タイトル:「玄関ドアの、外の中」
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「通して」
「だめ」
「通してってば」
「だめよ」
「通してもらわないと困るの!」
「だーめ!」
 ……。
 ……。
 もう小一時間も、こんなやり取りが続いている。
 目の前の少女は、出口のドアをしっかり押さえて、アタシの行く手を阻む。
 『不思議の国のアリス』の世界から飛び出してきたかのようなゴシック調の服、
大きな碧眼、金髪には大きな赤いリボン。
 イソギンチャクみたいなふくれっ面でなければ、もっと可愛いのに。…って違う
違う!
「早く行かないと、会社に遅れちゃうのよ!」
「だめったらだめ!」
 いつもは恨めしげにこっちを見るだけだったのに、今日に限って、少女はがんとして
出口のドアを譲ろうとしない。
 アタシはもううんざりしていた。
 ここでこうやって足止めを食っていることも。
 ここから出た後、今日もつまらない一日が始まることも。
 これ以上の厄介ごとはごめんなの!
「遊ぼうよ、ねぇ」
 少女はねだるように上目遣いでアタシを見る。
 アタシはため息をついて、腕組み。
「ホントに会社に行かなきゃいけないんだって」
「その前に、ちょっとだけでいいから」
「ダメよ、早く会社に……」
 だんだん、イライラしてきた。
 IT業界期待の(?)キャリアウーマンは、アンタみたいに年中遊んでりゃそれでいい
お子様とは違うのよ!
「いいじゃない、どうせここから出るまで、外の時間は止まってるんだから」
 そんな言葉に、
「アンタと遊んでると、疲れちゃうのよ!」
 つい大きな声を出してしまった。驚いた少女は首をすくめ、固く閉じた瞳を下に
落とす。
 叱られた子猫のようなその姿に、罪悪感。
「……ごめん」
 謝ると、少女は無理に笑顔を作って、首を振った。
「……ううん」
 アタシは少し諦め気味に、部屋の真ん中に置かれた椅子に腰を下ろした。白い
クロスがかけられた丸テーブルに頬杖をついて落ち着く。
「その椅子に座ってくれたの、本当に久しぶり」
 うれしそうに、少女は対面の椅子によじ登る。椅子に座ると、少女は胸から上しか
見えなくなってしまった。
 やることもないので、ぐるりと部屋を見回す。
「ここ……、気づかないうちに、随分と荒れたわね」
 大きな部屋じゃない。二人が対面に座るテーブルが一つと椅子が二つでほぼ一杯。
なのに、いつの間にか部屋は荒れ放題。小さな窓からは草木が侵入し、床は雑草が
ぼうぼう、隅の小さなタンスの上には人の頭ほどもある大きなキノコまで生えていて、
あまつさえ天井付近には両手を広げても抱えられないほど大きなヒマワリが咲いて
いる。
 何年も放置された廃屋だって、ここまで派手に荒れはしない。
「だってあなた、全然ここで遊んでいかなくなっちゃったじゃない」
 少女はそう言って唇を尖らせた。体が揺れているのは、テーブル下で赤いラメの靴を
履いた小さな足をぶらぶらと振っているからに相違ない。
「仕方ないでしょう? アタシだって忙しいのよ」
 ため息交じりにそう弁明する。まるで愚痴を漏らしているみたいだ、と、言ってから
気が付いた。
「……最近、そればっかり」
 ──そう、だったかな。
 思い返してみるが、確かにこの数年、ここで少女と遊んだ記憶はない。
 子供の頃は、よくここで遊んでいたっけ。トランプや、お絵かきや、おにごっこや
かくれんぼ。文字通り時間を忘れて、少女とすごす時は、外に出れば忘れてしまう
けれど、本当に楽しかった。
 だのに、今は。
 原因はわかっている。就職後しばらくして、仕事が忙しくなってきたからだ。
 毎日終電近くまで働いて、帰って、泥のように眠って、また定時出社する毎日。
 IT戦士だ、キャリアウーマンだ、辛いときはみんな同じだ、ここでへこたれたら
脱落するだけだ、そう思ってがんばってきたけれど。
 『社畜』という言葉を聞いて愕然とする。多分今、アタシはそんな状態なんだろう。
 頬杖をついたまま、アタシは、はぁ、とまたため息。
「前は一緒に、ずっとずっと遊んでくれたじゃない」
