「キミの、猫」 進行豹
キミはゆっくり、ゆっくり歩く。
周囲を、きょろきょろ見回しながら。
人から、妙な目で見られても、呼びかけることを決してやめずに。
夕暮れ時。
アルバイトからの帰り道。
木漏れ日から覗く夕日の朱が、とても、とて鮮やかな道。
キミと一緒に、なんどもなんども歩いた道。
その道を、キミは一人。
昨日と、その昨日と、さらに昨日と、おんなじように。
たった一人で、ゆっくり歩く。
呼びかける声は、とまらない。
気の毒そうな視線を横目で投げかけながら、
キミの傍らを綺麗な少女が通りすぎる。
けれど、キミは少女を見ない。
キミの視線は、足元に、物陰に、植え込みに、車の下に。
そうした空間へとだけ注がれ続けているから。
――かさりっ――
小さな物音。
キミは、弾かれたように視線を上げる。
息を飲む。
音は、ドウダンツツジの茂みから。
ち、ち、ち。
キミは、優しく舌を鳴らす。
茂みが、動く。
小さな影が、よろめき出てくる。
「あ――」
キミの顔に浮かぶのは、落胆。
そして、戸惑い。
小さな影は、子猫。
痩せた――ひどく痩せた子猫だ。
半開き――
というほどにも開けていない目には、目やにがびっしりこびりついている。
「――――ャ」
弱々しく開かれた口から、鳴き声未満の音が溢れる。
「お前……」
キミは不安になる。
当然だ。
キミは、猫のことをよく知っているから。
（これ……ほっといたらマズいだろ）
額に薄く浮かんだ汗が、キミの思いをにじませる。
（このままだと、コイツ――死ぬぞ）
キミは本当にわかりやすい。
迷う視線が、子猫の上とあらぬ方とを行き来する。
「――――ャッ」
開き切らない、目やにだらけのまぶたの下の瞳が、それでも希望に輝く。
キミの視線を、感じてるから。
だから必死で、子猫は声を振り絞る。
キミにも、その声は聞こえてる。
「けど……」
弱々しい呟き。
「けど……な」
お金のことが、気になっているのかもしれない。
“ペット可のマンション”だからといって、
ペットのつける傷や汚れが免責されるわけではないと、キミは知っているから。
しつけのなっていない子猫を拾ってしまおうものなら、引越しのとき、
良くて、帰ってくる敷金が激減――
悪ければ、弁済金を払わされる――
……そういう未来が訪れることを、キミは、知っているから。
「……ごめんな、連れては帰れないんだ」
「――ャゥ」
子猫は、キミの言葉の意味を理解してない。
だから、鳴く。
いいわけのように、キミはその声に声を重ねる。
「きっと…………もっと親切な人が拾ってくれるさ」
さっきのよりも、さらにか細い、ほとんど吐息のような呟き。
なぜって、キミは。
これもハッキリ、知っているから。
――“親切な人”なんて、いやしないことを。
そんな人がもしもいるなら、
とっくのとうに、子猫はここから姿を消して。
こんなに震えず、こんなに弱らず、
愛想たっぷりにミャーミャー鳴けていたうちに、
誰かの家族に、ペットになってた。
……現実ってのはそういうものだと、知っているから。
「ごめんな」
言って。けれども立ち去れない。
キミは、そういう性格だ。
本当は――甘いくらいに――とても優しい。
お金で解決できることなら、
バイトを増やして睡眠を削り――
そうして解決してしまう強さも持ってる。
「……ごめん、な」
それでも、キミは立ち去ろうとする。
哀れな子猫を見殺しにする、その決心をつけようとする。
それが何故かはわからない。
それが何故かを、とても知りたい。
「――ャッ」
「っ！！！！！！」
振り絞りきった残りカスのような、
小さな小さな小さな鳴き声。
よほど耳を済ましてなければ聞き逃すだろう、
あまりにもか弱い――――――――それは、悲鳴。
助けてほしいと。
その手でどうか抱きあげて欲しいと。
子猫の叫びは、キミの鼓膜を越えて、きっと、心を震わせている。
「ダメ……なんだよ」
それでも、キミは首を振る。
泣きそうな声で、否定の言葉を吐き続ける。
理由を、子猫はわからない。
けれど、気配を察してる。
だから、鳴く。
声に鳴らない声で鳴く。
助けて。助けて。助けて。助けて。
寒いから助けて。だっこして。
おなかが空いているから助けて。ご飯をちょうだい。
一緒にいさせて。
一緒にいたい。
このままじゃダメ。
このままじゃ怖い。
生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。
だから、このまま行かないで。
ひとりぼっちに、しておかないで。
「……ダメなんだ」
――キミの眉根に、とても苦しげなシワが寄る。
「ダメ、なんだよ」
もう一度。
同じ言葉が、さっきより冷えた口調で繰り返される。
「アイツがさ、帰ってくるかもしれないから」
（っ！！！！）
キミの声が、届く。
「もしもお前を拾っちゃったら、
アイツが帰ってきたときに、
