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<ニワトリが先かタマゴが先か? うむ、恐らくはヒヨコであろう> 

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復習はよろしいだろうか?

前回の講義において我々が学び、そして今回掘り下げてゆく事実は一つ――
すなわち 【無意識は集合する】 だ。

悲惨な事故が発生した現場においては、
事故そのものをシンボルとしてネガティブな社会的無意識が集うことを、

シンボルを用いて不特定多数の人間の社会的無意識を集わせたのなら、
その集合は “神” と一般によばれることを、我々はすでに学んだ。


そして、 “社会的無意識” と “根源的無意識” の差異についても既に学んでいる。

その差異とは “意識できるか出来ないか” の違いだ。



今回の講義では、その “意識できない無意識” ――

すなわち 【根源的無意識】 について考察を深めていきたく思う。



しかしながら、正直に告白すれば私は “根源的無意識” について何も知らないも同然である。
 
いや、私に限らず “根源的無意識” について正しくを “知って” いる者などいないだろう。


なんとなれば、根源的無意識は “意識することも知覚することも” 出来ない “無意識” であり、
“社会的無意識の働き” によっても、それにアプローチすることが不可能である “無意識” であるからだ。


 
“根源的無意識”を追求しようとする努力の様を的確に言いあらわしていることわざがこの国には存在する。

すなわち ――群盲、象をなでる―― だ。



  
一切の根拠を持たず、理屈や説明をつけることも出来ない、 
【原初の恐怖】 に触れてしまったものが、
“果たしてそれが何であるのか?” という知識欲をわずかなりと埋めようと試み――
見えることも、触れることも出来ないその “像” を、
それぞれのアプローチでしかし “撫で” ようと試みつづけ。

『ここから先、どうやら 【原初の恐怖】より深い場所には、
 【撫でられないが確かに存在する何か】 が潜んでいるらしい』

と、一応の結論めいたもを示し。

その、【撫でられないが確かに存在する何か】 に対して着けられた仮初の “名" が、
ただ “根源的無意識” という “言葉” であるにすぎない。



……ここまでの説明で最早、“根源的無意識” の実在に対しての疑わしさを覚えた者もあろうかと思う。

すなわち ――その 【原初の恐怖】 を生み出したものは、
我々自身の、 “根源的無意識の実在という仮定” をシンボルとした
“社会的無意識”の集合ではないのだろうか?―― という疑いを。


さきほどにも申し述べたように、私は、 そして恐らく “私たち” は
その問いかけへの “明快な解答” を有してはいないし、恐らくは今後も有し得ない。 



が、二つの角度から、それに反論を試みてはみよう。




まずは、"実現した過去” から “根源的無意識" に触れてみたいと思う。


 ――魔術とは非常に仲の悪い、けれど紛れも無く双子のきょうだいに “科学” という知識体系がある。
 
そして、魔術と科学との共通した両親は 【因果】 つまり 【原因】 と 【結果】 である。

科学と魔術との共通した(そして宿命的な)目的の一つは 
“事象” と “因果” との関連性を突き詰めることにある。

ただ科学の持つ“目” と 魔術の持つ“目” は、
同じ一つの事象を全く別の角度、ないしは次元から見つめ――
そして全く異なる “因果関係” を見出すというだけの話だ。


が、異なる視点を持つがゆえ、時として科学は、
魔術だけでは見い出せない “事実の一面” を浮かびあがらせてくれることもあろうかと思う。


・・・“科学の目によっては因果が(現時点において)特定できてはいない(とする見方もある)事実”
の、一例として “恐竜の絶滅” というものがある。


かつて恐竜という生物が存在し、それは絶滅した。
これは一つの、かなり確からしいとされる “事象” だ。

また、同時に科学の目はもうひとつの確からしい事実を示してくれてもいる。

即ち “恐竜の脳は人間のそれより遥かに小さく、
“恐竜が “社会”を構成したらしい証拠は一切残ってはいない、とする事実を。


もちろん、それが “真実” かどうかは科学者達にも、魔術師達にもわからない。

神官術師の一部がゆるぎなく (彼らの“神”の示す教えに従い)
【地球はおよそ六千年前に誕生し、そこでは人間と恐竜とが共存していた】 と主張しつづけているように、
科学の徒の中にも恐竜が一定度以上の知的能力と社会とを有しなかったことに
反論するものは恐らくはあるのだろう。


が、ここでは “多数”  すなわち “より大きな集合を取る 意識・無意識” の “意見” に従い、
“ 恐竜は一定度以上の知的能力と社会とを有してはいなかった”、と仮定する。


