『のきばにゆれる』
(『…に、願いを』 by KAICHOを進行豹がリライト)

 Yシャツの上からエプロン。
 そのアンバランスな格好にも、すっかり慣れてしまった。
 ご飯と、味噌汁と、玉子焼きと、沢庵だけの朝食。
 最初は苦労したものだったが、二十分もあれば整えられるようにもなった。
(…………早いもんだな、時間が経つのは)
 廊下向こうの障子が開く静かな音に、苦笑いを消す。
「おはよう、カナ」
 代わりに浮かべるのは満面の笑顔。
「……おはよう、パパ」
 小学校の制服を来た少女が答える
 私の娘、二年生になったばかりの小さなカナが――能面のような無表情のまま。
「さぁ、朝食にしよう!」
 明るい声で呼びかける。
 けど、返されるのは沈黙だけ。
 響くのはただ食器の音と、柱時計の振り子の音だけ。
 この一年、カナと私とふたりっきりの朝食は、同じ景色の繰り返しだ。
 会話さえ無い。あったとしても、一方的に私が喋って終わり。
 今日ももちろん、例外ではない。
「明日は七夕だよ」
「……うん」
「晴れるといいね」
「……うん」
 笑って欲しくて、しゃべって欲しくて、より一層に明るい笑顔で声を張る。
「七夕のお願い、あるかい?」
 あるわけがないと知りつつ、尋ねる。
 沈黙が続いてしまうことを恐れて。
 この一年間、欲しいものはないか、行きたいところはないか、何度も何度も聞いた答えの全ては、『ない』の、たった一言だったというのに。
「……あるよ」
 意外な返答。
 ここだ、ここが大事な瞬間だ。
 話をもっと、広げてカナを笑顔にするんだ!
「あー…………」
 けれど、考えれば考えるのど、焦って言葉が出てこなくなる。
「……………………」
 カナも、不安げな顔になる。
 なんでもいい、なにか、いわなきゃ――何かっ――
「へぇ、そうなんだ」
 途端、カナの表情が消え失せる。
 能面のようなあの無表情に戻ってしまう。
「……うん」
 しまった、違う、そうじゃない!
 いいたいけれど、後悔の渦に飲まれてしまい、考えがとてもまとめられない。
「叶うと、いいね」
「……うん」
 やっと絞り出したフォローに、もちろんカナは相槌ひとつを打つだけだ。
 ……失敗した。
 せっかくカナが意思を示してくれたのに、私がそれを閉ざしてしまった。
 この空気には、もう耐えられない。
 手早く食事を終えて食器を片付け始める。
「さ、もう時間だ。学校に行きなさい」
「……うん」
 ランドセルを背負ったカナが、素直にうなずき遠ざかる。
 玄関前、それでもいつも、挨拶だけはしてくれる。
「……いってきます、パパ」
「いってらっしゃい、カナ」
 玄関ドアの閉まる音。カナの足音も遠ざかる。
「ふぅ……」
 どうして、私はこうも不器用なのだろう。
 カナが小さかった頃、仕事があまりに忙しすぎてコミュニケーションが不足してしまったことが、やはり大きな原因なのかも……
「いいや、大事なのは今と未来だ。過去じゃない」
 気分転換をするため、新聞を――っと。
「そうか、今日はもう七夕だったか」
 小さな家の手狭な庭だが、笹は勝手に生えてきている。
 七夕飾りもそろってる。
 毎年欠かさず、妻が準備をしてくれていたからだ。
 歩けるようになったころから毎年毎年、妻と一緒に、カナも七夕の飾り付けをしていた。
 まぶしいほどの笑顔を浮かべ、一生懸命、短冊に願いを書いていた。
「……カナと二人で準備をすれば、話すきっかけになるかもな」
 よし、仕事から帰ってきたらもちかけてみよう。
 が、その前に……
 A4のコピー用紙をたたんで切って、手頃なサイズの短冊を作る。

