タイトル:『おむかえ』 (原作 KAICHOさん作品 "つゆのあとさき" を、進行豹がリライト) -----------------------------------------------------------------------  駅の雑踏の隅の隅。  行きかう人々から隠れるようにして、僕はご主人を待っている。 「いってくるよ」と改札をくぐるご主人の背中を見送り、 「ただいま」と改札を抜ける笑顔を迎える。  おかあさんの匂いが残る毛布がなければ夜鳴きしてしまっていた子犬のころから、 走る楽しさより歩くラクさを好むようになってしまったこのごろまで。  何度も、何度も、何度も、何度も。  何度も何度も繰り返してきた、それが僕のおしごと。 ――だったのだけれど。 「ただいま」の声が、聞こえない。  朝になってしまって。また夜が来て。  それを繰り返し、繰り返し、また繰り返して繰り返しても。  が。「ただいま」が遅くなること自体は、そう珍しいことでもない。  例えば、「シュッチョウ」というイマイマしい響きが聞こえてきてしまったときには、ご主人は朝と夜とを何度か繰り返さないと、帰ってきてくれない。  人の暮らしを見て学んでも、わからないことの方が全然多いし、シュッチョウが果たしてナニモノなのかは、未だにとんと見当さえもつけれないけど――その事実だけは覚えてしまった。  だから、待つ。淡々と。  シュッチョウがきっとご主人を、ひどく手こずらせているのだろうと信じて。  そうと信じる気持ちが揺らいでしまうときにも、やはり待つ。  それ以外、僕にできることなんて、何もないから。 「おい、またあの犬、ここで待ってるぜ」 「かわいそうに。随分よごれちゃったわね」 「もともと年寄り犬だからなぁ。世話、誰もしてないのかな」 「こんなところにいたって、ハチ公にはなれないわよ?」  ……ときどきは、見知らぬ誰かが何かを話しかけてきてくれる。  けれども、やはり、細かいことはわからない。  撫でてもらえたり、エサを与えてもらえるときには、尻尾が動く。  けれど、心が嬉しさに弾むことはない。  そのとき、僕に触れているのは、ご主人の手でも声でも、無いのだから。  そうして、待って、待って、待つうち。  “人間”とは違う何かが、雑踏にまぎれているのに気づいた。  一度気づいてしまえば“彼ら”は、決して珍しくないとも知った。  “人”の華やかな生気をもたぬ、ひたすらに深く静かな存在。  “人”にまぎれて、ただぼうとその場に立ち尽くし。  “人”には触れず、また触れられることもなく、うつろな瞳で――多分、何かを探し求めて動けずに居る。  “彼ら”は死者だと。  そして“彼ら”も、誰かを待っているのだろうと、いつしか僕は感じ始めて。  そう感じれば、ほんのわずかな親近感を覚えてしまう。  “彼ら”のもとに、待ち人が訪ねてくるように。  そして誰より、僕のところに、ご主人様が帰ってくるように。  待って、願って、願って、待って。  けれども何も、変わらないまま、また日がすぎて、夜が過ぎて。  今、僕の隣には“彼”がいる。  いつのまにシュウデンとやらが行ったのか――あたりにはもう、僕と“彼”とだけしかいない。  「ふぅ」  なら、今日もご主人は帰ってこない。  思いが鼻を鳴らしてしまって、響いた音に、いっそう疲れを感じてしまって。  「どなたを」  「っ!?」  「どなたを、お待ちなのですか?」  驚く。  “彼ら”のうちに、話をできるヤツがいたことにもだし、それ以上に、“人間の言葉”をこんなにハッキリ、理解できている事実にも。  「僕は、ご主人を待っている」  僕の出るのは、吠え声。  けれど、“彼”は、静かにうなずき答えてくれる。  「そうですか。ご主人に会えるといいですね」  声をさっきよりもなお、くっきりと感じ。  感じれば、“彼”の姿もだんだん、はっきり見えてくる。  