題名:Without Word
作者:糸染晶色


 湯気を立てる鍋を持って少年が歩く。齢の頃は十代半ば。
 パラパラと小雨が散る空気の中で、その白い煙は一層の温かみを想像させた。
 昼下がりの空は厚く雲に覆われ、辺りの景色は灰色に染まっている。

「シロー、エサだぞー」

 聞きなれた少年の声を聞いて小屋から飛び出した。

「(御主人だ!)」

 少年に駆け寄ろうとして、支柱に繋がれた鎖に止められる。
 なおも収まらず、吠えながら右に左にと跳ねまわり、鎖が打ち合う音が続く。

「ああ、ほら、ちょっと待って」

 前肢の届く場所まで来た少年にじゃれつくと、動きにくそうに身をよじる。
 わずかに湿った泥の足跡がズボンについた。
 少年は片手で鍋を上に持ち上げるように避けて、片手で犬の頭を撫でる。

「もう。シロ、ちょっと待ちなって」

 少年は小屋の前に屈んでエサ皿を引っ張り出した。
 鍋に飛びかかる勢いの犬から隠しながら中身を移すが、その背中から飛び乗るように前肢を肩にかけた。

 その程度は慣れたもので鍋の中身を移し終わると、少年はエサ皿を小屋の中へ戻す。
 温かそうな湯気をたてる雑炊も、雨が混ざってはすぐに冷えきってしまうだろう。

 少年が少しだけ身体を浮かすと、犬は肩から降りる。

「(飯ですか? 飯ですね?)」

 改めて少年が立ちあがると、犬は小屋の中へ駆け込んだ。

 雑炊の中に鼻先を突っこんでがっつく姿を覗きこんで笑い、少年は踵を返す。
 一歩、二歩と足を出したところで、また立ち止まった。

「ああ、来てたのか」

 停められた紺色の車の助手席ドアの下。
 その隙間に緑の両眼が光っていた。
 降られてもしっとり湿る程度の雨だが、それでも濡れるのは億劫だというように黒猫が丸まっている。

 目が合ったのちもピクリとすらしない。
 いつから見ていたのだろうか。

「ちょっと待ってろ」

 少年は足を早めて家の中へ戻る。

 あっと言う間に雑炊を平らげ、エサ皿を舐め終えたところで犬が猫に気付いた。
 そして一吠え。口の周りには雑炊の汁気が残っている。

「(おう。何の用だ?)」

 猫はこちらに視線を向けたまま動かない。

「(またエサでももらいに来たのか。それなら少しは御主人の役に立ったらどうだ)」

 もう一吠えしても静止したまま。
 聞こえているのかいないのか。
 犬は自分の声が出ていないのかもしれないという気にもなったが、
 ピンと立った自分の耳に届いている記憶を確認して、いつものことかと思いなおした。

「(まったく、そうしてると置き物みたいだな。侵入者に吠えるくらいしてみせろ)」

 すると今度は動いた。
 もっとも顔をこすってすぐに元の姿勢に戻ってしまったが。

 この犬と猫とに会話が成立した試しはない。言葉が通じないのだから当然といえばそうだ。
 何を言っても理解されることはない。

 加えて猫のほうは、その伝わらない言葉をすらあまり発することがない。

 玄関扉の開く音。
 再び少年が出てきた。
 両手にはそれぞれ傘と煮干しの袋を持っている。

「いるね」

 離れた位置から車の下を窺ってから、少年は猫の正面にゆっくり近づいていく。
 しかし、あと三歩というところで、猫はぱっと器用に反転して奥へと消えてしまう。

「あー……」

 少年は残念そうにため息をついた。
 それからさっきまで猫のいた場所に何尾かの煮干しを置いて離れる。

 たまには撫でさせてくれることもある。
 けれども大抵の場合は近づくと逃げてしまう。
 少年は驚かせないように、遠くで姿を見せてからにしたのだが、だめだったようだ。

 少年は犬の横にしゃがんで傘を差し、並んで猫の様子を伺い始める。

「どうかなあ」
「(御主人はあいつに甘すぎる。放っておけばいいのに。一度上下関係をわからせてやるべきだ)」
「可愛いんだけどねえ。どうしたら馴れてくれるかなあ」
「(とっ捕まえてやりたいが、この鎖に繋がれたままでは。どうしたものか)」

