タイトル『栄養ドリンク』 yosita (リライト担当:糸染晶色) 2本目……。 いや、3本目か……。 「効かない、まったく効かない……」 栄養ドリンクのビンを床に転がす。 ビンは資料の山にぶつかってすぐに止まった。その山はとうの昔に崩れて床を覆っている。 それらが収まっているべき本棚は、本の隙間にホチキス留めの紙束が詰め込まれている有様だ。 わずかに残った滴がビンの飲み口から垂れるが、拭く気にならない。 時計の針は2時半を指す。 首を回すのにも頭に鈍痛が走り、逃れ難い脱力感と倦怠感に取りつかれてしまっている。 ダメだ、こんなじゃ……。 「眠い……」 「眠すぎる……」 徹夜2日目……。 もう2日目。 いや、まだ2日目。ベッドに目をやる。 寝たい。ぐっすり泥のように。 汚いせんべい布団も天国のように見える。 吸い込まれてしまいたい。ああ。 不規則な生活は今に始まったことではないし、寝不足なのもいつものこと。 しかし、年々と身体に無理が利かなくなっているような気がする。 ――今年で35歳。 若い頃なら多少の無茶も平気だったが、そういうわけにもいかないのかもしれない。 仕事の締切は明日の――違う。今日の24時だ。 フリーのシナリオライターという肩書の響きは悪くないんじゃないかと思う。 しかし、俺の仕事は年齢制限がかかるものがほとんどなので大っぴらには言えないのが実情。 実際のところ、友人にも仕事のことはあまり話していない。 作家になるのが夢だった。 高校生のころから、あちこちの新人賞にも応募した。 だが一度として一次審査すら通過しなかった。 将来に不安を抱えつつも、いつか受賞して売れっ子になるという甘い夢に浸っていた。 華々しい活躍をする作家の名前が書店に踊る裏側で、多くの作家希望たちが朽ち果てている。 当然知っている常識を直視せず、自分の姿からも目を逸らし続けてきた。 ――このままだとまずい。 ずっと感じていたものを行動に移したのが25歳。遅すぎた。 ようやく開始した一般企業への就職活動は、ことごとく落ちた。 自分より何歳か若いだけの連中より明らかに軽んじられた。 面接官からもリクルートスーツの連中からも嘲られているように感じた。 物語の中で生きたい――そう本気で思ったことは何度あったか。 キャラクター達はいつも生き生きとしている。 しかも、ハッピーエンドが決まっている。 こんないいことはない。 ガガガガガッ! ガガガガガガッ! 異音に背中がびくりとする。 着信を受けた携帯の振動が机を叩く音だ。 おそるおそる液晶表示を見ればディレクターの田端から。 メールでない。電話だ。 ガガガガガッ! ガガガガガガッ! 振動は止まない。 原稿の進捗を確認するメールを既に何通も受けている。 曖昧に誤魔化し続ける返答にしびれをきらしたのだろう。 心拍数が上がり、冷や汗が滲みだす。 これに出るべきか。しかし、いまだ原稿は上がっていない。 出たとしてなんと答えるべきか。 ガガガガガッ! ガ――。 不在着信アリ、の表示を残して静寂が戻る。 「ふうー……。はあ」 携帯を机に置き――。 ピンポーン。 悟った。 深夜2時半過ぎの呼び鈴。着信直後のタイミング。 玄関扉の向こうにいる。 黒い怨念が玄関扉を染め上げ、部屋の中を満たさんとするのを感じる。 ガガガガガッ! ガガガガガガッ! ガガガガガッ! ガガガガガガッ! 再び携帯が振動を始める。 液晶を確認するまでもない。 黙っていれば留守だと思ってくれないだろうか。 都合のいい考えにすがりたくなる。 ガガガガガッ! ガガガガガガッ! ガガガガガッ! ガガガガ――。 再びの静寂。 ガガガガガッ! 今度の着信音は短い。 新着メールには―― 『窓のカーテンに君の人影が映るのを確認してるよ』 そして―― ピンポーン。 ……扉を開けるしかなかった。 「やあ。こんな時間に悪いね。しかし、開けてくれるのが遅いじゃないか。