タイトル:『…に、願いを』 by KAICHO  年甲斐もなく、七夕に願いをかけた。  庭に自生している笹の小群落に、そのまま、小さな短冊を一つだけ。 『カナが幸せになりますように』 ===========================================================  Yシャツにエプロンを羽織るのにもすっかり慣れた。  ご飯と、味噌汁と、玉子焼きと沢庵だけの朝食。最初は作るのに苦労したが、 今は20分もあればそろえることができるようになった。  ───こんなことで時の経過を知るなんて。  苦笑していると、廊下向こうの障子が開く静かな音がした。  そこに佇むのは、小学校の制服を着た少女。 「おはよう、カナ」 「……おはよう、パパ」  そんな当たり前の言葉で始まる私たちの朝は、しかし、言葉とは裏腹に、いつも暗澹 としている。  カナを迎える私は、満面の笑顔。  対してカナは、能面のような無表情。  食器の擦れる音と、柱時計の振り子の音だけが響く。  カナと、二人だけの朝食。  この一年、会話はほとんどない。あったとしても、一方的に私が喋って終わり、 ということが殆どだ。今日も、そんな様相だった。 「明日は七夕だよ」 「……うん」 「晴れるといいね」 「……うん」  笑顔で話しているはずなのに、胸が、痛い。 「七夕のお願い、あるかい?」  あるわけがない。一年間、欲しいものはないか、行きたいところはないか、何度も 聞いてきた。答えは決まって『否』だったのだから──。 「……あるよ」  意外な返答に、つい、箸を止めてしまった。 「へぇ、そうなんだ」 「……うん」 「叶うと、いいね」 「……うん」  予想外の返答はあったものの、いたたまれない空気は変わらなかった。  私は耐え切れなくなってカナを追い立てる。 「さ、もう時間だ。学校に行きなさい」 「……うん」  ランドセルを背負ったカナが、玄関で私に挨拶をするのが通例だ。 「……いってきます、パパ」 「いってらっしゃい、カナ」  玄関の引き戸が閉まり、その向こうのカナの影が消えたのを確認して、私はため息を 一つ。  わかっている、原因は分かっているのだ。  でも───。  カナはよく笑い、よく泣く子だった。  あまりに表情が豊かだったので、「普通の顔」を寝顔以外で知ることができなかった くらいだ。  そんな子が、あの日、あの時から。  時が止まったように、表情を無くしてしまった。 ==========================================================  サラリーマンの一日は、長い。  会社では、毎日全力で仕事をこなす。それでも、帰宅するのはいつも夜九時ごろ。  それから、食事の準備と、洗濯、風呂掃除。  家事を終えるのは深夜一時を過ぎたころ。それから泥のように眠る毎日。  カナが少しずつ手伝ってくれるようになって助かっているが、彼女に任せきりに するわけにはいかない。  これは、私の義務なのだから。  七夕だから、なんて言い訳が通用するはずもない。  仕事が立て込み、今日はいつもに輪をかけて遅くなった。最寄り駅を降りた時には、 既に夜十時を回っていた。  カナが、家で待っている。腹を空かせているだろう。早く、帰らねば。  小走りに家路を急ぐ。  門柱を通ったところで、異変に気づいた。  家が、真っ暗。  慌てて玄関扉に手をかけるが、鍵がかかっている。 「カナ!?」  鍵を開けるのももどかしく家に転がり込み、大きな声でカナを呼ぶ。返事はない。 「カナ!」  居間と台所を確認した後、カナの部屋へ。ランドセルは机にかけられ、制服は きちんと壁からぶら下げられている。  学校から帰って、外出したまま、戻っていない?  もうすぐ夜十時半。そんな遅くの外出を許してはいない。それに、今までこんな 時間に家に居ないことなどなかった。  ふと、壁にかかったカレンダーに視線が止まった。  七月七日、今日に○印。  私は、背広のまま、家を飛び出した。  たどり着いたのは、家から随分離れた、街を見下ろせる小さな丘の上。  墓石が静かに建ち並ぶその場所に、果たして、少女は居た。  白いワンピースを着たカナが、薄暗い街灯に照らされて、闇の中にぼうと浮かび 上がっている。  それは消え入りそうに儚く、脆い硝子細工のようで。 「……遅かったね、パパ」 「ごめんよ、カナ」  街灯の下で、カナの表情が緩んだように見えたのは、気のせいだったのか。 「───ママに、会いにきてたのか」 「うん」  視線を横にやると、そこには、真新しい小さな墓石が一つ。  そう、ここは、妻の墓の前。  ちょうど一年前、七夕の日。  もともと病気がちではあったが、風邪をこじらせ、しばらく入院したあとに、 あっけなく逝ってしまったのだった。  殆ど居ない親戚が集まった小さな通夜でも、妻が火葬される時も。  カナは、泣かなかった。  母を亡くしたことを理解するには小さすぎたのだろうか。 「悲しかったら、泣いていいんだよ」  そう言った私に、 「……ううん」  無表情のまま、カナが首を横に振ったのを、鮮明に覚えている。  あれから一年。カナは、母と一緒に表情を失ったままだ。  口数も極端に少なくなり、時折ぼんやりと宙を見上げる姿に、私の胸は潰れそうに なる。  だからこそ、私は笑顔を絶やさないできた。  カナに、表情を取り戻したい。  心から笑って欲しい。心から泣いて欲しい。  だから、私が笑っていなければ。  そうしないと、カナは本当に感情を失って、笑い方や泣き方まで忘れてしまうような 気がしたから。  カナは墓石に向き直って、私の方を見ずに言った。 「ママに、お願いにきたの」 「お願い?」  