。

で、あるからこそなおのこと、
ディビネーションという魔術には、不可避のジレンマがつきまとうのだ。

<深遠を覗き込むとき、深遠もまた君を覗き込む。>


経験則的な――極めて経験則的なその箴言は つまり――

<不確定である未来の姿は、観測すればするほどに、確定へと急速に近づいていってしまう>

――ことを意味している。


そしてどのような予見術師でも、確実に “見たい未来” だけを覗けるわけではないのだ。

九千九百九十九度。望ましい未来を予見し、それを確定させ得たとして。

それほどの予見術師がただの一度

――己の“不確定な死”を予見してしまったとしたら――

どうなるであろうか?



“見れば見るほど、未来は確定へと近づく”

そのことを知る予見術師は、不確定な死を見なかったこととし、
自然に回避されることを、ただただ望み続けることが出来るであろうか?


――そんなことはありえない。

そう出来得る者なら、魔術師に――それも予見術師になどなってはいない。

「いやな夢を見た」――

それだけで済ませることが出来なかったからこそ、彼らは魔術に、手を染めたのだ。


予見を繰り返した果てに、いつか。

いつの日にか、“己の最後” を見た予見術師は、
その最後を回避しうる未来の姿を捜し求めて、
結果、“己の最後” を確定させてしまう。


あるいは、その予見から逃れるために、狂気へ、
で、なければ “予見したのとは別の形の死” へと、逃れる。


逆説的には、そうした事態を避けるためにこそ、 ディビネーションは存在している――
ということも出来るが・・・

しかし、その事態こそが根源的なものである故、
際立った予見術師の数は少なく、その術が継承される確率は更に低い。

――それが、ディビネーションの発展を足踏みさせている理由の一つで。


残された、もう一つの理由は、より単純――

(数少ない)優れたディビナーは、
“優れていればいるほどに、他の魔術師に殺されやすい”と。

―― という、ただ それだけのことだ。



魔術師諸兄が魔術戦にまきこまれたとき、
最も厄介に感じる術系統を想定してみてほしい。

――どのような魔術であれ

「それが、そのときに、そのように行われること」

が、 予見されてしまっていては、容易に無力化されてしまう。


なら、まっさきに狙うべきは……と、誰もが思い。

そして、予見術師は “自らの最後を回避すること” を、
全魔術師の中で最も不得手としているのだから。



――ほとんど全ての真のディビナーは、生まれながらにしてディビナーであり。
――自らの力に怯え、それを制御するためだけにディビネーションを修め。
――他ならぬそのディビネーションにより、自らの命を落とす。

予見術とは、そうした魔術だ。



で、あるにもかかわらず。
魔術界からディビネーションの炎が途絶えたことは、無い。

硝子細工のディビナーたちは、
細い刃の上を渡って、いつ果てるとも知れぬ断崖絶壁を、とぼとぼと歩き続けることをやめない。

・・・どのみち行くしかないのであれば、目を開けて渡ったほうがまだましだ、と――
恐らくは そう、自らに言い聞かせながら。

あるいは、そうした旅路の果てに
“理想の未来”が待つことを …… “盲目的に”、信じつづけながら。