自分の居場所を取られちゃったって思うだろ？
そんなの、絶対にイヤなんだ、だから――」
一歩。
キミは大きく後退る。
「――――」
子猫は小さく口を開け。
けれども、もう鳴けるだけの力さえない。
（なら――）
体が、心が、勝手に動く。
そうすることを、キミが教えてくれていたから。
たくさん、たくさん、キミが教えてくれていたから。
人間の言葉の意味を。
ネコ缶の味を。
白い花の咲くあの植えこみが、ドウダンツツジという名前なことを。
キミの膝が、とても素敵なベッドなことを。
ボクの名前が、ミケってことを。
スコップで綺麗に整えられた猫砂の感触を。
コンビニ袋にすっぽり入る喜びを。
机の上に乗ったらダメっていうことを。
喉の下を、耳の後ろを、こすってもらうくすぐったさを。
薄桃色した細い首輪を。
チリリリと響く鈴の音を。
眠ってるキミのとなりにもぐる、あの暖かさと安心を。
ブラッシングをしてもらうと、びっくりするほど毛が抜けることを。
好きってことを。
大好きってことを。
ありがとうってことを。
――優しくするって、いうことを。
「ナーーーーーーーーーーーン」
鳴く。長い声で。
ボクの声で。
子猫の喉を、少しだけ借りて。
「え？」
遠ざかりかけたキミの足が、とまる。
「ナーーーーーーーーーーーン」
おもいっきりに、甘える声。
遊んで欲しいその時に、いっつも出してた声で、呼ぶ。
「ミ……ケ？」
キミが、ボクの名前を呼ぶ。
ボクじゃない、子猫に向かって。
今ひとときだけ、ボクが借りてる子猫の体に、呼びかける。
「お前……ミケ、なのか？」
一歩、一歩。
キミの足が、子猫の体に近づいてくる。
……大丈夫、まだ、体力は残っている。
このくらい、動いてもまだ、大丈夫だ。
「ンニャっ」
「っ！！！」
靴紐を、噛む。
いっつも、そうしていたように。
ただ、それだけでわかってくる。
キミは、ボクだとわかってくれる。
「ミケっ！」
キミの手が、子猫の体を抱き上げる。
何度も何度も何度も何度も、ボクを抱き上げてくれた手が。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、ボクを撫ぜてくれていた、手が。
（ああ……）
もう、大丈夫。
キミは、手の中で震える命を、決して、見捨てはしないから。
（よかったな。子猫）
だから、離れる。
キミの手のひらのぬくもりから。
子猫の小さな体から。
「え？」
ああ。
キミは、すごいな。
ちゃんと、気づいてくれるんだ。
「ミケ？」
答えられない。
だってもう、子猫の体から抜けちゃったから。
ボクはとっくに、車にひかれて死んじゃってるから。
「――ャゥ」
不安げに、キミの手の中の子猫が鳴く。
人間の言葉の意味を、まだ知らないから。
キミの優しさを、まだ知らないから。
「――ャーゥ」
捨てられないかと、離されないかと、怖くて、怖くて、必死で鳴く。
「……そっか。そうなんだな」
キミが、見る。
もう体なんてなくしてしまったボクを見る。
全然、ボクのいない方。
検討はずれの方へと視線を向けながら――
それでも、ボクを、見てくれる。
「ミケ」
呼んでくれる。
キミがくれた、ボクの名を。
いとおしそうに、大切そうに。
キミは、ボクの名を呼んでくれる。
「ありがとう、ミケ。会いに来てくれて」
返事。
できないことがとても悔しい。
その手のひらに、顔をこすりつけられないのが、とても、悔しい。
でも、だけど。
そう思ってて、それでもボクは、とても、嬉しい。
「ミケ。オレは、もう大丈夫だから。
ミケのこと、わかったから。もう、探さないから」
体が、すっと軽くなる。
なにかがストンと、落ちたみたいな感じがする。
「だから、ミケは、ミケの行くべきところに行くんだ。
ネコたちの天国があるなら、そこに。
もっと幸せな場所があるなら、そこに。
いつか、また、きっと会えるし、絶対会うけど」
キミの手が、子猫の頭をそうっと撫ぜる。
それでようやく安心したのか、子猫が鳴き止み、目を細める。
「今は、一緒には行けないんだ。だからさ、ミケ」
見える。ボクの行くべき場所が。
キミの言葉が、その道筋を開いてくれる。
「さようなら」
たったひとつ。
たったひとつだけ。
キミが教えてくれてなかった大事なことを。
ボクは、今、教えてもらえた。
だから、行ける。
ボクは、行ける。
キミと別れて、子猫を任せて、もう行ける。
けど、行く前に。
キミに教わった大事な言葉を、もう出せはしない声で、言う。
（さようなら）
やっぱり、出せなかった声。
届くはずもなかった声に、キミはけれども、視線を動かす。
ボクの方、ボクがいるここ、この空へ向け。
見えるはずの無いボクを見て、キミはさみしげに笑ってくれる。
（ああ……）
満たされる。
キミと出会えて、本当によかった。
キミと過ごせて、幸せだった。
嬉しさだけを、だから感じて――
ボクは、空気にほどけてく。
＜了＞