この場を通る人間たちが一番よく身につけている、スーツかいう服をよれよれに着た、白髪交じりの、年配の男。  顔はご主人と少しも似てはいないのに、匂いのどこかに、ご主人と共通したものを感じたような気がして、僕はついつい、問いかけかえしてしまう。 「そういうキミは、誰を待ってるの?」 「……私は───」  男の視線が、急にきょろきょろ動き始める。 「私は──何を……待っていたのだったかな」  呆然と。そう言ってしまって。  けれど男は、それまでとおんなじように、他の“彼ら”とおんなじように、口をつぐんで、再び、ただ一点を見つめ始めて。  けれど、一度でも話した“男”は、僕の目には他の“彼ら”とははっきり違って見えて。  だから、“男”が――消え去ったときは、ひどく驚き、少し寂しくも思った。  あの日は、雨が降っていた。  雨に打たれて、それでも濡れることもなく、“男”はただただ、佇み続けていた。  そこに、何かが近寄った。  ひどくぼんやりしたソレは、たくましい青年のようでもあって、同時に小さな女の子にも、威厳たっぷりな老婆にも、でっぷり太った中年男にさえ見えた。  「――――」  ソレが、何かをささやいた。  “男”は小さく、頷き、うつむき――その表情が見えなくなった。  そして、“男”は、ソレのあとに続いてどこかへ向かい ――そのまま二度と、帰らなかった。  だからといって、どうというほどのこともなかった。  “男”は、ご主人じゃないし、僕は、ご主人を待っているから。  けど。  寂しいな、と感じたことも、間違いなかった。  寂しいな、という気持ちがあるいは、引き寄せる力でも持っているのか、そんなときには、“彼ら”のうちの別の誰かが、僕に話しかけてきた。 「だれを待ってるの?」 「わんちゃんも、ママがこないの?」 「あんたも長ぇな。お互い、待つ身は辛ぇよな」  あるいは“女"で、あるいは“幼女"で、あるいは“あんちゃん"であったとしても、繰り返される出来事は、なぞったようにおんなじだった。  “ソレ"は、待ちくたびれた“誰か"に近づき。  そして、どこかへ連れていくのだ。  その繰り返しを繰り返すうち。  “ソレ"の声さえ、僕は聞き取れるようにもなった。   「お疲れでしょう、そろそろ、お休みしませんか」 「……休み───?」 「そうです、あなたは十分待った。向こうで奥様もお待ちですよ」 「……妻が」 「はい、奥様が、早くお会いしたい、と」 「───妻が? 私を待っていた?」 「そうです」 「……私は……誰を待っていたんだ?」」 「私には、そこまではわかりかねますが――」 “ソレ"は、綺麗な顔で笑う。 誰とも似てない/誰にも似ている、無個性な顔で。 「どなたを待っていたにせよ」 「だな。私が一番会いたいのは、妻だ」 「では、ご案内いたしましょうか?」 「ああ、頼む」 「お任せ下さい」  ……ご主人は、まだ帰らない。  昼が来て、夜が来て、昼が来て、夜が来て、また昼が来ても帰らない。  赤く染まった葉が散って、真っ白で冷たい花が空から降ってきて、その花が溶け、代わりに木々が色鮮やかな花をつけ、花を散らせてぶきぶきとした緑が陽射しの下に満ちても。  ……それにしても……。  ご主人は、遅い。  これだけ待って、帰ってこなかったことなど、今までなかった。  ご主人の身になにかあったのだろうか。  このもやもやとした気持ちが、“心配”なのかもしれない。  僕が小骨を喉にさしちゃって吐けなかったとき、ご主人は、僕を“心配”してくれた。  このもやもやを、あのときのご主人も感じていたなら、これが“心配”なのだろう。  僕が、ご主人を心配している……  なんでだったか、一瞬、自分でわからなくなって、怖くなる。    僕がご主人を心配するのは、ご主人が帰ってこないから。  帰ってこないご主人を、僕がずうっと待っているから。  ――けど、なんで?  なんで、僕はご主人のことを、こんなに寂しい気持ちになっても―― 「いや、違う。待っているから寂しいんだ。  