 ――カナが幸せになりますように――

*    *   *   


「まさか十時を過ぎるとは……」
 部下が犯して、しかも隠したミスの処理に手間取ってしまった。
 七夕だから、なんて理由で残業を回避できる状況ではとてもなく。
「カナ、お腹をすかせてるだろうに」
 電車を降りた瞬間からもう走りだし、改札を抜け家路を急ぐ。
 門柱を通ったところで、異変に気づいた。
 明かり――窓にも、玄関にもついてない。
「カナ?」
 慌てて扉に手をかける。
 開かない! 鍵がかかってる。
「カナ!?」
 キーを回すのももどかしく家に転がり込み、大きな声でカナを呼ぶ。返事はない。
「カナ!」
 明かりをつける。靴が無い。
 慌てて家中を駆けまわる。
 カナの部屋。
 良かった、帰宅はちゃんとしている。
 ランドセルは机にかけられ、制服もきちんと壁からぶら下げられている。
 私を探しに出た? いや、なら携帯に掛けてきたはずだ。
 買い物、散歩――あるいは――
 頭を振って最悪の想像を振り払い、とにかく気持ちを落ちつけ直す。
 もうすぐ夜十時半。普段のカナなら寝てる時間だ。
 こんな遅くに、カナが出かけたこともなかった。
「どこだ、カナ。一体どこに――」
 必死の思いで部屋のあちこちに目を走らせる。
 と――カレンダーに印。
 七月七日。今日に、丸印がついている。
「あそこかっ!?」
 駆け出している。
「カナを――カナを守ってやってくれっ」
 足が痛む。慌てて革靴で来てしまった。
 背広でこんな――長距離走にチャレンジするのも、始めてだ、がっ――
 必死の思いに足を呼吸を励まし続け、どうにか、目指す場所に着く。
「カナ」
 声をかけながら階段を登る。
 小高い丘。
 町を見下ろせる静かな霊園。
「……遅かったね、パパ」
 しゃがんだままで、カナが答える。
 私の方へ振り返りもせず、妻の墓石を見つめたままで。
「七夕、帰ったら一緒にやろうと思ってたんだ」
「あ」
 驚いたような声をだし、カナがようやく振り向いてくれる。
 その表情は、やっぱり凍り付いている。
「───ママに、会いにきてたのか」
「うん」
 ちょうど一年前の今日。
 闘病の末、逝ってしまった。
 カナが生まれてこのかた始めて、笑顔を浮かべず夜を過ごした、七夕の日に。
(二度も…………そんな思いをさせてしまたなんて――)
 沸き起こってくる後悔と強い自責とを、けれども腹の底に置く。
「ママと、何をお話したんだ?」
「何も。ママは、もうお話できないから」
 その表情に、返答に。恐れにも近い思いが沸き起こってくる。
 カナは――あるいは私などよりずうっと深く、“死”を理解してしまっておるのかもしれない。
 あのときも、カナは少しも泣かなかった。
 通夜の席でも、葬儀の席でも、煙となって妻が空へと還ったときにも。
 母を亡くしたことを理解するには小さすぎるのかと、あの日は思った。
「悲しい時は、思い切り泣いていいんだよ」
 そう言った私に、けれどもカナは、
「……ううん」
と静かに、頭を振った。
 ああ、そうだ。
 あのときからもう、カナは表情を失っていた。
(私が混乱してどうするんだ!)
 自分自身を叱咤する。
 カナが泣かない理由だなんて、どうでもいい。
 大事なのは、過去じゃなく、今で未来だ。
 笑顔を作れ、作るんだ。
 そうして、カナを、私が勇気づけるんだ。
「お話できないのに、どうしてママに?」
「ママ、お星様になったから」
 ああ。それは私が言った言葉だ。
 火葬場の、ほとんど透明に近い煙を、表情もなく見送り続けていたカナに。
「お星様になったから?」
「だから、お星様のママにお願いするの。おりひめ星とひこ星は、お願い、聞いてくれないから」
「聞いてくれない?」
「そう。聞いてくれないの」
 あどけない顔に表情が浮かぶ。
 子供にはまったく似つかわしく無い表情――裏切られた者の苦渋が。
「───あのとき、ママを助けてって、お願いしたのに───」
 一瞬、飲んでしまった息を、なんとか言葉に変えようとする。
「……………………それは……」
 だけれど、何を言えばいいのか。
 私が今感じたものの何千倍も何万倍ものショックを受けてしまっただろう、カナの小さな心に私が、どうやって救いを与えられるだろう。
「……………………」
「……………………」
 わからない。
 なら、次善の策を取るしかない。
 カナの目先をなんとか変えて、楽しいことを、明るいことを、カナに思い浮かべさせよう。