 見守っているところに猫が戻ってきた。
 少年と犬の位置を確かめてから煮干しを咥える。
 また奥へと少し身をかがめるようにしてから咀嚼し始めた。

「あ、食べた食べた」
「(ああ、もう!)」
「今度鰹節とかやってみようかな。でも風で飛んでっちゃうしなあ……」
「(せめて御主人に愛想よくすればいいものを)」

 猫が煮干しを全て食べ終えた。
 そして少年の方を向いて小さく鳴いた。

「<私ごときに重ね重ねの御厚情痛み入ります。このような施しにおすがりするのは誠に不甲斐ありません。
  数少ない獲物を横取りされ、空腹に苛まれて主にのみ糧を得ようかと思ってしまうこともございます。
  しかし、競争に打ち勝つべく研鑚を積み必ずや己の身を立て、恥ずかしくない姿でお目にかかる所存です>」

 そして雨の中へ駆けだす猫を少年と犬は見送った。

「行っちゃった」
「(食べるだけ食べたらすぐに立ち去るなどとは、なんと薄情な!)」

 少年が立ちあがる。
 伸ばした手に雨を受けて少し考え、犬へと顔を向ける。

「散歩行こうか?」
「(猫のあのような非礼にも笑っておられる。御主人はなんと心の広いことか)」
「煮干ししまってくるから」

 そして少年は手綱を持って戻ってきた。
 見慣れたそれを見て犬は低く吠える。

「(見回りですか! 喜んでお供しましょう!)」

 鎖と入れ替える少年の脇で犬が興奮して跳ねまわる。

「ほんとに散歩好きだなあ。さ、行くよ」
「(参りましょう!)」

 飛び出す勢いの犬を少年が手綱で制する。
 犬は止められたと悟ると少年の横へ戻ってきた。

 4階建てや5階建ての集合住宅が並ぶ通りを歩く。歩道は無い。
 アスファルトにはところどころ薄い水溜まりが張り始めている。

 少年は視線を犬から頭の上へ移し、深く息を吸う。
 雪が降るのは当分先だろうが、すでに空気は肺に刺さるように冷たい。
 この辺りの建物はどれも普通のものだ。東京のビル街のようなそびえ立つというほどの高さはない。
 その程度でも空に向けた少年の視界は左右の建物に阻まれて窮屈になる。
 周囲をコンクリートの塀に囲まれ、そして雨雲に閉ざされた空に蓋をされているような気持ちがした。

「あーあ」

 この空へ飛び出していくような、そんな力が欲しい。
 少年もかつてそう思っていた。いまもそう思っている。
 けれども不可能なのだと認め始める年頃でもある。

 ぼんやり右に左に視界を動かすと、通りに面した集合住宅2階にカラスを見つけた。
 軒下にとまって雨の様子を眺めているようだ。
 少年の視線に気づいて鋭いくちばしとともに顔を向けるが、すぐに興味を失ったようにそっぽを向く。

 翼があっても、この程度の雨で屋根の下へ逃げ込まなくてはならないのだ。
 そのことに少年は無自覚に安心していた。

「あはは」
「(どうしました御主人?)」

 一吠えした犬に視線を戻して苦笑いする。
 自分はこうして地上で犬の散歩をしているのがお似合いなのだ。

 現実を現実として受け入れていく。
 それを意識して理解するのはまだ先のこと。
 こんなアンニュイな気分も一晩寝れば消え、再び澄んだ青空に吸い込まれるような感覚を覚えるのだ。
 彼はまだ少年なのである。

 ヴォォーーーン。

 後ろから近づいてきた音に足を止め、路肩に寄って道を空ける。
 犬が飛び出さないよう手綱を引きよせた。
 横を抜けるところで車は減速し、それから再び加速する。
 もう見えていないだろうが少年は車に軽く一礼して歩き出す。

「なあシロ、お前はそうやって一生首輪に繋がれたままでいいのか?」
「(御主人。やはりところどころ我々の縄張りに入り込んできた輩がいるようです)」

 犬が電柱の前で立ち止まってマーキングする。
 少年はそれが終わるのを待つ。

「(これで不届きな輩も立場というものをわきまえるでしょう!)」
「くっふふふ。ったくもう」
「(おお、御主人、喜んでくださいますか!)」
「お前は何考えてんだろうなあ」