そんなに集中してたのかい?」 「あ、ああ。そうだな。申し訳ない」 就職できず、途方にくれていた俺を救ってくれたのが、高校の後輩だったこの田端という男だ。 こいつ回してくれたPCゲームシナリオの仕事が思いのほかに高評価を受けた。 そこから仕事が徐々に増えていき、気がつけばフリーのシナリオライターになっていたわけだ。 小説家でなくても、同じ物語を作る仕事である。夢は叶ったと言っても過言でない。 そしてどうにかの稼ぎ口を与えてもらった。 後輩ではあるが、俺はこいつに頭が上がらない。 「原稿は?」 「……まあもう少し待ってくれ」 「おいおい、ここまできて無駄な抵抗はやめてくれ。締切には間に合うのか?」 「ど、どうにか」 「そうか。じゃあちょっと見せてくれるか?」 「……」 「どうしたんだ?」 「あ、ああ」 もはや抵抗する力はなく、田端の言いなりの操り人形のように動く。 何十時間とPC画面に表示しっぱなしのテキストエディタを示し、そのスクロールバーを田端が操作する。 そして田端は最後にフォルダからデータサイズを確認して嘆息した。 ただただ肩身が狭い。 「これで本当に間に合うのか?」 「…………」 「なあ?」 「……すまない」 シナリオライターになったはいいが現実は甘くない。 締切、締切に追われ続けて終わりが見えない。 おかげで30歳になる前に早くして頭も禿げ上がってきた。 近所の子供からは『中途半端ハゲ』と呼ばれる始末だ。 田端はちらりと部屋を見回す。 「まあ、お前も頑張ってはいるんだろう」 「……?」 「だが、締切を破ってもらっちゃ困る」 「……そうだな」 「そこでだ。今回は特別にオレが昔から使ってる栄養剤をプレゼントしてやる。ほら」 そう言って黄色い箱の栄養ドリンクを差し出してきた。 それを取り出した鞄の中には同じ箱がいくつも顔を覗かせている。 「一本2000円のヤツだ。キくぞ」 徹夜のお供、栄養ドリンク剤。 カフェイン、タウリンたっぷり。 若い頃は、150円程度のそれ一本で張りきれたような気がするが、いまは効いているのかどうか。 いつも使っているから、逆にその効果もわからない。 耐性がつくと聞いたこともある。 『用法用量を守って御使用下さい』の注意書きを無視するようになって久しい。 部屋には空きビンが乱雑に転がっている――。 「助かるよ」 田端の手から黄色い箱を受け取った。 開封して喉に流し込む。 「さてそれじゃあ頑張ってくれ。オレはしばらくここで寝かせてもらうから」 そう言って俺のベッドに横たわる。 先輩後輩の関係で、昔からこういうことはよくあった。少しだけ懐かしくなる。 「さてと」 キーボードを叩いてテキストエディタの白地を埋める仕事を再開する。 文字。文字。文字。 感覚が曖昧になって、思考にもやがかかったまま体だけが淡々と文章をつづる。 ……ちょっとトイレに行こう。 「――――――!?」 一瞬の浮遊感と右半身への鈍痛に、何が起こったのかわからなかった。 床にうつぶせになったまま状況を認識する。 足裏の感覚からして転がったビンを踏みつけて転んだらしい。 本棚に突っこんで、無理な詰め方をした部分から中身が崩れ落ちたようだ。 倒れた姿勢のまま痛みが引くのを待つ。 起き上がる力が出ない。 ああ、下の資料がクッションみたいにやわらかい……気がする。 頭の上に被さった紙束がいい具合に明かりを遮って……。 『久しぶりだね』 なんか女の子の声がする。 むさい男二人の部屋に? 『こっちに来てよ』 声優は誰だろう。 空耳か。こんなの聞こえ始めて……。 『というより、来てもらうからね』 声にエコーがかかって、頭の中に反響する。 意識が、指先から離れて――。 「うーん」 しまった。寝てしまったか。 周りの様子にすぐ違和感を覚えた。 どこだここは? 自分の部屋ではない。 「よう……」 田端だ。起きていたのか。 