White Note  夏休みが開けた、登校初日。逆休みボケとでもいえばいいのか、朝早くに目が覚めた。 久しぶりの学校は、正直、面堂な気持ちもあったが、やたら張り切っている母親に急か され、普段より随分と早い時間に家を出る。  だからそう、いつもより早い電車に乗ることになったのは、全くの偶然、気まぐれ だったのだ。  新学期ということもあって、部活で早く登校する生徒も少なく、車内は広々としていた ので、余裕を持って座ることができた。これが登校ラッシュの時間なら、座ることはおろ か、立っているだけでも窮屈な思いをすることになる。そう考えると、早く家をでるのは 悪くないかもしれない。とはいえ、朝早く起きるのも、それはそれで辛いので、まあ、で きても週に一度程度だろう。  そんな、新学期の抱負を唱えていると、ふと、視界の片隅に、一人の少女の姿が写った。 ドアの側、三人がけの座席に一人で座る制服姿の少女。 どこの制服かはわからない。歳の頃は、僕の上とも下とも捉えられないが、雰囲気は 少し大人びて見えた。  黒髪から覗く赤いイヤホンが印象的だった。  気がつくと、斜め遠く向かいに座る少女の横顔を眺めていた。  物憂げに窓の外を見つめるその姿に僕は惹きこまれていた。  彼女がどんな景色をみて、何を思っているのか。  そして、あの鮮やかな色をしたイヤホンで彼女が何を聴いているのか、気になった。  彼女は時計に目をやり、そのまま車内に視線を巡らせる。  見ていたのに気づかれたのだろうか。  思わず目を逸らして、なんでもないふうを装うが、内心は焦りが止まらなかった。それ でも、目の端に彼女を捉え続けて、彼女の顔が再び窓の外に向けられるのを見て安堵する。  やがて、電車が学校の最寄り駅に着き、僕は電車を降りる。  彼女の前を通り過ぎた時も、彼女の姿勢は変わらないままだった。  それから何度か、彼女の姿を見かけた。  彼女はいつも同じ時間の同じ車両、同じ席に座っていた。あいにく僕は、早起きは得意 ではなかったので、彼女と同じ電車に乗り合わせるのは、週に二度か三度といったところ だった。  それでも、数度彼女を見かけてからは、僕も意識的にその時間には、同じ車両に乗る ようになっていた。電車に乗るロ軽く車内を見回し、彼女の姿を見つけては、少し離れた、 彼女が見える位置に座る習慣がついた。  ある日の朝には、こんなこともあった。 「珍しいな、お前がこの時間に乗ってくるなんて」  クラスメートの真嶋だった。 「そうでもないよ」 「何言ってるんだよ、一学期の頃はむしろ遅刻ギリギリの時間にばっかり乗ってただろう が」  そこを突かれると何も言えない。 「なあ、真嶋……あの制服ってどこの制服か知ってるか?」  彼女に気付かれないように小声で背を向けて指をさすかたちで聞いてみた。 「なんだよ、お前、あの娘が気になってるのか」 「そういうのじゃないよ、ただ気になっただけで」 「気になってるんじゃないか」 「制服の話だよ」  自分で言ってて、それはそれで誤解を招く発言だと思った。 「まあ、知らないこともないけどな。制服マニアの間では結構有名だぜ」  こいつの言っていることも、いろいろと問題があると思ったが、そこは情報を快く出し てもらうために、黙っておいた。  真嶋が言うに、彼女は僕達の降りる駅からいくつか先の駅の近くにある有名私立校の 生徒らしい。僕達の学校と比べて偏差値も高く、上流家庭の子が多く通っているそうだ。  中流か……。言っていて真嶋も悲しくなってきたらしい。 「やめとけやめとけ、どうせ俺達なんかじゃ吊り合わない相手だ」 「だから、そういうのじゃないって言ってるだろう」  結局この日は、真嶋と話してばかりだったので、彼女の姿をまともに見ることができた のは電車を降りる時の一瞬しかなかった。  