 少年は切にそう思う。
 この犬がペットとしてやってきてもう6年になる。
 とても可愛がって、少年が世話をしてきた。いまや大事な家族の一員であることは疑いない。

 しかし、これまで一度として言葉が通じたことは無い。
 愛情を抱くにつれて、こうしていることが犬にとって幸せなのか不安がつのってくるのだ。

 少年が立ち止まった。

「(どうしました?)」

 犬が少年の様子を窺う。
 膝を折って犬に顔を近づけ、手綱を持つ手でその頭を撫でた。

「なにか話してみてくれよ。なんでもいいからさ」
「(恐悦至極に存じます!)」

 興奮した犬の一吠えの勢いに驚いて少年は頭から手を離す。

「やっぱだめだよな」

 人には人の言葉しかわからないし、犬には犬の言葉しかわからない。

「技術や研究が進めば……、どうだろうなあ」

 そんなことが少年の生きている間に、ましてや犬の生きている間に実現することはないのだろう。
 犬の寿命は短い。

「んー?」

 さて、技術が進んで犬の言葉が分かるようになりましたと言われて、それで納得するだろうか。
 そこで少年の言葉に訳された言葉は本当に犬の言葉なのだろうか。
 そもそも人間同士の会話もそこで交わされている言葉は本当のものなのだろうか。
 考えが妙な方向へ進み始めた辺りで少年は考えるのをやめた。

 なにかの機械で犬語と人語の翻訳ができるようになったとして、
 昨日の食事がどうだったとか、散歩でこっちに行きたいだとかの会話が当たり前になれば忘れる疑問である。

 少年と犬は誰と会話することもなく家に帰ってきた。
 犬の手綱を再び鎖と入れ替える。

「そんじゃな、シロ」
「(お疲れ様でございました!)」

 玄関先で傘を振ってから、少年は家に入る。
 身体をぶるぶると振って毛皮についた滴を跳ね飛ばし、犬は小屋へと戻る。

 

 

 

 

 

 散歩から帰って来たのは午後4時にもなってない時刻。
 それから雨足が強くなり、落ちた水滴が地面から跳ね返るほどになった。
 少年の家も犬の小屋も雨の中で静まりかえり、誰も外に出てこようとはしない。
 やがて雲の上から薄明かりを届けていた太陽も沈み、重い暗闇が辺りを覆い始めた。
 その間、少年と犬は顔を合わせることはない。

 


「(寒い……)」

 身体が冷えて小屋の中で小さくなっていた犬がくしゃみをする。

「(散歩で少し油断しただろうか)」

 小屋の前に落ちた雨粒の飛沫がわずかずつ入りこんでくる。
 じっとりとした湿気と、冷たい空気にさらされる犬がまた鼻を震わせ、くしゃみをする。

「(ううむ、鼻の調子が悪くなると見回りに支障をきたす。このような手抜かりを犯すとは。……ん?)」

 見なれた緑の両眼が闇の中に浮かんでいる。
 黒の毛皮は溶け込んでしまってわからないが、あの猫だとわかった。

「(むう。この醜態を笑いにきたか。忌々しい)」

 猫がタッと雨の中へ駆けだし、犬の小屋へと入ってきた。

「(何の用だ)」
「<また貴家の軒先をお借りしておりましたところ、お風邪をひいていらっしゃるご様子。
  私には何の力もございませんが、この身でもって温もりの足しとなることはできましょう>」
「(おい、こら)」

 犬の脇腹に寄り添って猫が丸くなる。
 やがて体温が犬に伝わってくる。

「(うむむ……。これは温かいが、しかし。……これくらいで御主人への恩に報いられたと思うなよ。ふん)」

 少年の家の玄関扉が開いた。家の明かりが外を照らし、少年の姿が浮かび上がる。
 その片手にバケツを抱え、小屋へと向かう。

「(御主人? このような雨の中では御身体に障ります! お戻りください!)」
「<ああ、いまだ無力な身でお会いすることになりましょうとは。お恥ずかしいばかりです>」

 少年はその手の傘で入口を覆うように小屋の前でしゃがんだ。

「シロー、母さんに捨てる服とかもらってきたぞ。お? シロとクロは仲良かったのか?」

 バケツの中に詰まった古着を一枚ずつ小屋の中へ詰め込んでいく。
 犬と猫の身体を包むように古着の位置を調整した。

「これでよし。明日になったら、もっとちゃんとしてやるからな」
「(有難き幸せにございます)」
「<助かります。主の情の深さがいかばかりか私には測ることもできません>」
「あ、いまならいいかな」

 少年が猫の頭に手を載せる。

「毛ヅヤもつやつやだなー」
「<?????>」
「それじゃ風邪ひくなよ」

 そして少年は再び家へと戻っていく。
 言葉で通じあえない彼らは、これからもこんな関係を続けていく。