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―― 事実は存在しない。 存在するのは解釈だけだ――
<魅了術>が体系的な魔術と認められるようになるまでには、 驚くべきことに十五世紀、アグリッパの登場を待たなければならない。 しかし、魔術以前の<魅了>は、それこそ<予見>と同じくらいに古くからあった。 それは、<邪魅><魔眼><邪視>等々と呼ばれ、キリスト以前から、 忌み嫌われ、払われるべきものとして存在していた。 「もし汝の目が邪であらば、汝の全身は暗黒に満ちる」 ――この一語が示すものこそが、まさに当時の<邪眼>であり、 それは“人の悪意の表れ”であり “弱気ものを捕える邪気”であり、 即ち、“呪い”と完全なる同義であった。 今日でもなお、"fascination"という単語は<呪う><魅了する>という二つの意味を等しく 備え、また、全てのラテン語圏においても、その二つの意味は一つの単語に込められている。 しかし、<邪視>の回避は、驚くほどに容易く行われるものでもあった。 <邪魅された者は、邪魅したものに唾を吐きかけられれば、その災いを逃れれることができる> というのは、最も広くしたれた<魅了>≒<呪い>の回避方法であり、 そこから、自分の顔をに唾を塗りつけることというまじないが発生し、 それは(邪魅の根源である)目元と、(邪魅避けの特効薬である唾を生み出す)口元とに 限定されるようなり――現在でも、“化粧”というかたちで受け継がれ続けている。 このように、限りなく広く、しかしそれゆえに浅くもあった“迷信”が実は―― <目を使い、相手に自分の意思と意識とを左様させ、相手の“意思”を操作する>という“魔術”が、 <呪い、もしくは性的な目的のためにのみ行われると定型化されてしまった>ものである ――と、先に述べたアグリッパは看過したのである。 彼は、自らの仮説に基づき 「その魔術系にもとずく魔法は、人に災いを与える、あるいは人を性的に捕える以外の “意思”をも、対象から引き出せる筈だ」 と考え、それをそのように行い。 また、「人以外の“意思”持つものにも、同様に作用する筈だ」と考え、そのように行った。 結果、アグリッパが “そのように引き出そうとした意思を引き出された”人なり犬なりは、 当時の人々に悪魔とみなされ、彼は召喚術師、あるいは万象術師と誤解されるようになった。 しかし――彼が為したのはただ、“魅了”のみであり、 その魔術を正しく理解したいくたりかの者たちによって、アグリッパ以降の “魅了術”は、急速に整備され、発展していった。 現在の、古典魔術における魅了術は―― <対象の意思と意識とを探る> <それを誘導する> <それを支配する> ――ことをその魔術根拠とし、 “災いをもたらす” “性的に魅惑する” ことのみを行ってた原初の魅了術 (fascination) との差異を明確なものとするため “taming”と呼ばれるようになった。 しかし、fascination、tamingともに “術者が対象の目を見る”ことが極めて重要な 魔法儀式のひとつであることは共通している。 無論、テイミングは、目だけでなく、言葉、接触、あるいは物を使っての誘導―― などによる魔法導入の業も発展させていったが――もっとも深く、もっとも強い “魅了”へと繋がる入口は、やはり、“目”である。 「人と話すときは、相手の目を直視し過ぎない」という、いわゆるマナーは、 無論、魅了を避けるための原初の習慣の名残りである。 逆にいえば―― 貴方の目をやたらに直視するものは、まず間違いなく (魔術的な意味でか、一般的な意味かまではわからないが)貴方を魅了しようとしている。 それに惑わされるためには、古来の風習に従い、目元に唾をぬり ――おっと、この国では確か“眉に唾をつけて”だったか―― ・・・正面から相手に向きあいすぎぬよう、注意することが無難であろう。 なお。 一部の強力な魔術家系(家系、と呼んでよいのかどうかはここでは問わない)には、 やはり“魅了術”とされる、極めて強力な魔術が代々伝承されていると知られている。 その“魅了”が、われわれの知るテイミングと同一のものであるか否かについては、 私は、残念ながら判断する材料を有していない。