「それじゃあカナは、何をママにお願いしたんだい? パパにも、教えてくれないか?」
「ん――」
 拒絶ではなく、それはためらい。
 なら、聞き出そう。聞き出せる!
 カナの願いを聞き出して、なんとしたって、私がこの手で叶えてやろう。
「ね? カナ。ママがもし、かなえられないような望みでも」 「平気」
 強く、静かな。確信に満ち満ちた言葉に背中がゾっとする。
 カナは――願いが、かなえられると盲信してる。そんな気がして。
「どうして、何が、平気なんだい?」
「ママはお願いを叶えてくれる。だってわたしは、ママのお願いをずっとずうっと、聞き続けてるから」
「ママの願い?」
「お別れのとき、ママが言ったの」
 思い出す。妻の臨終。
 ベッドの脇には私もいた。
 ああ――そうだ、あのときカナは、手に負えないほど泣きじゃくっていて――
「『どうか泣かないで』、って」
「!!!」
 ぐらりと、揺れる。
 視界が、真っ黒に狭まっていく。
 理解、する。
 ――カナが、表情を失くした訳を。
「わたしは、これからもママのお願いを続けの、だから」
「違うよ、カナ」
 抱きしめている。
 小さな体を、夜気にさらされ冷えきっているカナの体を。
「違わない。だって、違うとカナの願いが叶わなくなる」
 震える、カナの体が唇が。
 泣くのを、必死で我慢している――こらえてる。
「カナのお願いが叶わなかったら――」
 なんだ、なんだというんだ、カナの願いは。
 叶える、私が絶対叶える、何がなんでも叶えてみせる! だからっ!!
「――パパが、わらってくれなくなるから」
「!!?」
 ───は。
 ───はは。
 ――は、はは。
 なんだ、それこそ、お笑いぐさだ。
 ほら、今だって、私は上手に笑ってるだろ?
「カナ、そんなお願い意味ないだろう? ほら、パパはこうして」
「笑ってないよ。カナ、わかる。お面をつけてるだけだもの」
 お面――言われて、顔がひきつる。
 いや、今、私の顔は……ちゃんとひきつれているのだろうか?
「パパがその顔してるのみると、お胸がきゅーってなるの」
 もう、それ以上言わなくていい。
 いや、それ以上言わないで欲しい。
「パパのホントの笑顔をずっと、見れてないから」
「……それは、」
 違う、とは言えなかった。
 カナのために、とも言えなかった。
 こんな子供に、猿芝居を見抜かれて。
 最初からカナは感じていたんだ。私の負担が大きいことを。
 それを歯がゆく思いながら、一方では妻の『お願い』に蓋をされて――
「……………………」
 辛すぎる。何を言えばいいのか、まるでわからない。
 不意に目の奥が熱くなり、まさか涙をこぼせないから、空を見上げる。
「あ――」
「え?」
 そこには、星。
 満天の星。
 一年前から――ずうっと前から変わらず輝き続けてる、やさしい光が灯ってる。
「……ママの願いは、カナが泣かないことじゃないよ」
 素直に、言える。
 今の私は、多分、お面を落とせてる。
「でもママは、『どうか泣かないで』って――」
「最後まで、ママは言い切れなかったんだよ」
 確信できる。妻の願いは、私のそれと共通だ。
「『どうか泣かないで涙を拭いて、カナが幸せになりますように』
……ママは、そう言いたかったんだよ。カナは、そうだと思わない?」
「あ……」
 カナの瞳の奥でなにかが、ゆらりと揺れる。
 凍りついてた何かがわずかに、溶け始めてる。
「いつまでも泣いてちゃ幸せを見つけられないだろう? だからママは、泣かないで、って言ったんだ」
「ママ……」
「でも、悲しいときは泣いていいんだ。嬉しいときは笑っていいんだ。涙をこぼして涙を拭いて上を見上げて――大人になるって、幸せになるって、そういうことなんだから」
 小さく小さく、カナが震える。
 その目から、光る滴がぽたりと落ちる。
「ママ……ママっ…………ママぁ」
 震える肩を抱きしめる。
 カナはぎゅうっと抱きついてくる。
 私もこれで、ようやく泣ける。
 私もこれで、ようやく笑える。
 見上げた空の、全ての星を涙で流して――
 だから、明日は晴れるだろう。

*    *   *   

「ねぇパパ、カナのも飾って?」
「いいとも。ほら、この枝に結んでごらん」

 一日遅れの七夕の夜に、願いをかける。
 小さな笹の小さな枝に、短冊二つが並んで揺れている。

――カナが幸せになりますように――

――パパがわらってくれますように――


<了>