それから数日が過ぎた。朝が早いことにも大分慣れてきたある日、彼女が乗っている 車両に踏み込んだ僕は目を疑った。いつも彼女が座っていたはずの場所には、だれも座っ ていなかった。それだけならば、まあこういう日もあるだろう、で済ますこともできただ ろう。しかし、彼女の指定席を望む特等席、すなわち、僕がいつも座っていた座席には、 先客がいた。  長い黒髪の隙間に赤いイヤホンを潜ませた、彼女が座っていた。  彼女は、僕が乗ってきたことに気づいていないように、顔を、普段の彼女の特等席に向 けている。  このまま回れ右をして、別の車両に移ることもできた。しかし、気づいた時には足が 勝手に動いており、彼女の横に腰掛けていた。 (どう考えても、悪手だろ)  広くて余裕のある車内で、わざわざ隣の席に座るのは、あまりにも不自然だった。  僕の頭の中の叫びを聞けば、いかにテンパっているかは想像に容易いだろう。自分でも、 なぜこうしたかはわからない。  はじめて間近で見る彼女の姿。耳を覆うフック型のイヤホンの金属パーツが彼女の顔の 横で鈍く光っていた。 「よく見えるものね」  思わず聞き返そうとしてしまったぐらいに小さな彼女の声。顔は、未だに向こうを向い ているが、どうやら僕に向けられての言葉らしい。 「別に、君を怪しんでいたわけじゃないよ。ただ、君は私のこと、どんなふうに見ていた のか、興味を持っただけ」  ここで、ようやく彼女は顔を僕の方に向ける。いつも窓の外に向けられていた瞳が眩し く感じて、顔を逸らしそうになるが、どうにか首が回るのを押さえつけた。  正面から見る彼女の顔は、とても綺麗だった。 「……イヤホン」 「えっ?」  あまりの緊張で、小さな声で話す彼女より、更に小さな声を出すのが、精一杯だった。 彼女が耳を傾けてきたので、自然と、口に出したイヤホンが目の前に来る。 「……そのイヤホンで、何を聴いているのかな……って」  ようやく出てきたまともな言葉に、彼女はお目を丸くして僕を見る。そして、すぐに小 さく吹き出した。それは、いつも冷めた目で窓の外を見つめる彼女とは違う、僕が初めて 見た笑顔だった。 「面白いことを聞くね、君は」 「そ、う、かな?」  想像していなかった評価に、また声が上ずる。 「じゃあ、こうしよう。私がいつも、何を聴いているかを当ててみて」  そんな僕の様子を見ながら、楽しそうに彼女はそういった。彼女とは対照的に、どんど んと重くなる。 「そんなの、わかるわけがないじゃないか。僕は君が、」 ――どんな音楽が好きなのかも知らないんだぞ。 そう言おうとして、言葉に詰まる。音楽だけじゃない、僕は、彼女のことについて、何も 知らなかったのだ。一応、制服のことは除くけど。 「いいじゃない、ちょっとしたゲームみたいなものと思えば。もし当てることができたら、 そうね、ひとつ君の、いうことを聞いてあげるわ。タイムリミットは、君が電車を降りる まで」  彼女は腕時計をちらりと見て言った。 「僕が当てることが出来なかったら?」 「そこまで私も酷くはないわ。私が勝っても、ペナルティはなしでいいわよ」  はじめから当てられるとは思っていないのだろう。とりあえず、僕が不利になることは ない以上、彼女のゲームに乗らない理由はなかった。僕が降りる駅まではあと3つ、残り 時間は5分弱といったところだろうか。 「回答は何回でもOK、。といっても、当てずっぽうじゃ大変よね? それじゃあ、3回ま で私に質問をしてもいいことにしましょうか」  次々とルールが追加される。こうなったら、どうしても当ててやりたい気分になって くる。  とりあえず、まずは彼女の耳のあたりからなにか聞こえないか耳を澄ましてみる。電車 内なので当然だが音が漏れている様子はない。 「そういえば、いつも聴いてる曲、って言ったよな。