一年前の夏。

 緊張と期待に息が詰まるような、
 甘いシュークリームに包まれているような、
 ふわふわと想像の宇宙を漂っていた時間。


 私の隣には、先生がいた。

 思索の奥に優しさが仄見える瞳も、
 無茶を言ったとき困ったように笑う口元も、
 質素に、けれど嫌味のない、
 爽やかさでまとめたファッションも。

 どれも、全部、大好きだった。


 私は、温かな気配りに守られていて。
 その日々を胸に抱いて、絵本の登場人物みたいに、
 キラキラした日々を送っていた。


 けれど。


 季節外れの涼しい風が吹き込んだあの日。
 最後の授業の日。
 嘘みたいに、全ては崩壊した。

 積み木をしていた赤ん坊が急に錯乱して、
 すべてを破壊してしまったかのように。
 ドールハウスみたいな、私の小さな幸せな世界は、
 粉々になって、胸を引っ掻き傷で一杯にして、消えていった。

 必死に集めたカケラも、とめどなく零れ落ちた涙も、
 まるで光らない、乾いたごみになって。
 私はそれを踏みつけた。

 一年前の七夕。織姫と彦星が出会うロマンチックな日――
 彼は、永久に私を傷つけた。

 

   『砕かれた星空』
     (作:achro)

 


「とうとう、今日かぁ……」
 落書きのように文字が散らばったカレンダーの中で、
 ひときわ目立つ日がある。
 それが今日、七月七日。
 先生の、最後の授業の日だ。

 ちょっと気合いを入れて身支度を整える。
 髪型はこれでいいかな?
 派手すぎないだろうか、なんて。
 先生が来るのは夕方なのに。

 浮き浮きと、電車に乗り込む。
 早めに乗ったから席には座れたけど、じっとしてられなくて、
 二駅で「どうぞ」と席を譲った。
 感謝の声も、あまり耳に入らない。

 日の光がぽかぽかと温かい。
 心臓のどきどきが、止まらない。

 ああ、私はなんて幸せなんだろう。

『まもなく、ドアが閉まります。
 駆け込み乗車はご遠慮下さい……』
 お決まりの、丁寧なアナウンス。
 朝を運ぶ電車に背を向け、私は学校へ向かう。

 試験前なのに、授業は、全然耳に入らなかった。
 親友の奈々子は、昼休み、
「今日、告白するんでしょ。頑張りー」
 と声をかけてくれた。
 見守るような目に、背中を後押しされた気分になる。

 ――そう、今日言わないと。
 先生との七夕は、今日が最後なんだから。
 明日からは、他人同士になってしまう。

 先生は、去年の冬から家に来ている家庭教師だ。
 主に数学と英語を教わっている。
 礼儀正しくて、教え方もうまくて、家族の評判もいい。
 その先生が、これからは就活で忙しいといって、
 辞めてしまうことになった。

 だから、今日が最後のチャンスなのだ。

 ――先生、なんて言うかな……

 考えてみたけど、断る先生の姿は、想像もつかなかった。
 いつも先生は、優しく微笑んでいたから。
 彼女はいないと、照れたように言っていたから。
 断られるとは、どうしても思えなかった。

「今日は、この和歌を扱いたいと思います。
 百人一首の、六首目。かささぎの――」
 先生の声をBGMに、窓の外を覗く。

 澄んだ青空も、清々しい風も、私の挑戦を応援してるみたいで。
 気分が浮き立ってくる。
 今ならなんでも、できそうな気がする。

「――この歌は、まさに今日ですが、
 七夕の景色を詠んだというのが有力な説です」

 気になる言葉が入ってきて、耳を澄ました。

「織姫と彦星の伝説は知っていますか?
 一年に一度、七夕の日だけ、二人の恋人は会うことが出来る。
 そして、彼らの逢瀬の時、かささぎの羽が橋を作るという伝説があるのです。
 これが、かささぎの渡せる霜、天の川です」

 すっかり興味を惹かれてしまった。

「では、歌にある“霜”は何を意味するのでしょう?
 もちろん、季節は夏ですから、文字通りの霜ではありませんね。
 ――そう、周りの星のことなんです。
 真っ暗な夜に輝く星空を、冬の景色に喩えることで、
 静けさや清涼感を伝えている、非常に美しい歌ですね」

