タイトル:『つゆのあとさき』
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我輩は犬である。名前は……忘れてしまった。
ここで、ご主人の帰りを待ち続けている。

駅の雑踏の隅の隅、行きかう人々から隠れるようにして、我輩はご主人を待っている。
朝は「いってくるよ」というご主人を改札に見送り、
夕方「ただいま」と改札から姿を表すご主人を静かに出迎える。
それが我輩の日課。十年近く続いた、変わらない毎日。

だったのだが。

ご主人が改札から姿を見せなくなって久しい。
とはいえ、それ自体は珍しいことではない。
「シュッチョウ」、というやつに行っているのだろう。あるいは「リョコウ」か。
ご主人は、いつも別れ際に我輩をくしゃくしゃと撫でながら、一緒に色々話しかけて
くれるのだが、あいにく我輩には人語を解する能力はない。
もしかしたらその時、「しばらく留守にする」などと仰っていたのかもしれない。
だから、待つ。淡々と。
そうしていれば、いつかご主人は、何事もなかったかのようにひょっこり帰って
くるのだから。
……。
実は、こんなに長くご主人に会えなかったことはない。
しかし、我輩はここで待つ以外に選択肢を知らぬ。
駅の雑踏の隅の隅、薄汚れた体を横たえる以外には。

それにしても。
我輩がここで待ち始めてずいぶん経つというのに。
我輩は一向に有名にならないな。
聞くところによると、同じように駅の雑踏でご主人を待ち続けたある犬は、銅像まで
建ったという。
──見栄えか。我輩の見栄えの問題か。
確かに、我輩は雑種だ。毛並みは悪いし、色だって薄灰色のまだら模様で、とても
美しいとは言えまい。
いや、うらやましいわけではない。
ただ少し、ほんの少し……、そう、ほんの少し、寂しいだけ。

待つだけに使う時間は、幾分退屈ではある。
有り余る閑暇を使って、我輩は時々、人間観察を楽しむ。
ここは駅だ。行きかう人々にはそれぞれに、行きかうだけの理由や事情がある。
我輩のように人待ちの者、夢抱いて旅立つ者、夢破れて帰郷する者。
いずれの表情を見るにつけ、なんと赫々としているものか。
我輩もかくありたいと、いつも思う。
そんな中に、時々『彼ら』を見ることがある。
『彼ら』は、周囲の燦爛とした人々とは対照的な、深く静かな人々。
否……、人ではない。
『彼ら』は、死者。
何かの折に死んでしまい、しかし何かに未練を残し、それがためこの場に留まる、
かつて人であったモノたち。
害があるわけでもなく、益があるわけでもなく、我輩以外の誰かから見えるわけでも
ない。
何をするでもなく、ただぼうとその場に立ち尽くすだけの存在。
なぜ我輩が『彼ら』を見ることができるのか、我輩は知らぬ。
ただ、気づいたら、『彼ら』を目にするようになっていた。
おそらくは、『彼ら』が、我輩と同じく人待ちだからなのだろう、ということで納得
している。

今、我輩の隣にも、一人。
彼もまた人待ちなのか、我輩と同じように、落ち窪んだ眼窩で日がな一日改札を
眺めている。
一人と一匹になって随分になる。彼がいつごろからそこに立っていたのか、よく
思い出せない。
雨の日も風の日も。
ただ淡々と、黙々と、それぞれの待ち人を想う。
「……貴様も大変だな」
ふと呟いた我輩の言葉に、
「……あなたも」
と返した彼に、しかし我輩は驚かない。
時折、こういう者が居る。人であったにもかかわらず人とは話せず、しかし犬である
我輩とは意思が疎通できる者。
つい、と彼に目をやる。
煙のように薄く消え入りそうな姿ながら、目を凝らすと、その形が幾分見えてくる。
年配の男、だ。
くたびれたサラリーマン風のスーツと、白髪交じりの頭。
男は、言葉をかけた我輩を気にすることなく、改札に視線を注ぎ続ける。
「……貴様は誰を待っているのだ?」
口にして後悔した。我輩はもう、答えを知っているのだから。
期待はあった。予想と違う答えに対する、淡い想望。
「……私は───」
男は口ごもる。
答えを勿体ぶっているのではなく、本当に何を言うべきか迷うような。
「───何を、待っていたのだったかな……」
男はそう言って、それでも改札に目を向けたままだ。
やはり、か……。
我輩はため息を一つ。
彼も、今までの『彼ら』と同じだ。
彼らは、その場に留まるうちに、徐々にその目的を忘れてしまう、らしい。
そして、こうやって執着の意味を忘れたころになると───、

