『白鳥の卵』/achro、re-written by KAICHO


 汚れのない白鳥に――君は、なりたい。

 白く輝く翼を大きく羽ばたかせ、
 何にも束縛されず、自由に大空を駆ける美しい白鳥に――。
 君はなりたい、そうだね?

 見渡してごらん、辺りは大きな湖。
 吐く息は白く、木枯らしにさざめく湖面はきらきらと輝いて──。

 足を高く上げて。
 そう、その姿勢だ。

 さあ、大きく息を吸って。
 もっと深く、ふかぁーく。

 君は今、湖の上。
 悪い悪魔に魔法をかけられて――
 水面に映るのは、全身真っ白な、白鳥の姿。

 翼を広げて。
 そう、その調子。

 君は今、美しい白鳥だ。

 さあ――

 大きく羽ばたいて――


******


 バレエ『白鳥の湖』の公演が迫っている。
 今月中には、キャストが決まるのだという。

 毎週かけている催眠。
 普段よりも一層、気合いを込めて暗示をかけた。

 ――里奈が主役になれるように。
 見る者全てを魅了する優雅な演技ができるように。

「んん……」

 気怠そうな声は、彼女のものだ。
 そろそろ、目を覚まそう。

『今から、階段を上がっていくよ。
 私の手を取って――
 一つ、二つ――
 一段上がるごとに、君は目覚めに近づいていく』

 丁寧に、丁寧に。
 決して傷つけることのないように。

『――さぁ、もう一息。
 私が手を叩くと、君は目覚める。いいかい?』

 パンッ!

 耳元で軽く手を叩くと、里奈はゆっくりと目を開いた。

「あ……」

 うわごとのように呟いた後、

「……あー、私、また眠っちゃってた?」

「ああ」

 微笑むと、里奈は照れた様子ではにかんだ。

 ここは、私の経営する病院。
 患者が少ないので、里奈は暇つぶしがてら遊びに来ている――ことになっている。

「最近、疲れてるからなー。
 あ、言ったっけ? 私、次の舞台で『白鳥の湖』の主役を狙ってるんだよ」

 もちろん、知っている。

「へぇ……」

 けれど、不自然にならないよう、少し驚いてみせた。

「ライバルに負けないよう、がんばらなくちゃ!」

「──主役かぁ。そんな大役を狙えるようになったのか」

 感慨深げに呟いてから、一言付け加える。

「なのに他人んちで居眠りなんて、余裕だな」

「ふっふっふ、優雅な白鳥も、水の中では一生懸命足を動かしているのよ」

 ……使い古された表現を持ち出すなよ。

「知ってる? 『白鳥の湖』の主役は一人二役なの。ヒロインの白鳥と、もう一人の黒鳥を演じるのよ」

「へぇ、そいつは大変だな」

 これも知っている。

「ああ! これで私が主役を見事演じきったら、どこかプロのバレエ団からお声がかかったりしないかしら!?」

 里奈は目をきらきらさせながら、指を組んで天井を見上げながらそう言った。 

「やる気満々だな。大学の頃は、人間役すらもらえなかったくせに」

「あーっ、ひどい!
 っていうか、妖精とかリスとかだって、重要な役なんだから!」

「はいはい」

 当時から、彼女には他人と違うオーラがあった。
 どんなに小さな役にも深く入り込み、いつもの彼女からは考えられないほど多彩で艶やかな表情を見せてくれる。
 特に、強く印象に残っているのが――

「『ジゼル』、だったよね」
「ん?」
「孝弘が初めて観てくれたのって」
「ああ。そうだったかな」

 ――そう、『ジゼル』。

 大学の頃、同じゼミ生だった里奈に誘われて、里奈のバレエの発表会を観に行った。
 あまり期待はしていなかった。
 演者もプロではないから、どうしたって、緊張で強ばった顔、逆に自信に満ちた顔――そういった、素の自分が切り離せない。
 しかし、素人目にも、はっきりとわかった。
 一人、里奈だけは――身も心も森の精霊になりきって、優美な、妖艶な表情で――艶やかな演技を見せてくれた。

「あの時私、振りを間違えまくったんだよね。気づいてた?」

「……どうだったかな」

 ――もちろん、すぐにわかった。
 でも、いくら振り付けを間違えようと、彼女は変わらず「森の精霊」だった。

「結構ひどかったみたいでさ。
 後で先生にこってり絞られたよ」

 笑って言うが、私は覚えている。
 左端の席だったから、たまたま見えたのかもしれないが――
 舞台袖に消える直前、精霊から元に戻った彼女は、
 一瞬、ほぞを噛むような表情を浮かべた。

