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<確かにスプーンは曲がった。それは何故か。> 

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かの偉大なる先達の言葉を借用するまでもなく、我々は皆、知っている。
“この世界は非常に誤解しやすく、また誤解されやすい”ものである、ということを。

故に、魔術について語るのであれば、まず用語を噛み砕くことこそが必要となる。


たとえば、『魔術』。
『魔術』という、言葉そのもの。
その言葉の意味を、この国で最も代表的な辞書であるところの“広辞苑”にあたれば、

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1:魔力をもって行う不思議な術。「――にかかる」

2:大仕掛けの手品の称。

→――師【魔術師】


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という定義が返ってくる。

そこで『魔力』をあたればこうだ。



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人を迷わす怪しい不思議な力。

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・・・つまり、広辞苑によれば、『魔術』とは

“人を迷わす怪しい不思議な力”によって行う“不思議な術”。

という、ひたすらに不思議なだけの代物に成り下がってしまう。

『魔術』に親しまぬ者の理解は、まぁそのようなものだろう。

が、残念なことに、世に出回る あまたの『魔術書』にも
このようなあいまいな定義がはびこっていることもまた、事実だ。

結果、『魔術書』を精読しても、『魔術』について得られる理解は、
広辞苑によってのそれと似たり寄ったり・・・ と、なってしまうことも決して、珍しくは無い。

故に――まずは用語を噛み砕くのだ。

『魔術』を説明するためには、『魔力』を理解しなければならない。

『魔力』とは、広辞苑にあるような、怪しい不思議な力、ではない。
それは“生まれ、育ち、死すことが出来るもの”全てが持つ、ごくごく当たり前の力だ。

それを「マナ」と呼ぶものもいれば「ESP」と称するものもいる。
「生体エネルギー」「法力」「気」「サイ」「オーラ」「プラーナ」「波動」etc,etc……
呼び名によって、その人の好みが判別できてしまうほど、 実にさまざまに語られている。

が、その本質は同一だ。

『魔力』とは “生まれ、育ち、死すことが出来るもの全てが持つ、流れ”であり。
なれど、“『門』から出でぬままには、何事たりともなし得ない力”である――、と。

『魔力』はそのあるがまま、体内をめぐったままにおかれたならば、何の力も発揮出来ない。
何一つを変える力を持たない。
『魔力』が現実に、あるいは意識に作用するためには、
『門』をくぐり、体の外側に導き出されるというプロセスが、必要不可欠となっている。

それでは、『門』とはいかなるものだろう?
それもまた、さまざまな名で呼ばれている。
いわく「チャクラ」いわく「第三の目」、「なんとかゲート」「だれそれの門」「丹田」「パス」etc,etc――

それらすべては等しく、『門』で。
つまりは“『魔力』を体外へと導く出口”だ。

何らかの手段を用いて『門』から導き出され、
現実に、あるいは意識に影響を及ぼしうるようになった『魔力』を、我々は『魔法』と呼び。
そして、その『魔法』をよりよくコントロールするための術を、すなわち『魔術』と呼び習わしているのである。

呼び名は、単なる認識方法、そしてその差異に過ぎない。

“気”と呼ばれる『魔力』を“丹田”と呼ばれる『門』を通じて現実の力とし、
“寸勁”と呼ばれる『魔法』となして、外部に影響を及ぼす。
・・・“気功”と称されるそのプロセスも、つまりは『魔術』だ。

そこに本質的な差異はない。
しかし、<効率のよい>『魔力』の引き出し方の出来る『魔術』と、
そうではない『魔術』との差異は大きい。

いわゆる“ESP”とよばれる力の発現は、
全く系統立っていない、おおよそでたらめな訓練によっての『魔法』にすぎず、
消費される『魔力』に対し、 あまりにも小さな影響のみしか、現実に対してあたえられない。


故に、ここで定義しよう。
『魔術師』とは“<効率のよい>『魔術』”を納めた者の称号である、と。

その、“<効率のよい>『魔術』”も、またカバラによって整理される以前の『古典魔術』と、
カバラという座標軸を用いて術体系を整理されている『現代魔術』とに大別できるわけだが・・・
この章では主に、『古典魔術』の解説を行うこととしたい。


本講を受講する諸君が、その内に持つ『魔力』と最も相性のよい『魔術』と正しく出会う……
その一助となることを、願いつつ――。


次講:『魔術師になる方法』