ひゅッ。
「やぁやぁ、こんにちわ。久方ぶりですねぇ」
ほら、きた。
我輩は声のしたほうに物憂げに頭を動かす。
果たしてそこには、予想通り、あの若い男が立っていた。
黒いスーツにマントを羽織り、頭には背高のシルクハット。
「はてさて、いつぶりでしたかね。三日か、一ヶ月か、5年か」
「相変わらず時間感覚に疎い奴だ」
「ははは、いやこれは手厳しい」
男は軽やかに笑って、しかし悪びれる様子はない。
実は我輩も、前に彼に出会ったのがいつだったか、よく思い出せないのだが。

初めて出会った時、男は、シニガミ、と名乗った。
これ、実は名前ではなくて職業名なんですよ、と念を押された気がする。
我輩にはどちらでもいいことだ。
「彼を連れて行くのか」
「ええ、そうです。彼の妄執もだいぶ薄らいだようですからね」
シニガミは、まだぼうと佇む男の手をすいと取る。
「お疲れでしょう、そろそろ、お休みしませんか」
「……休み───?」
男は理解できない、というように首を傾げるが。
「そうです、あなたは十分待った。向こうで奥様もお待ちですよ」
そう言ってシニガミは男の手を引く。
「……妻が」
「はい、奥様が、早くお会いしたい、と」
ふ、と、男が笑ったように見えた。
「───そういえば、私は妻を待っていたんだったかな」
「はい、そうです」
「そうか、連れて行ってくれるのか」
「はい」
「では、頼む」
「はい、お任せ下さい」
シニガミは男を覆い隠すようにすいとマントを翻す。それがふわりと地面に垂れた
ころには、もうそこに男の姿はなかった。
「いつもながら、随分と簡単なものだな」
我輩は、ため息混じりにシニガミを見上げる。
「そうでもないですよ。これでも結構努力してるんですよ、私」
シニガミは、ははは、と屈託なく笑った。
消えた男がどこに行くのか、我輩は知らぬ。興味もない。
ただ、消え際の彼らの横顔が、いつも随分と幸せそうに見えるのが、少し不思議
ではある。
「───アナタはまだまだ頑張れそうですね」
気づくと、シニガミが我輩の顔を覗き込んでいた。
「当然だ。我輩は生きてご主人を出迎えねばならんのだ。あんな、死人になってまで
死人を待つような下賎な奴らと一緒にするな」
「『下賎な奴ら』とはまた暴言ですが……いや、そのお心がけはまったくご殊勝だと
思いますよ。ご主人もさぞお喜びのことでしょう」
「───ご主人は喜ばない。それが普通なのだからな」
「おや、これは失礼を……」
シニガミは悪びれもせずにひらひらと手を振る。
「ま、何かの折には迎えに来ますよ。その時はよろしく」
「来なくていい!」
ひゅッ。
彼と会うときは、大体このような様相だ。唐突に現れ、誰かを連れ去り、我輩と
二、三会話して、唐突に去っていく。
そしてまた、我輩は孤独に戻り、ご主人を待ち続けるのだ。