赤いイスに腰掛け妙な笑みを浮かべている。 「起きたか」 「……」 「まぁ、座れよ」 なんだここ? 奇妙すぎる。 円形状の天井の高さは2メートル。 部屋の壁も球面状に曲がっている。 しかも、周りのも全てイラストのようだ。 アニメの世界にポンと投げ出されたようなそんなイメージ。 「これは夢か?」 「さてな……。夢にしてはあまり気分がいいものじゃない」 田端は、いやに落ち着いている。 いつから起きていたのだろうか。 『2人とも揃った――』 頭の中で声がした。 「ひっ!」 等身大サイズの人形が2人テーブルの周りをいそいそ歩きながらドアから出たり入ったり……。 しかも、『おはよう、アリス』「おはよう、アリシア』と2人で会話しているようだ。 身なりはメイド服に背中まで延びた金色の髪。 こいつらの声か……? 不気味なのは、その人形には表情がまったくないことだ。 『私たちを覚えてないの?』 また声がする。 この人形達の声だろう。 しかし、人形達はこちらを見ておらず、口元も全く動いてない。 「田端、この二人が話しているのか?」 「そうらしい」 「何なんだ、こいつらは?」 『覚えてないのー? ひっどーい』 『薄情者ぉー!』 「うわ」 「どうもオレたちが悪かったらしい。彼女らを覚えてるか?」 「なんだよそれ? わけわかんねえ」 「まあ無理ないか。まずは、ここがどこかわかるか?」 俺にかまわず田端は話しはじめる。 「すでに気づいているかもしれないが、ここはビンの中だ」 「ビン?」 気づいているって、は? 「栄養ドリンクだ。つまり、ここはそのビンの中」 「はぁ?」 つまりって説明になってないぞ。 「ほら見てみろ?」 田端は天井の小さな穴を指さす。 「そこの穴から見えるだろ、ビンのフタが」 言われれば、そう見えなくもない。白い何かがぼんやり見える。 「ああ、わかった。わかった」 面倒なので、適当に答える。 まずは田端の話を聞いてからにしよう。 珍しく、田端は話をしたがっている。 一応は信頼できる男だ。 「それで?」 「そうだ、僕たちはビンの中に閉じこめられた。まずはそこまではいいかい?」 全くもってよくないが。 「それで?」 「彼女たちの話を理解するの相当手間取ったよ。君が寝てるのが恨めしかったね」 『アリシアー。やっぱどっちも覚えてないってよー』 『そんなのひどいよ残酷すぎるよー』 「――そして彼女たちは僕たちが作り上げたキャラクターなんだよ」 「……」 田端は何を言っている? 「ちょうど7年前にお前の部屋で呑みながら即興で物語を作ったのを覚えてないか?」 「7年前……?」 「まぁ、あの時は二人ともかなり酔っぱらっていたからね。オレも言われてそうだったような気がする程度だよ」 「その即興ストーリーの登場人物だってのか?」 「ああ、どうやらそうらしい」 バカらしい。 そんな話、どう信じろと言うのだ。 「それと俺たちがここに閉じこめられるのとどう関係しているんだ?」 「そこだ、そこだよ。どんな話だったかも定かではないが……」 田端が断片的に語った話はこんなものだった。 あるところにお屋敷に仕えている小間使いの姉妹がいて幸福でも不幸でもない日常を送る。 まるで意味不明なストーリーだった。強いて言えば、日常系か。 「そんな話だったか」 うっすら思い出した気がする。 だが今の事態とはどうも結びつけることができない。 『おかげさまで私たちはずっとこんなでーす』 『こんなでーす』 「なんでも今まで同じ物語を繰り返し続けてきたらしい。彼女たちは」 「同じ物語?」 『あなたたちが書いた私たちの物語ですよおー』 『そーやってほったらかしてポーイなのねー!?』 俺はもう頭がどうにかなってしまったようだ。 この田端もきっと幻覚だ。そうだ。そうに違いない。 「アリシアとアリスの話を原稿用紙に書いてる途中で寝てしまった」 「ああうん。