カナはこくりと頷く。 「七夕のお願いかい?」  また、こくり。 「七夕のお願いは、織姫と彦星にかけるんだよ。ママにお願いしても……」 「だって」  カナは私の言葉を遮り、視線を落として言う。 「七夕の神様は、お願いを叶えてくれないもの」 「───どうしてだい?」  ……。  しばらく黙っていたカナが、やがて口を開く。 「───あのとき、ママを助けてって、お願いしたのに───」  私は息を飲んだ。 「それは……」  この子は……。  願いが叶わなかったと知ったとき、どれだけショックを受けただろう。 『七夕の神様は、願いを叶えてくれない』  それは、カナにとっては一年前から「事実」になった。  なんて、……辛い。 「だから、私のお願いはママに叶えてもらうの」  カナはまた、妻の墓石に視線を移す。 「でも、ママはもう……」  私が現実を告げる前に、カナは言った。 「その代わり、ママのお願いはわたしが叶え続けるから」 「───ママのお願い?」  聞き返してしまう。  妻に願い事があるとすれば、それは私が最後に聞いたあの───。 「最後に会った時、ママが言ったの」  カナがこちらを向いた。 「『泣かないで』、って」  体中に鳥肌がたった。  叫びたいほどに視界が狭まった。  そして、一瞬で理解した。  それが、今のカナの呪縛なのか。  葬式でカナが泣かなかったのは、そのせいか。  表情を失ってしまったのは、そのせいか。  悲しかったろうに、泣きたかったろうに。  そうやって無理矢理悲しみを押し殺して───、  感情を押し込めて、外に出ないように───、 「わたしは、これからもママのお願いを続けるから、心配しないで」  カナが薄ぼんやりと笑った、ように、見えた。  違うんだ、  そうじゃないんだ!  本当に、ママが伝えたかったのは……!  私の声は声にならない。  街灯が照らす範囲の外に、吸い込まれるように。  伝えたいことが言葉にならない。  一年間もそれに耐え続けたカナを救いたい気持ちと、  一年間もそれに気づくことができなかった自分を責める気持ちと、  それらがごちゃごちゃになって、声が出ない。 「───だから、」  カナは続ける」 「だから、私の願いはママに叶えてもらうの」 「……カナの、お願いは、なんだい?」  やっとそれだけ、搾り出すように口にする。  そして、カナの次の言葉に、私は耳を疑った。 「『パパが笑顔になりますように』、って」  ───は。  ───はは。 「な、何を言っているんだい? パパはいつも笑っているじゃないか、お願いなんか しなくても……」 「違うの」  カナの声が凛と響く。 「───何が……?」  額に、脂汗が、止まらない。 「───パパが笑ってるのを見ると、お胸がきゅーってなるの」  心臓がばくばくと音を立てる。  耳の奥で、血液が流れる音がする。  視界が歪んで、頭がふらふらと揺れる。 「パパ、楽しくないのに笑ってるように見えるから……」  ───やはり、  ───そう、見えてしまっていたのか。 「……それは、」  違う、とは言えなかった。  カナのために、とも言えなかった。  こんな子供に、猿芝居を見抜かれて。  最初からカナは感じていたんだ。私の負担が大きいことを。  それを歯がゆく思いながら、  一方では妻の『お願い』に蓋をされて。  がんじがらめになって、表情を失うしかなかったのか。  守っているつもりで、傷つけている。  その事実が、胸に、痛い。 「カナ」  ああ、七夕の神様。 「ママの願いは、カナが泣かないことじゃないよ」  どうか、私と妻の気持ちがカナに、 「……そうなの?」  カナに、正しく伝わりますように。 「最後にママはパパにこう言ったんだ」   「『カナが、幸せになれますように』、って」  カナが目を見開くのが見えた。  そう、それが、私と、妻との本当の願い。  何度も病室で話し合った末に、たった一つ望んだこと。 「いつまでも泣いてちゃ幸せになれないだろう? だからママは、泣かないで、って 言ったんだ」 「……」 「でも、悲しいときは、泣いていいんだよ。嬉しいときは、笑って。幸せになるって、 そういうことなんだから」  カナが、肩を震わせていた。  その目から、光るものが落ちる。  顔をゆがませてカナが泣いているのを、一年ぶりに見た。  私はとても、安心して、安堵して。  つい、微笑んでしまっている。 「ママのお願い、カナが叶えてあげて」 「うん」 「そのかわり、カナのお願いは、パパが叶えるよ」  笑う。心の底から。 「パパの笑顔は、見てて悲しいかい?」  カナが視線を上げて私を見た。  涙の跡があったが、それは街灯の薄明かりの下で、淡く煌き、 「ううん、今はちっとも」  確かに、カナも微笑んでいた。  帰り道。  一年ぶりに手をつないで家に帰る道すがら。 「パパは、ママが好き?」  急に聞かれても、今なら、照れることなく答えることができる。 「大好きだったよ。いや、今でも大好きだ」 「私も、ママ、大好き」 「うん、そうだよね」  そこでふと、私は真顔に返る。  歩を止めて、カナの方を見ながら、言う。 「でも、もうママは居ない」 「……うん」 「忘れちゃいけない。でも、少しづつ、変わっていこう」 「……うん」  カナは私の手を握ったまま、空を見上げる。  満点の星空に、天の川、そして織姫彦星。  七夕の星々が願いを叶えるというのは、あながち嘘でもないのかもしれない。 =====================================================  庭にある笹の小群落には、小さな短冊が二つ、揺れている。 『カナが幸せになりますように』 『パパがえがおになりように』 <了>