 へぇ……古代の人も、星空の眺めに感動していたんだ。
 すごく、ロマンチックな話。

「誰もが見ている星空も、
 詠む人によって、様々な表情を見せるのですね」

 国語の先生は、そう話を終えた。


 夕方になり、友達と別れて、帰路をたどる。
 寄り道もせず真っ直ぐ家に帰ると、慌ただしく準備をした。
 そんな私を見て、母は「最後だものね」と笑っていて、
 なんだか見透かされているようで、恥ずかしかった。

 そして。
「……こんばんは」
 時間ぴったりに来た先生は、いつもより疲れているように見えた。

「先生……大丈夫ですか?」
「……まあ」
 返事にも覇気がない。
「それより、今日の分、はじめようか」
 いつもと異なる調子に、浮ついていた気分が収まっていく。

 今日の教科は、苦手な数学だ。
 問題集を解きながら、タイミングを窺う。
「あ、あの……」
「できた?」
「い、いえ」
「そう」
 そんなぎこちない会話が続く。

 結局、ほとんど話せないまま、授業時間が終わってしまった。

 ――どうしよう。
 帰り仕度をする先生に、思いきって声をかける。
「あのっ、帰り、あたし送ります。最後ですし」
「いや……いいよ。もう時間も遅いし」
「いえっ、でも、今日は七夕ですからっ」
 自分でも何を言ってるかわからないまま、とにかく出掛ける仕度をする。
 そんな私を見て、軽い溜息をつくと、先生は鞄を背負う。
「じゃあ、玄関で待ってるから」
「はい」
 頷いた私は、そっと引き出しを開けて、
 買っておいたプレゼントを鞄に入れた。


 都会と言えども、駅前でもなければ明かりが豊富とは言えない。
 家の前は、夕陽の影を残して、薄暗くなってきていた。

 駅へ続く道なりに、河原がある。
「ちょっと、寄っていってもいいですか」と聞くと、
 先生は、小さく頷いた。

 ――今度こそ、最後のチャンスだ。

 自分に言い聞かせる。

 河原に座ると、ちょうど陽が沈むところだった。
 二人の影が近づき、一つになって、やがて消えていく。

 空を見上げれば、星が散らばり始めていた。

「ロマンチックですねー」
「……そうだね」
 先生は、どこかぎこちなく微笑む。

 本当に、どうしたんだろう。

「……七夕って、織姫と彦星が一日だけ出会える日、なんですよね」
 無難な所から話を始める。
「……そうらしいね」
「悲しいですよね。一年に一回しか会えないなんて」
「そう?」
 先生の口調は冷たい。

「あれは、自業自得だと思うな。
 なぜ二人が引き離されたかって言えば、
 仕事を投げ出してまで、一緒にいたからだ。
 一年に一度でも、温情と言えるだろう。

 だいたい、星を人に例えるのが、よくわからない」

「…………そう、です、ね」

 頭の中で、織姫と彦星ががらがらと崩れていく。

「……そういえばっ」

 話題を変える。

「今日、学校の先生が言ってたんですけど、
 星を、えーっと、かささぎに例えた歌があるんですって」
 うろ覚えで口にすると、先生はああ、と呟く。

 『かささぎの 渡せる橋に おく霜の
  白きを見れば 夜ぞふけにける』

「……かな」
「それです! 先生、すごいですね」
「暗唱できることは、すごいことじゃないよ」
「……そう、ですか?」
 十分、すごいと思うんだけどな。

 先生はふっと溜息をつく。

「かささぎなんて、人よりなおさら荒唐無稽だ。
 昔の人は想像力豊かだったんだろうね」

 小さな呟き。
 その言葉は、ひどく私を戸惑わせた。

「…………あ、あのっ、あたし、プレゼントがあるんです」

 今日の先生はどこかおかしい。
 とにかく、まずプレゼントを渡してしまうことにした。

 ゆっくりと、鞄から取り出す。

 『星の砂』という名前のそれは、
 ガラスの容器の中に、砂が入っていて。
 その一部に、蛍光塗料が塗られている。
 だから、暗い中で見ると――

「わぁ……」

 ――手元に、星空があるみたいに見える。

 差し出すと、先生は「……ふーん、ありがとう」と簡潔に呟いて受けとった。

 何かおかしい。

 そう思いながらも、用意していた口は止まってくれなかった。

「あの、あたし……先生のことが、好きです!
 先生はいつも、優しく私のこと見守ってくれてて、勉強もすごいできて。
 カッコ良くて……
 あの、あたしの憧れなんです!」

 言ってしまった。

 恥ずかしさに手で顔を覆う。

 先生は立ち上がったみたいだった。
 そして――


「……それは、嘘だ」


「…………え?」

 うまく言葉が耳に入ってこない。
 今、先生はなんて言ったの?