そうだったかもしれない……」 酒をガンガン呑みながら、眠くなってきたって言ったら高級栄養ドリンク飲ませて――。 「ん?」 『そうなのー。お酒と栄養ドリンクなのー』 『原稿用紙にいっぱい染み込んできたのー』 「ビンや缶を雑に転がしてたせいで彼女らの原稿用紙を汚してしまったらしいんだ」 「あー」 そんなこともあったっけ。どこからかそれらしい記憶が現れてきた。 そのときの栄養ドリンクは、今日、田端が持ってきたものと同じだ。 「で彼女ら曰く、もう疲れたから代わってほしいんだと」 「は?」 『もーねー2500回以上!』 『3000回以上!』 『4000回!』 『10000回!』 頭の中に直接怒りが伝わってくる。 「彼女らの物語はたった1日分で終わっている。 そしたらまた最初から。ずーっとその繰り返しだ。7年来る日も来る日も」 同じ1日を2500回……。 『私たちは1000回目で気づいたの、同じ1日を絶えず続けていることを。ねぇ、アリス』 『ええ、アリシア』 『私たちの代わりにあなた達がこの物語を続ければいい。それがあなた達が望んだこと。ねぇ、アリス』 『ええ、アリシア』 「えっ……」 「オレ達がこう言ったのを覚えてるか? 『物語の中で生きていきたい』」 それはもう何年も前から心の隅をよぎる言葉だ。 『だから、ね』 ふと景色が変わった。 視点が変わった。これはあの人形たちが見ていた景色? 「おはよう、アリス」 自分がしゃべっているのだと自覚はある。しかしこの声はさっきの人形の――。 「おはよう、アリシア」 田端がしゃべっているはずだが、やはり声は――。 『ずーーーーっと、そうしてるといいの』 『私たち辛かった』 俺と田端は彼女たちと入れ変わった。 厳密には意識が入れ替わった。 外見は彼女達と同じまま。 彼女たちと同じセリフ、同じ行動をすることしかできない。 それでいて意識だけはある。 『これからは私たちの一日をあなた達が過ごすの』 このままずっと? 終わりも無く永遠に? ちょっと待ってくれ。現実の俺達はどうなる? 『私たちが代わるよ』 そんなのできるわけない。シナリオライターの仕事なんてできるのか!? 『わかんない』 勘弁してくれよ。頼むって。信用失くしたらおしまいなんだよ。 『そんなの、もう気にしなくていいよ』 『ここで、ずーっと同じ一日を繰り返してればいいもの』 やめてくれ! 悪かった! 助けてくれ! なんでもする! どうすればいい!? 『……じゃあ』 『完結、させて?』 え? 『あなた達にはどうでもいい物語かもしれない』 『ただの作り話で使い捨てで』 『だけど私たちにはこれが唯一の現実だったの』 『でもでも一日が終わったところで私たちの現実は終わってる』 『短くてもいいの。この一日の続きを書いて――』 『私たちを――解放してほしい』 続きを書けばいいんだな。わかった! 約束する! 『本当に?』 『嘘ついたら針千本飲ます』 絶対にだ! 二人が顔を見合す気配の後で、 『わかった。絶対だよ』 その一言が響き、再び意識が白んで落ちた。 自室の床で目を覚ます。 頭の紙束を手に取る。 あの二人の話を書いた原稿用紙だ。ところどころに染みがついている。 それから俺はアリシアとアリスの話の続きを書いた。その結びはこうした。 『二人は大人になって恋をして、それぞれの人生を歩んでいきました』 こうすることで、文章の終わったところで足止めされることなく、 原稿用紙に書かれた先に、彼女らの人生を解き放ってやることができるのだと考えた。 俺の部屋で田端が目覚めたのは彼女らの続きを書き終えた後だった。きっと帰してくれなかったのだろう。 そのときの原稿は締め切りを過ぎてしまったけれど、半信半疑の田端も最後は納得してくれた。 それ以来、彼女らには一度も会っていない。 原稿用紙のその先で楽しくやっているだろうか。 どうかそうであってもらいたい。 <了>