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<セーヌが流れる。 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る> 

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魔力を魔法となすために必要な要素をおさらいしてみよう。

体内を流れる魔力を、“門”から“外”へと導き出す。
それが魔法の第一歩だ。

では、果たして“何”が魔力を門へと導くのであろうか?
それは“意思”であり、“意識”の力だ。

しかし、よほどの素養を持つものでもなければ、
いざ、“魔術の修練”を始めようとしたこの段階で、
「はて」と止まってしまうことであろう。

なぜならば、“意思” と “意識” とをもって導くべき流れ――
すなわち “魔力” を、おそらくはその体内に “実感” できてはいないであろうからだ。


我々は、この講義の冒頭において、こう定義した――

【 『魔力』とは “生まれ、育ち、死すことが出来るもの全てが持つ、流れ” であり。
  なれど、“『門』から出でぬままには、何事たりともなし得ない力” である】 ――と。


ここでは、もう一歩だけ“魔力”について踏み込んだ説明を行おう。

【“魔力” とは “流れる何か” ではなく “流れ” そのものであるのだ】 という、補足説明を。



指折り数え、考えて見て欲しい。

我々が感じうる、我々のうちにある “流れ” とは、いかなるものであるのかを。

その一つは、血液である。
その一つは、呼吸である。
その一つは、時間である。

受け取るもの次第では “体温” に流れを感じるものもあるであろうし、
あるいは “感情” こそを流れと捉える者もあるだろう。

初回の講義でも説明したように、“気” を流れとするものもあれば、
流れを “プラーナ” と呼ぶものもあろう。


どう捉え、何と呼ぼうがそれは趣味の問題にすぎない。
【それらは、全て魔力】 である。

いささかの正確性を欠く事を怖れず、
より “感覚的な” あるいは世俗に親しい言葉を用いるのであらば――

それらは全て “魔力源” である。



もう一度繰り返そう。

【“魔力” とは “流れる何か” ではなく “流れ” そのものであるのだ】  ――と。



己の中の流れ全てを把握する必要は一切無い。

いずれの一つでも構わない ――

君にとって最も “意識” しやすい流れを感じ取り、
その “流れ” を “流れ” と知覚さえ出来たのであれば……

“血流” から “血液” を取り除き、 ただの“流れ” と知覚しうるに至ったのならば…… 

――その “知覚” こそが “流れ” と “魔力” とを結ぶ “等号” となる。



意思を持ち、意識し、知覚せよ。
瞑想し、瞑想し、瞑想せよ。

この段階を、他者の導きのみにによって踏み越えることは決してできない。

君にとっての “流れ” の本質は、
諸兄それぞれにとって “のみ” の、 “流れ” に他ならないからだ。




もし、仮に。
君達が修練と瞑想との果てに、
けれども "流れ” を見出せなかったのあらば――
君達の “魔術師への道" は、その時点で断ち切られてしまう。

が、しかし。
仮にそうであったとしても、
諸兄らにもまだ “魔法行使の可能性” は、
その体内に “流れ” が流れつづける限り、常に残りつづける。

―― “魔術師ではないものが行使する魔法”――
すなわち “無意識による魔法” が発現される可能性が。

魔術師たらんと志す君達にとって、
そのような話を聞くことは、あるいは まわり道のようにしか思えないかもしれない。

が、“魔術師への道” は 常に 螺旋回廊に他ならない。

一度は遠ざかるように思えても、
無理やり捻じ曲げようとせぬ限り、あるいは他者に捻じ曲げられない限りにおいて――
 “道” は常に、正しく進んでいるのだ。

なればこそ、次講では 【魔術における無意識】 についての説明を行おう。

“流れ” の全てを知れば、“静止” をも等しく知ることになる。

なれば “意識” を律するための有効な手段が、
“無意識” を知ることだとも、容易に理解ができようとも思う。

焦らず、“流れ” に身を任せたまえ。

ただ “流れ” こそが “魔術” の ―― 始まりにして終わりであるのだから。


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