 それだけで、彼女がその発表会に向けてどれだけ努力してきたか、はっきりとわかってしまった。

「まあ、自業自得なんだけどね」
「…………」

 その日から、彼女に魅せられて。
 そして……

 ――彼女を、スターにしたい。

 そんなことを、思うようになった。

「ねぇ、今度、練習見に来てよ」
「えぇ?」

 不意を突かれ、奇妙な声を上げてしまう。
 慌てて平静を装うと、里奈はニヤニヤしていた。

「……ええっと、いつ?」
「来週の木曜日とか、どう?」
「オーケー」

 軽く返事。

 ……里奈が帰った後、スケジュール表で仕事がないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。
 仕事があっても行くつもりだったけど。


******

 木曜日。病院を閉め、里奈の通っているバレエ教室へ向かう。

「ふぅ……」

 駅から五分の道のりだが、ずっと上り坂が続いていて、息が上がる。
 よくもまぁ、里奈は毎日こんなところに通うものだ。
 本業で疲れているはずなのに───。

 化粧品のセールスも、色々大変な仕事らしい。
 しかし、彼女は決して、仕事の愚痴は吐かない。
 それを言い訳にしたくないのだという。
 といって、趣味が本業に変わる可能性も、極めて低いのだが――

 だからこそ、応援する価値がある。

 決意を新たにしたところで、教室に辿り着いた。

「――失礼します」

 そっと扉を開けると、もう練習は始まっていた。

 思っていたよりも、騒々しい。

 本番前ということもあるのだろう、ことあるごとに講師の怒声が響き渡り、その度に生徒たちはびくっと体を強ばらせる。
 どうやら、怒声の大半は、里奈と、もう一人の若い女性に向けられているらしい。

 顔立ちの整ったその女性は、「れい」と呼ばれていた。

 彼女の動きをしばらく眺め、
 里奈のような感動を覚えないことを確認して――
 落胆と安心の溜息をついた。

 馬鹿馬鹿しいとわかっている。
 しかし、バレエダンサーを見る度、こうして里奈の唯一性を確かめずにはいられない。

「里奈、もっと肩の力を抜いて!」

 怒号に呼び覚まされ、舞台を見上げる。
 額に汗を浮かべた里奈は、少し疲れているようだった。

「自分で、白鳥の枠を狭めないで!」

 ……?

 今のは、……?
 里奈は、暗示によって人一倍自由奔放な白鳥を演じているはずなのに。

「あなたにとっての、白鳥のイメージは?」

 そんな質問が聞こえる。

「あの、……大きくて、優美で――輝いていて……」

 里奈は自信なげに答える。

「そんな一般的なイメージじゃない!
 あなたの、あなた自身のイメージは!?」

「…………」

 押し黙ってしまった里奈を、私は直視できなかった。

 

 練習が終わり。
 駅までの道を、二人横並びで歩く。

 あれから叱られ続けた里奈は、すっかり肩を落としていた。
 なんと言葉をかけようか悩んでいると、彼女の方が先に口を開いた。

「ねぇ、今日孝弘、玲ちゃんの方ばっかり見てたでしょ」
「……は?」

 とんでもない、と手を振るが、
 里奈はぶすっとしている。

「呼んだの、私なのに―! ライバルの方にお熱だなんてー!」
「いやいや、見てないって」
「ウソ。だって玲ちゃん、美人だもんねー」
「あのなぁ……」

 聞く耳を持たず、すたすた歩いていく里奈を、急ぎ足で追いかける。

「玲ちゃんは、すごく小さい頃からバレエやってた、エリートなんだよ。
 人気だって、すごいんだから!」

 そこまで言って、里奈の語勢が急に弱まる。

「本当、私なんかより、全然……」

 前を歩く背中が、少し小さく見えた。

 ――放っとけないなあ、このプリマは。

「……疲れただろうし、ちょっと寄ってくか?」

 差し示したのは、小さな喫茶店だった。

 