それは、つまり毎日同じ曲を聞いて ると考えていいのか」 「良い質問ね。答えはイエス。私のフェイバリットと言っても過言ではないわね」 「そればっかりを聴いているのは、飽きないのか」 「それは別の質問でいいのかな? 答えはノー。時に楽しく、時に哀しい。どんな気分の 時にでも、合う一曲よ」  そんな都合のいい曲があるのだろうか。どんな状況にもよく合って、飽きが来ない。 まるで白米だ。  さて、質問は2つ使ってしまった。ここで、もう一度彼女について思うところを整理し てみる。機能までの彼女の印象は、大人びている、どこか儚げ、無表情、といったところ だろうか。それから、今日、今彼女と話してみてガラリと変わった。特に感じるのは、 ルールを述べた時の整然さ。文系か理系で言うなら理系的といえるだろう。  ここまで考えてはみたものの、どうやら材料が足りなさすぎるようだ。降車駅は近づい てきている。それまでに、彼女が聴いている曲を推理して当てるということは常識的に考 えて、不可能だった。  だが、それでいいような気がしてきた。  彼女はいった、これはゲームなのだと。ならば、最後まで楽しんでやるのが、参加者の 義務なのだ。 「なあ、最後の質問をしていいか」 「これは質問じゃないわよね」 「当然だ。まあ、質問はこうだ。どうして、今日に限って、俺に話しかけてきたんだ」  最後の質問を聞いて、彼女はとたんに顔を下に向けて、手を弄り始めた。今までの明朗 さを失い、まるで恥ずかしがってるみたいである。 「その……楽しそう、だったから」  消え入りそうな声で答えが帰ってくる。  楽しそうだった。僕が?  彼女が、知っている限りで僕が楽しそうだったという時というのは一体……。 「まさか……真嶋か?」  彼女は答えない。しかし、指弄りが大きくなって入るのを見るとどうやら正しいようだ。 「聞こえていたのか」  あの会話が聞かれていたと思うと、むしろこっちが恥ずかしい。  僕は、いつも彼女が座っている席に目をやる。  いくら、普通にしゃべっていたとはいえ、これだけ離れているとなると、よっぽど聞き 耳をたてないと会話などは聞こえそうにない。ましてや、イヤホンで音楽を聴いている 状態で聞こえるものだろうか。  いや、もしかして。 「聴いて……いない?」  僕は彼女のイヤホンをもう一度みつめる。 「あと、何秒残っている」 「なんの話かな?」 「君の聴いてる曲の話だ。君の聴いている曲は――『4分33秒』だろう?」  その時、電車が停まりドアが開いた。 『4分33秒』は、1952年にジョン・ケージが作曲した。その楽譜には、休止しか書かれて いない。しかし、それは無音を意味するのではない。演奏時間中、「そこにある音」を すべて音楽として扱うのだ。  彼女がこれを好む理由は分からない。だが、電車の窓に流れる景色を電車内に溢れる音 を聞いて愉しむというのは、彼女に似合っているような気がした。  彼女が、ポケットから取り出したイヤホンの先には、何も繋がっていなかった。 「私は、いささか耳が良すぎるのよ。だから、こうやって少しだけ耳をふさいでいるの。 でも、まさか当てられるとはねー」 「時間はギリギリだったけどな」  確かに、時間までに正解は出した。しかし、電車を降りるには少し考えすぎたのだ。 幸いにして時間は早い、折り返してもまだ授業には間に合うだろう。 「さて、約束は覚えているだろうね」  約束というのもちろん、ゲームのルールにあったご褒美である。 「わ、わかってるわよ。ででもあまり変なのはやめてほしいな、なんて……」  また言葉を消え入らせながら指を回す。どうやら恥ずかしがっているポーズのようだ。  僕は、小さく微笑むと、ずっと彼女に聞きたかったことを口にする。 「君の名前を、教えてくれないかな」