ここで同時に、“社会的無意識” の定義を思い出してみよう。

“社会的無意識” は “知覚(あるいは理由付けを)しうる無意識” である。

なれば “知覚” をするにたるだけの “意識” 無いしは “知性” と呼ばれるものの存在がなければ、
当然にその “世界” においては、
“社会的無意識” およびその集合は存在しないということになる。

 

さて。
科学の目は “恐竜の絶滅の原因” を特定するに至ってはいないことを 前段で述べた。

魔術の目 で “恐竜の説滅の原因” を見た場合にも、
“いかなる事象が直接的にその原因”となったのかまでは特定できない。

しかし、“その事象を引き起こした遠因、根源” が 
“圧倒的に強大な流れ” であるという仮定に反論する魔術師もまた、ほとんど存在しないだろう。


恐竜という種族を滅ぼし、
なれどその他の生態系、およびその周囲の環境に対しては

“明確な(発見しうる)痕跡を残しはしなかった” ――

何らかの物理、ないしその他の現象が発生したのであれば、

その現象をひきおこしたものは、 
“恐竜という種族【のみ】を滅ぼさんとする流れ” であるとしか 
(多くの魔術師達にとっては、あるいは、最低限私にとっては) 考えられない。

 “恐竜の繁栄に対するネガティブな流れの集合体が、
  恐竜という種族の滅亡につながる何かを引き起こした” ――としか。

そして、“それほどの強大な流れ” が個体によるものであるとは、
あるいは“意識的に集合させられた”ものであろうとは到底考えられないが故、
それは “無意識の集合体であろう”とも、確信、あるいは想像は自然に連鎖していく。


しかし、その世界においてもっとも繁栄していた“恐竜”たちには 
“社会的無意識”は存在しえず、それゆえに集合することもなく。

また、もし他に
“社会的無意識”を有するに足る意思と意識とを有していた生物があったとしても、

その生物は(恐竜の繁栄の影にかくれてしまうほどの)影響力のみをしか有してはおらず、
また恐竜の絶滅後に、それに変わる影響力を行使し得なかったらしいという事実から――

その “意思と意識の範囲”および“その集合の力” は、
恐竜を絶滅させるにいたるだけの “結果” を引き起こせるとは到底思えない。

ならば、その流れは 

“社会的無意識ではない、集合する何か”

によって生み出されたものであろうという仮定がここで誕生し――

そして、その仮定は、 

“社会的無意識より遥かに深い、意識も知覚も出来ず、
  それ故 (意思と意識とに関係しないが故) に恐らくは、
 【生命の全てが根源的に有しているのであろう無意識】” 

・・・ の存在を、我々に想起させるのである。


故に、

 ―― 【原初の恐怖】 を生み出したものは、
  我々自信の “根源的無意識” の存在をシンボルとした
 “社会的無意識”の集合ではないのだろうか?―― 

という問いへの反論の一つは、

「“社会的無意識” が存在しえない状況下において 
“特定の方向への強大な 【流れの作用】 ” は、果たして存在しえない、
ないしは 過去に存在しえなかったのであろうか? 私にはそうは思えない」 ・・・というものとなる。




・・・ふむ。
この講座は魔術入門者向けであり、
また受講者にはいまだ “流れ” の何たるかを体感できてはおらぬものも少なくないため、 
より “理解しやすく” という配慮がかえって、
“科学”の手を借りるような (その上不細工な)  説明へとつながってしまったことをご容赦願いたい。


また、私は科学の徒ではもちろん無いため、
“科学的”な解釈について見当外れのことを言ってしまっているかもしれない。

が、そうであるのならば、そのこと自体にも意味があると、念のために書き添えておく。

 “事象” と “因果” とが、
 【常に安定した結論を導きだすとは限らない】 という“事実” が、もしも導かれるのであれば、

それもまた魔術の (そして恐らくは科学の) 発展のための大きな糧となるであろうし―― 


そこまでの結論を導きえずとも、少なくとも、

【私が撫ぜよう試みていた像が象ではなく、床や壁でしかなかったのであれば――
 “撫ぜようと試みていた其処には象がいない”】 

ということが立証されるからである。

 


さて。

私が用意している別の角度からの同じ問いへの 
“もう一つの反論” は、より単純で、純粋に魔術的なものとなる。

 
その説明のためには、
まずは “予見術” のとある特質への説明から入らなければならず―― 

そうするためには、本日の講義の残り時間はあまりにも少なすぎる。


故に、本日の講義はここで終了するが、君達にひとつだけ次回講義までの課題を与えておこう。



 【“我々全て”を 最も強く支配する流れとは何か?】


この単純な問いについての考察を深めることは、
すなわちそのまま、“流れ”をよりよく理解するための助けとなろう。




前講:集合する無意識  /  次講:未来の可視、過去の不可視