 閉店間際で客の居ない店内。
 ジャズが静かに響く店の隅の小さなテーブルで、私は里奈の愚痴に付き合わされていた。

「玲ちゃんは、ちょっと怖いけど、真面目なんだよ。ちょっと怖いけど」

「ああ、そう……」

「私、嫌われてるっぽいんだよね……。バレエ始めたの高校からだからさ。努力してきた時間が、圧倒的に違うの」

「へぇ……」

 適当に相づちを打ちながら、機を窺う。

「まー、そんなこと言っても今更どうしようもないんだけどねー」

 言って、ブラックコーヒーをちびり。

「……そういえばさ、面白い手品、知ってるんだけど」

 話が尽きた頃合を見計らって、そう口火を切った。

「えー、手品? 孝弘がーっ?」

「そうそう。意外?」

「意外ー」

 BGMのおかげで、多少の物音なら周囲に迷惑をかけることはなさそうだ。

 ボッと、ライターの火を点ける。

「……この火を、じっと見て。中央の――赤い部分」

 定番の催眠導入、凝視法だ。

『ゆらゆらと揺れているね。目で追いかけてみて。
 そうすると、ほら、だんだん、目が離せなくなってくる……』

 何度も催眠を経験しているだけに、かかりも早い。

『周囲の騒音も、耳に入らない。
 私の声しか聞こえない――』

 疲れもあってか、すぐに里奈は催眠状態へ入っていった。

 ――そろそろ、大丈夫だろうか。

『……いいかい、目を開けて。今は、レッスン中だ。
 君は今、舞台の上で、出番を待っている』

 まずは、さっき叱られていた所から。

『君の、白鳥のイメージは?』

「大きくて、優美で――輝いていて……」

『……オーケー。
 じゃあ、もっと細かいイメージを作っていこう。いい?』

「……うん」

 頷いたのを確認して、話を進める。

『『白鳥の湖』の白鳥は、清らかな乙女だ。
 悪魔に騙されて、鳥の姿に変えられているけど、それでも真心を失わない。王子の愛を、ひたむきに信じる、天使のような存在だ。
 翼も、そんな性格を象徴するかのように、汚れのない白に染められている』

「ん……」

『わかったね?』

「うん……」

 心なしか、返事が鈍い。

『……大丈夫。君ならできる。
 ――いや、現に今、できている。
 そうだね?』

「はい……」

『……それじゃあ、次。
 場面が変わって――今度は、王宮の舞踏会。
 黒鳥の出番だ。
 さぁ……着替えも終わった。準備はいい?』

「はい」

『黒鳥――君は今、真っ黒な鳥だ。
 悪魔の娘で、白鳥と姿こそ似ているものの、中身は全く違う』

「うん……」

『王子を貶めるために、彼女は城へやって来る。
 白鳥のふりをして、王子を誘惑するんだ』

 しかし、王子も間抜けだよな――
 姿が似ているだけで白鳥と黒鳥を見間違えるなんて、主人公としては失格だ。
 白鳥がどれほど失望したことか――。

『……黒鳥は顔つきこそ美人だけど、性格は良いとは言えない』

 少し、「玲」という女性のことを思い出す。

『強気で美しく、けれども残忍で――胸の内は悪趣味な喜びに占められていて、生まれながらの悪といえる』

「んん……」

『さあ、演じてごらん。身も心も真っ黒な――黒鳥を──』

「……いや……」

『え?』

 初めて、彼女は首を横に振った。
 何度も、何度も。

「違う……そんなに、悪い人じゃないの」

『……黒鳥が?』

「そう……」

 里奈はゆっくりと語り出す。

「悪魔の娘だから、お父さんに逆らえなくて、王子を騙すけれど――
 心の中では、苦しんでいるの。
 強気な誘惑の裏で――王子を想って。白鳥よりも、自分を選んで欲しいって」

『…………』

 無茶苦茶だ。
 原作では、黒鳥の背景は語られていない。
 すべて想像に過ぎない……けれど――

「本当は、黒鳥も、王子に憧れているの。
 憧れて、白鳥の振りまでして――それでも、王子は結局、白鳥を選んじゃうの」

 荒唐無稽で、主観的ではあるけれど……しっかりとしたイメージ。

 つと、気付いた。
 ――こんな風に、役に入り込んで演技するのが、里奈の良さではなかったか?

 それが、私が魅せられた里奈ではなかったか?

『…………』

「……」

 いつの間にか、里奈の吐露は終わっていた。
 目元に、うっすらと涙の跡が見える。

「……入り込みすぎだ、バカ」

 ぼやいて、私はため息を一つ。
 しばらく考えて、当然のようにその結論に至る。

 そしてそれを胸に、口調を戻した。

『…………これから、もう一度、暗示をかける』

 ゆっくりと、宣言する。

『大事な、大事な言葉だから、
 よく耳を傾けて――?

 ……さぁ、深い、深いところへ――入っていこう』


******


 舞台は大成功だった。

 白鳥の場面では、優美に、清らかに――けれど、悲しみを潜めて。
 黒鳥の場面では、荒々しく、けれど、哀しみと優しさとが、仄かににじむ。

 そんな里奈の演技は、満員の観客のスタンディングオベーションを受け――
 大歓声の中、最後の舞台挨拶の中央で、彼女は恥ずかしそうに頭を下げた。

 私は、最後尾の席から静かに立ち上がり、一人、拍手に包まれた会場を後にした。


『……君にかけたすべての催眠が、解かれる。
 君はあらゆるものから自由になって――
 自分の思うように、演技が出来る。

 ……自信を持って。
 君は――世界一の、バレリーナだ』


「最後のは、サービスが過ぎたかな」

 ぼうっと虚空を眺めて呟く。
 私の役目は、終わった。

 王子は、白鳥と黒鳥を見分けられなかったけれど。
 私だって、里奈を全く理解していなかった。

『汚れのない白鳥に――君は、なりたい?』

 催眠を解く前に、里奈に聞いてみた。
 里奈ははっきりと首を横に振った。

 はじめから全て、間違いだったのだ。

 

 明日からは、一観客として、彼女を応援しよう。

 『最初のファンなんだから』

 星空を見上げながら、そう呟いた。

<了>