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<“存在する”ために必要なのは“実在”では無い。“認識”だ。>

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親愛なる受講生諸兄よ。


良く意志を持ち、良く意識し、良く知覚した。
良く瞑想し、良く瞑想し、良く瞑想した。

諸兄らは、既にして その“意識”の中に、
“魔術師”であるがために必要な素養を、ほぼ収め終えた。

諸兄らのうちの幾人かは、自らの中の“流れ”を理解し、
さらにそのひとたりは、すでにして“門”を見出していよう。


が。
流れを意識し、門を見出し、
(未熟ながらも)魔法行使を果したとして――
それで貴君が、“魔術師として生きていける”わけでは、まったく無い。

いや、むしろ――
未熟なままの魔法行使を、無防備に行ってしまうことこそは、
貴君の “魔術師としての寿命”を、著しく短縮させてしまう危険を有している。

それは、何故であろうか?


“答え”を私に求めるまえに、
まずはその口を閉じ、周りをじっくり見渡してみたまえ。

君の周りには“何”が果して広がっていようか?
君の周りの広がりの内に、君は“魔術師”を見つけるだろうか?


――左様、その“答え”こそが、すなわち “私が君に授けんとする知恵”だ。


君の周りには、君が望むと望まぬとに限らず、“社会”が広がっている。
君の周りに広がる社会に、君は“魔術師”を見つけない。


しかし――君はすでにして “知って”いる。
君の、そして私の/我々の住む “社会”の中に、やはり魔術師も“住んで”いることを。



では何故、我々は“社会の中に魔術師”を見出し得ないのであろうか?


それには、大きく二つに見える――
しかし、その実、たった一つの理由がある。



一つ。 社会は魔法を容認しない。故に、魔術師は社会から隠れようとする。

二つ。 魔術はしかし、“社会”無しには存在しえない。故に、魔術は社会と敵対しない。


―― “社会”無しには、魔術は存在し得ない――

この事実は、
“流れ”の本質を。そして、“社会的無意識”と魔術との関係を既に学んだ諸兄には、
容易に理解できることであろうと信ずる。

“個人の意志と意識”とは、それがどれほどに強いものであろうとも、
“より強大な流れ”の前には、呑みこまれ、同化させられてしまうものにすぎない。


“魔術否定の流れ”が、もし、術封術師をシンボルとする必要すらも無いほどに、
“社会の全て”に遍く広まったのならば――

その瞬間に、“魔術”など、綺麗に消滅してしまう。

 少なくとも、“人”が その無意識において、
“魔術の存在”を 容認することが為されなくては、魔術は存在しえないのだ。


 しかしながら、“社会は魔法を容認しない”こともまた、厳然たる事実であることに、
異論をはさむものはいないのだろう。

“ESP” “超能力”と呼ばれる類の、ごくごく未熟で未整備で、
まったくなんらの実行力、影響力を社会に対して及ぼしえない“魔法”に対してでさえ、
社会は、それをさらしものにし、“科学的に否定”することにより、
その“魔術根拠”を抹消しようと試みる。

 まして―― かつての魔女術のように―― それが社会に影響を与え、
そのなりたちを変革させようとする実行力を発揮してしまったのならば――
“抹消しようとする意志”は、魔術根拠にとどまらず、
“術者たち”にさえも直接に及ぶこととなる。


 ・・・社会は、“社会に対し、公然と行使される魔法”を、決して容認しないのだ。


 故に、魔術師は社会から隠れる。
 そして、魔術師たちのみでは、“社会から隠れおおせる”ことなどできはしない。


 ――そこに、何が生まれるであろうか?


 私が ここで(魔術師にならぬかもしれない)諸兄に対し、“答え”を明言することは、
“同じ理由により” 許されないし、私自身も  また、それを為そうとは思わない。


 故に私は (魔術師たらんとする)諸兄には、“答え”を、

【「自らの意思と、意識と、知覚とにより見つけたまえ】 と忠告することとしよう。


 流れを見出し、門を見出し、“道”を歩み始めたのならば、
“答え”は、必ず君たちを待ち受けている。


 あるいは、こうと 警告しよう。

【“答え”と出あわぬうち、みだりに魔法を行使してはならない】 と。


“忠告”も、“警告”も、その根ならば、“一つの答え”だ。


その一つとは、あるいは共犯関係であり、あるいは共生関係である。
その一つとは、あるいは特権であり、あるいは義務であり、あるいは栄誉であり、あるいは苦役である。



“その一つ”を見出し、
“その一つ”を理解することを強いられるのならば――

(理解を拒めば、待ち受けるのは “魔術師としての死”あるのみだ)

――諸兄は魔術を、そして魔法を、
“ひどく不自由なものだ”と感じるかもしれぬ。


しかし、若者よ。
今日の結びに、私は君に 一つの助言を与えよう。

「真の“自由”とは、流れを持たぬ・持ち得ぬ “瞬間”にのみしか、存在し得ない」


・・・左様、“意志を持つ者” は、その時点で本質的に不自由なのだ。


その事実を理解できれば、
“答え”を君は、真に受け入れることが出来よう。




さて。
長きにわたった本講も、いよいよ最終講を残すのみとなった。


本講は、“講座”とは銘打ちつつも、
行っていきたことはといえば、ただ “問いかけの積み重ね”であったようにも思える。

故に、最終稿も その“流れ”に添い、
ある意味においては、“究極の問い”を、君たちに投げかけ、また私も考慮するものとしよう。


『魔術の目指すところ』 とは、何か。


最終講の開講までに、若者よ。
その問いを、そして答えを、十分に“意識”しておいて欲しい。









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