「君の見ている景色は、作られたものだ。
 スモッグの中では本当の星なんか見えない。
 東京で見えるのは、薄汚れた、かすれた星。
 それも、何百何千年も前のものだ。
 思い込みの星空だよ」

「え、あの……」

「僕の優しさも、愛想の良さも、熱心な教え方も、
 表面のものだ。
 裏でどんなに人が黒いことを考えているか、感じたことはない?
 君が思うほど、世界は善意で包まれているわけじゃない」

「どうして……」

 先生はどうして、こんなにひどいことを言うのだろう。
 まるでいつもの先生じゃないみたいで。

「――僕は、君に好意なんか持ってない。
 ……バイトを続けられれば、あとはどうでもよかった」

 ざわざわと、辺りの木が揺れる。

「……嘘です……」

「ん?」

「全部、嘘です……先生は、冗談を言っているんです……」

「……冗談じゃない。
 君の言う星空は――“本当”じゃない」

 呟くと、先生は『星の砂』を、放って返した。

「……っ!」

 頭をガンと殴られたみたいだった。
 殴られた方がまだ良かった。

 ショックで受けとり損ねた『星の砂』は、地面にぶつかって、
 ばらばらに、割れてしまった。

 ぽかんと口を開いた私は、気がついたら、ぼろぼろ泣いていた。


 先生は、どうしちゃったんだろう。
 私は、何かまずいことをしちゃったのだろうか。
 こんなの、いつもの先生と違いすぎる。

 ――でも、たぶん、この先生が、“本当”なんだ。

 そう思ったら、もう涙が止まらなかった。

 先生の顔なんか、見れなかった。

 でも、足音がだんだん遠ざかっていって、その音が、ひどく耳に響いて。

 私は、両手で頭を覆って、強く抱きしめた。

 

 そこから先の記憶は、あまりはっきりしていない。

 ただ、何もかも悲しくて、それなのにどこか虚ろで。
 ここで泣いたら、もう泣けなくなっちゃうんじゃないかって、
 そう思いながら、泣き続けて、家まで歩いた。

 酷い顔で帰ってきた私を、家族は心配していた。
 私はただ、「大丈夫」とだけ伝えて、
 部屋に籠もった。

『よくわかる中学数学』

 空気の読めない教科書を、思いっきり壁に投げつけて、私はもう一度大泣きした。


 いつものように、起きて、身支度を整えて、食卓へ降りていく。
 いつものように、と努力しているのに、
 母は、いつもより沢山話しかけてきた。
「本当に何もなかったの?」
 鬱陶しく聞き続ける母は、おそらく貞操とかの心配をしてるんだろう。
「何もなかった。
 それに、もう、どうでもいいことだから」
 きっぱり告げると、不服そうに、母は黙った。


 いつもの通学路、電車の中。
『君が思うほど、世界は善意で包まれているわけじゃない』
 その言葉通り、今まで気づかなかった部分が、
 見えてくるようだった。

 お年寄りに席を譲った高校生の、
 どうだと言わんばかりの自慢げな顔。
 横に座ってきたホームレス風の人から、
 必死に遠ざかろうとするOL。
 駅員は苛立った表情で満員電車に人を押し込み、
 車掌は感情のこもらない声でバカ丁寧なアナウンスを告げる。

 美人が通りがかれば男性陣は一瞬目を向け、
 何ごともなかったような素振りで目を戻す。

 誰もが、見栄と欲望に塗れている。

 学校で、親友の奈々子にフラれたと告げると、
 口では大いに慰めてくれたものの、
 その表情は、
「やっぱりね」と「先に彼氏ができなくてよかった」
 とを雄弁に語っていた。