更に幾度目かのシニガミが現れて、何人目かの『彼』を連れ去った後。
「アナタは本当に頑張りますねぇ」
珍しく、シニガミはすぐに立ち去ろうとせず、我輩をしげしげと眺めながら、
そんなことを言った。
「ご主人に会うまでは、な」
我輩はいつもどおりにいつもどおりの答えを吐く。
「健気なものですねぇ。ご主人に執着しているのですか?」
じろり、と我輩は片方の眉毛を上げてシニガミを見た。
「いつもあんたが連れていく奴らほどじゃない」
「おや、アナタは彼らがお嫌いで?」
シニガミから視線を外し、我輩はまた改札に向き直る。
「死者が死者に会いたがるなんて、滑稽にも程があろう。なぜ貴様がそのようなことの
手助けをしているのかは知らないが、正直、不愉快だ」
「はぁ、そうお感じでしたか」
シニガミは、心底残念そうな顔をした。
「それは失礼を。……とはいっても、こちらも仕事なので。今後控えるというわけには
参りませんが、分かりました、善処しましょう」
例によって謝罪の雰囲気すら感じさせず、笑顔で頭を下げる。
「いや、そうですね、いずれにしても、ご主人が早くいらっしゃるといいですね」
「そうだな、そう願いたいものだ」
シニガミはうんうん、と頷いて、
「おや、いけない、もう行かなくては。ではでは、また次回に」
ひゅッ。
急いで姿を消してしまった。

それからも、我輩はご主人を待ち続けた。
寒い季節が過ぎ、暖かい季節が過ぎ、雨の季節が始まって。
それでも改札からご主人が出てくることはなかった。
駅の雑踏の隅の隅で、滴る冷たい雨粒を避けながら、我輩はご主人を待つ。
しばらく、シニガミはやってこなかった。
『彼ら』も現れなかった。
それぞれの都合があるのだろう。
たまの話し相手が居なくなって、退屈な気がしないでもないが……。
いやいや、我輩の仕事はここでご主人を待つことだ。シニガミや『彼ら』と話す
ことではない。

……それにしても……。
ご主人は、遅い。
これだけ待って、帰ってこなかったことなど、今までなかった。
ご主人の身になにかあったのだろうか。
心配か? そうだな、心配……なのかもしれない。
ご主人が……心配……。
我輩を置いて帰ってこないご主人の、何が心配なのだろう。
ご主人に心配事などあったろうか?
───そういえば。
そもそも、なぜ我輩はこんなにも長くご主人を待っているのだろう。
それが日常だから?
それが仕事だから?
それが責任だから?
───そうだっただろうか。
長く待ちすぎて、理由を忘れてしまった。

いかんいかん。
我輩はかぶり振って思考を打ち消す。
我輩が考えることではない。
ご主人は、我輩のご主人だ。
我輩がご主人を待つ理由は、ただそれだけ。
なぜこんなことを考えてしまったのか。
疲れているのかもしれない。
変化のない毎日に、心が蝕まれているのかもしれない。

ひゅッ。
「やぁやぁ、毎度どうも」
軽い風音に視線を上げると、そこには黒い燕尾服にマントを羽織り、シルクハットを
被った若い男が、いつものように淡い笑顔を湛えて立っていた。
シニガミ、だ。
「そろそろかと思いまして」
「何がだ?」
我輩は物憂げに彼を見上げる。
今日は我輩の周囲に『彼ら』は居ない。『彼ら』を連れていくつもりがないなら、
一体何をしにやってきたのか。
この老犬との会話のため? そんな殊勝な男ではあるまい。
「そろそろ、お疲れの時期ではないか、と」
つい今しがた、我輩が考えたことを見透かすように。
シニガミはそう言った。
いつもの我輩なら、ここで怒り出しすところだ。ご主人を待つという我輩の崇高なる
行動をなんと見るか!などと。
しかし、今日の我輩は、なぜかそんな気分ではなかった。
「──そう、だな。随分長いこと待って、少し疲れてしまったかな」
今まで、こんな弱音を吐いたことはなかった。それが矜持だと思っていた。
なのに。
───たまには、そういう時もあるか。
そんなことを考えて自分を納得させようとした我輩に、シニガミは言った。
「では、私と一緒に行きましょう」
マントの裾を翻し、我輩をその内側に包み込もうと腕を振りかぶる。
「ちょ、ちょっと待て!」
すんでのところで、我輩はそれをかわした。
「我輩をどこに連れていくのだ! なぜ連れていくのだ!」
怒る我輩に、シニガミは意外そうな顔を向ける。
「ああ、やはり、ご存知なかったのですね」
今度は心底申し訳なさげな顔で、シニガミは言った。