待つのをやめたら、寂しい気持ちもなくなっちゃうんだ」  わかってる。  そうしてしまえば、それと同時に、たくさんのものもなくしてしまう。  ご主人の声の穏やかさ。  ご主人のまなざしの暖かさ。  ご主人の匂いが、僕をどんなに安心させるか。  ご主人の手をなめるとき、少ししょっぱくて煙の匂い味もすること。  ご主人が僕を撫でてくれるあの、幸せいっぱいの誇らしさ。  ……それを、なくしたくないから待つ。  それを、また味わいたいから、じっと待つ。  ただ、それだけだ。  それが答えだ。 「もう、これ以上、このことを考えないほうがいい」  そう思っても、待ちつづければ、時間はどんどん膨れてしまって。  膨れた時間の使い道なら、観察か、考え事かの他にはなくて。  仕方なく僕は想像し、想像ののちに多分、正解へとたどり着いた。  あの“何か"。  “彼ら"をどこかへ連れ去っていく、“ソレ"は恐らく―― 「お疲れでしょう? そろそろ、お休みしませんか」 「――必要ない」  “ソレ”が僕へと声をかけてきたとき。だから、遠慮せず牙を剥くことができた。  ご主人の許可も得てない“死”ごときに、触れさせてやる義理は無い。 「しかし、あなたは十分待った。向こうでご主人もお待ちですよ?」 「ご主人が!!?」  驚いて。驚いている自分に、驚く。  いや、まぁ、それはそうだろう。  気づいてしまえば、そうであるとしか思えない。  ……ご主人は、もう死んでしまっていて。  だから、待ってる僕の元へ帰ってきてくれない―― いや、帰ることができなくなってしまったんだとしか。 「はい、ご主人が、早くお会いしたい、と」 「ご主人が……僕を……待ってた」 「そうです」 「それは――いつから?」 「お会いしたいと願わてたのは、 ご主人がお亡くなりになられてすぐからでした。 けれど同時に“会うのはできるだけ先になるよう"と、 そうもご主人は思っていらっしゃいました」  自分のことのように、ご主人の気持ちを言うな、と。  うなりたいけど、なぜだかできない。 「それが“待つ"へと変わったのは、 あなたが亡くなった瞬間からです」 「僕が――僕も、死んでいる?」 「そうです。駅前でご主人を待ち続けるまま――」 「っ!」  そうか、と気づく。  “彼ら"と初めて会話をできた、あの晩に。  人間の言葉の意味を、はじめてあれほどはっきりわかった、あの瞬間に――  僕は、あのとき。死んでしまっていたのだろう。 「なら……なんで、今の今まで」 「あなたが、受け入れられるようになるのを、待っていたからです」  ご主人の死を。  自らの死を。  語られていない言葉をけれど、心が聞いて。  つまり、これこそ、“受け入れ"なんだと、静かに感じる。 「今が、そのときだと」 「ええ。随分お待ちしました。そして、待たせてしまいましたね」  “ソレ"は、綺麗な顔で笑う。  誰とも似てない/誰にも似ている、無個性な顔―― その笑みの中に、懐かしい、僕の大好きな、ご主人の笑い皺さえ浮かべる顔で。 「お会いに、なられますか?」 「もちろんだ。案内をして欲しい」 「いえ、それはできません」 「なぜっ!!?」 「熱烈な希望がありましてね。私の役を――」  ソレの声なんて、聞こえなくなる。  かすかに聞こえ始めた音が、僕の全てを惹きつけるから。    だって、これ――これって、だって!  間違いない、間違いない、間違いない、間違いないっ!!!!!!  いつのまに、到着していた電車がぷしゅう、と走り去る。  幾十人も、幾百人もの人間が、ざまざまな足音を立てつつ、歩く。  けど――僕は。  たったひとつの足音だけを、もう少し、もう少しだけ待ち続ける。  かつかつと階段を靴が蹴り。  そして、人ごみの中を抜け―― 「待たせたな。お迎え、ご苦労」 「ご主人っ!!!!!!!!」  飛びつく。  笑顔で、受け止められる。  そして全てが――暖かな白に溶けていく。   <了>