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<ほうきよ ほうき、ぼくが めいじる “みずをくめ!> 

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前項で我々は “魔術” と “魔法” と “魔力” とを定義した。
“魔術”とは、効率よく“魔法”となされた“魔力”であると。

ならば “魔術師” となるために必要なことは、
“効率良く、魔力を魔法となすこと”となる。

良き “魔術師” になるために、、まずは
“魔力”を “魔法” となすために必要な要素をおさらいしてみよう。

と、いっても何も難しいことは無い。
体内を流れる魔力を、“門”から“外”へと導き出す――
……要約すればただそれだけだ。


では、君が “魔法”を 使いたいと願ったときに、
果たして“何”をもって、魔力を門へと導かせれば良いのであろうか?

その答えならば “意思” となる。



“意思” とは、我々の “意識” に於ける “働き” の一つだ。

そして、“意識”とは、
我々の体内の ”流れ” を魔力と認識しうる “知覚” であると、
ここでは極めて限定的に定義しておくことにしよう。


魔術師は、その “意識” により、
自らのうちの “流れ” を “魔力” と知覚することで、その魔術の第一歩を為す。

知覚した魔力に “何かを為させる” という方向付けを
“意思” によって行うのが第二歩。

そして、その "方向付けられた流れ=発動せんとしている魔力” を
物理ないし精神に作用しうるに足る力とするために、
“呪文" および “術具” の力で “確定 ”し ―― あるいは加速させ増幅させるのが第三歩。

その三歩を経て、
外界に作用しうるに必要かつ十分な “奔流” となった “魔力” は
、“門” を出で ―― 即ち“魔法”となる。

・・・魔力が魔法となるプロセスは、噛み砕いてもそれ程の説明ですんでしまう。



ならば、“魔術” を修めることも、またそれほどに容易であろうか?

しかし、その問いかけの答えであれば、“否” とならざるを得なくなろう。


何故か?

“意識” を、そして “意思” を制御すること事態が、
容易ならざる “術” だからである。


言い換えよう。
“意識” と “意思” を律するための “術”こそが、
即ち “魔術” であるのだと。


“魔術師になるための修練” も故に、
上記した “魔術がなされるための三歩” を、正しく なぞったものとしかなりえない。

第一歩に “意識” を “魔力を知覚しうるまで” に 研ぎ澄ませること。
そのための最も基本的な修養は “瞑想” であろう。

第二歩に “感じた魔力” を方向付けるに足るまでに “意思” を強めること。
そのための最も基本的な修養も また、“瞑想”だ。


この第一歩、第二歩を正しく歩む過程において、
君はその適正に応じた形の “門” を開きえているはずである。

“門” が開かれないうちは、
“意識” と “意思” との修養が足りないと考え、さらに瞑想に励むがよろしい。

“門” を開きえたのであれば、
君の前には必ず “道” が現れ出でる筈だ。

それは “スクール” あるいは “師” との出会いでかもしれないし、
“魔術書” “術具” を得ることかもしれない。

君に適する術系統によっては、
それは “魔” と逢うことであるかも知れず、 “死” にさらされることでさえあるかもしれない。

あるいは真なる孤独こそが ただ、君の “道” であることもあろう。

が、いかなる形であっても。
“門” が開かれれば、“道” は既にして君の前にある。

もし “道” を見出せてないと感じるのであれば、それを捜し求めることこそが既に君の “道”だ。

迷わずに、その “道” を行きたまえ。
“道” を見出し歩き始めたその時点でもう、君はれっきとした “魔術師” だ。

君に必要な “呪文” も “術具” も、
君の “道行き” の、そのいずこかで ―― 必ずや君を“待って”いる。


そして、君がいかなる域下の “術系統” を……
即ち “魔術の経路” を歩むとしても、その行き着く果ては、ただ一点に集約される。

が、その “果て” に行き着くものは少なく。
故に、本講座でも、“果て”を語る必要はまだ無いだろう。


まず、第一は『意識』と『意思』とを磨くこと、だ。

そのために必要な知識について、次項ではより多くを語ってみることとしよう。


前講:「古典魔術の基礎」  /  次講:「魔力という流れ」