『君の言う星空は――偽物だ』

 私が星空だと思っていた景色は、確かに、
 スモッグに塗れた幻覚だったのかもしれない。


 一つ気がついてみれば、途端にすべてが化けていく。
 色のない景色、変わらない毎日。
 私は日に日に荒んでいく。

 四月になって、私は高校生になった。
 第二志望の学校で、家からは少し遠い。
 一応中学と同じバトミントン部に入ったけど。
 別にプロになれるわけでもない。

 そうして、退屈な日々を過ごして――

 やがて、夏がやって来た。


 呪わしい七夕の日。

 朝から、私は不機嫌だった。
 家族の話に適当に頷いて、無言で電車に乗り、誰とも関わらず学校へ。
 部活では、去年の思い出を振り切りたくて、
 校舎が閉まるまで、一人練習を続けた。

 帰り道。
 何ごともなく駅まで辿り着いて――

 河原を抜けようとした時、視界の隅に人の姿。
 通り過ぎようとすると、やあ、と声をかけられ、
 渋々向き直った。

「偶然だね」

 元“先生”がそこにいた。

「偶然?
 七夕の夜、私が帰ってくる時間帯に、
 先生の家から一時間以上もかかる河原で出会うのが、ですか」

「…………言うようになったね」
 先生は微笑んだが、こちらは到底笑う気になれなかった。

「今日来たのは、君に――」
「聞きたくありません」

 言葉を遮る。

「私のことなんて、どうでも良かったんでしょう」
 熱心に教えるフリをして。
「お金が入れば、それで良かったんですよね」
 先生は、私よりも母の顔色を窺っていた。
「何もかも、全部、誤魔化して」
 優しさも、誠実さも、嘘だった。

「…………まあ。その通り、だね」
 先生は否定しなかった。

 どうでもいいつもりだったのに、胸が痛んで、
 顔を背ける。

「……帰ります」
「まあ、待ってくれ」
「……わかってます。
 先生は、罪悪感から私に会いに来たんですよね。
 でも、そんなの必要ありません」

 きっ、と、思いっきり睨みつけた。

「今更何を言ったって。
 先生の放った言葉も、突きつけた現実も、壊れた星の砂も。
 元に戻るわけじゃないんですからっ」

 言葉をぶつけると、

「そう、今日はその件で来たんだ」

 先生は、鞄から箱を取り出した。

 そして、ゆっくりと開封する。

 何かが、きらきらと光る。

「……!」

 そこには、壊れたはずの『星の砂』があった。

「どうして……」

 よく見ると、所々、ガラスにはひびが入っていて、つなぎ合わせた跡が見える。
 中の砂も、半分ほど減っているように見える。

「…………」

「いやー、大変だったよ。
 散らばった砂を集めるのはかなり苦労したのに、
 直したものは元々の美しさに遠く及ばないと来てる。
 でも、まぁ」

「少なくとも、星の砂は帰ってきただろう?」

 つぎはぎだらけのそれを、無理矢理手渡される。

「……君は、スモッグまみれの空を、綺麗だと言ったね。
 へらへら笑って誤魔化してた僕を、優しいと言った。
 自分は幸せだという顔で笑った。
 ……羨ましかったよ。
 同時に、とても憎らしかった」

 先生は言葉を止める。

「今は、どう思う? この星空」

「スモッグ塗れの、薄汚れた、見る側に都合のいい風景ですね」

「……本当に、そう思う?」
「思います!」

 ムキになって言うと、

「だって、君は今、見てすらいないじゃない」

 ハッとした。

「…………」

 無言で空を見上げる先生につられて、目を上げる。

 驚いた。
 ここ一年、星空を眺めた事なんてなかった。
 だから、だろうか。

 闇の中で、散りばめられた星は、まるで異世界の風景のように見えた。

「わぁ……」

 思わず呟いて、ハッとする。

 慌てて睨みつけると、でも、
 先生は、素直な微笑みを浮かべていた。

「それが、君にとっての“本当”だ。
 僕がいくら織姫彦星や、かささぎを否定したって、
 動じる必要なんてない。
 堂々としていれば良かったんだ」

 無茶な言葉だ。
 でも、うつむき加減で語る先生は、いつもより真摯に言葉を紡いでいるように見えた。

「……国語の先生は、かささぎの歌を紹介した時、なんて言ってたかな」

 突然聞かれ、ふっと――その言葉だけ、思い出す。

「『誰もが見ている星空も、
 詠む人によって、様々な表情を見せる』――」

「そう。だから、それが――君の星空だ」

 先生は、優しく笑った。

 それは、ひょっとしたら“本当”じゃないのかもしれないけど――

 私にとっては、“本当”の笑みだった。


END