「大変お気の毒ですが、アナタも既に、亡くなっているのですよ」

「……なんだと?」
言葉は耳には届いたが、心で咀嚼するのに少し時間がかかった。
「我輩が死んでいる、と?」
「はい、その通りです」
彼が頷くのを見ても、我輩には理解できない。
「いつだ?」
「そうですね、アナタがここでご主人を待ち始めた最初の日でしたかね。運悪く車に
撥ねられまして」
「そんなばかな! 我輩にはそんな記憶はないぞ!」
「死の記憶というものは、文字通り死ぬほど辛いことですからねぇ。忘れてしまう
人も…いや、犬も、多いそうなんですよ」
飄々とそう言われて、返す言葉もない。
「……ご主人は───どうなっている?」
やっとのことでそれだけ口にする。
シニガミはまた申し訳なさそうに眉をハの字に下げて、シルクハットを胸に下ろした。
「すみません、それをお伝えするのは規則で禁じられてまして。ご両人が望むなら、
会わせてあげられるんですけれども」
遠まわしに言ってはいるが、つまり今、我輩は、『彼ら』と同じ状況だということか。
……ご主人も既に……。
それに、ご主人は、死してもなお我輩との再会を望んでいないということか……?。
だとすれば、ここで待ち続けた我輩は───?
急に強い寂寥感に襲われる。
「なら、もう……いいか……」
絶念。
ぽろりと口を突いた言葉は、しかし、我輩の真実。
「よろしいのですか?」
シニガミは、意外だといわんばかりの表情で我輩を見た。そして、
「ここにアナタが居るということは、ご主人に未練があるということではないの
ですか?」
と、念押ししつつ、蒸し返す。
彼が何を言いたいのかわからない。しかし、我輩に言えることは一つだけ。
「しかし……ご主人が我輩に会いたくないのであれば……」
シニガミはにこやかに微笑んで、我輩の言葉を遮った。
「ご主人のことは、今はとりあえず置いておきましょう。それよりも、アナタ。
アナタは、どうしたいのですか?」
両人が望むなら、とシニガミは言った。
今、ご主人に会えないということは、つまり、ご主人が我輩を望んでいないという
ことだ。
しかし、それでいいのだろうか。
だからといって、我輩は諦めていいのだろうか。
否、諦めることができるのだろうか。
「アナタは、どうしたいのですか?」
シニガミはもう一度繰り返した。
「我輩は───」

日常だからでも、
仕事だからでも、
責任だからでも、ない。

「亡くなっていてもいい、我輩は、もう一度、ご主人に会いたい───」
それが、我輩の、望み。
ぽん、とシニガミは手を叩いた。
「やあ、よかった、そう言ってもらえて」
その顔は満面の笑み。
「では、すぐにご主人に引き合わせましょう。向こうで首を長くしてお待ちですよ」
「……なんだと?」
またしても、心で理解するのに時間がかかってしまった。
「貴様、さっきご主人は我輩との再会を望んでないと言ったじゃないか」
「おや、そう伝わってしまいましたか?」
シニガミはまた芝居がかった仕草で、『それは心外だ』という顔をした。
「アナタのご主人は、亡くなってからずっと、アナタに会うことを心待ちにして
いましたよ。どちらかというと、拒んでいたのはアナタの方なのです」
「我輩が?」
「はい。アナタの、『生きた』ご主人に会いたいって願いがあまりにも強すぎまして。
そのためにアナタを『死んだ』ご主人の元にお連れできなかったのです」
「は……」
つい、我輩は気が抜けたような声を漏らしてしまった。

そうか。
我輩は、『彼ら』の『会いたい』という気持ちを、蔑んでいた。
その気持ちの尊さを、我輩は忘れてしまっていたのか。
「さ、では行きましょう。マントの中を見て下さい」
シニガミが開いたマントの先に、光の渦が。
そしてその中に、懐かしいご主人の影が見えた。
「どうですか、互いに会いたいという願いが叶うというのは、すばらしいことだと
思いませんか。それが生者か死者かにかかわらず」
マントに包まれる直前、そんな声が聞こえてきたような気がした。
不覚にも、涙がこぼれそうに、鼻の奥が、痛い。

多分、今、我輩は、
消えていった『彼ら』と同じように、
幸せな笑顔、
なんだろう。

<了>