 少女はまた唇を尖らせて視線を落とす。
「忙しい忙しいって、全然構ってくれないんだもん」
「本当に、忙しいのよ……」
 口をついて出たのは、情けないくらい正直で、疲労感に溢れる言葉だった。
 減らない仕事、怒鳴る顧客、女性を見下している男性の同僚、無能な上司……。
 どれもこれも、納得できないことばかり。それが心に重くのしかかって、アタシの
余裕をすり減らしている。
「どうして、こうなっちゃったのかな……」
 ぽろりと漏らした言葉に、自分ではっとした。
 今まで、弱音なんか吐いたことなかったのに。そうしたら負けだ、と、ずっと思って
いたのに。
 そんなアタシを見透かすように、少女は言う。
「いいじゃない、弱音吐いても。あたしでよかったら聞くよ?」
「───ナマ言ってんじゃないわよ、子供のくせに」
 アタシの言葉に、少女は真剣な顔になる。
「ずっと一緒だったんだから、あなたのことなら大体分かるもの」
 ──そう、なのかな。
 この子に頼っていいのかな。
「いつでも言ってきなさい。どーんと聞いちゃうんだから!」
「──そのノリが不安だわ」
 アタシは、ふ、と笑ってしまった。
「あ! 今、笑ったでしょ! 笑った、よね!」
「いや、笑ってない、笑ってないよー」
「いーや、笑った! 絶対笑ったって!」
 そう言い合いながら、アタシたちは笑顔になっていた。こうやって屈託なく笑うのも
久しぶりだ。
「うん、昔の笑顔に戻った!」
「そう?」
「うん。さっきまでは眉間にシワが寄ってたもの。あんなんじゃ、いいことなんて
起こらないよ」
 こんな子供に諭されてしまった……。
 しかしまぁ、前向きなのはいいこと、なのかも、しれない。
 上を向いて歩こうって誰かも歌ってたしね。
「……そう、かもね」
「でしょ?」
 少女はにっこりと笑う。
 綺麗だ、と思った。
「だから、遊ぼう!」
 そうよね。
 ここで遊んだって、どうせ外に出るまで時間は進まないんだ。
 だったら、ここで力いっぱいリフレッシュしてもいいんじゃない?
 そうと決めれば、やることはすぐ目の前にあるじゃない。
「なにして遊ぶ? なにして遊ぶ?」
 少女は目を輝かせながら、こちらを見ている。
「とりあえず、」
 アタシは立ち上がって両手を腰に当てた。
「まず、部屋の掃除をするってのでどうかしら。雑草を全部取ってさ、床のタイルが
見えるようにして、それをピカピカに磨こう」
「えー? 掃除ー?」
 少女は明らかに不服そうだけど。
「そう。掃除が終わったら、次からはすぐ遊べるようになるしさ!」
「──そうか、うん、そうだね。じゃぁ、掃除をしよう!」

 掃除の間、アタシたちはたくさんお話をした。
 今までのこと、これからのこと。
 少し難しかったかもしれないけれど、仕事のこと、職場のことも。
 全部話し終えたら、少女は雑巾を絞る手を止めて、言った。
「なんだか、楽しそう!」
 ──ああ、そういう捉え方もあるんだ。
「だって、仕事が忙しくて家に帰れないんだよ」
「帰っちゃえばいいのよ! 時間になったからじゃぁこれでって!」
「だって、意地悪な同僚がイヤミを言うんだよ?」
「言い返すセリフを考えましょうよ! ギャフンと言わせるくらい鮮やかなのをね!」
「だって、上司が無能でおバカなのよ?」
「言ってやればいいのよ、この無能でおバカって!」
 彼女なりの楽天的な答えがどんどん出てくる。そのあまりの短絡さに、今まで悩んで
いたことが馬鹿らしくなってくる。
「アンタ……悩みがなさそうでいいわねぇ……」
「それがとりえだもの!」
「少しは否定しなさいよ」
 少女はまた笑顔になってもう一度。
「それがとりえだもの!」

 何時間かかったか分からない。部屋が片付いたころには、アタシはすっかりくた
くたになっていた。
「つ、疲れた……」
「でも、綺麗になったよ! これなら、いつあなたがやってきても大丈夫! 
シンクもカップセットも出てきたから、お茶を出すことだってできるわ」
「そうね……」
 確かに、片付いた。雑草は全部取って、床のタイルはぴかぴかに磨いたし、部屋の
隅に埋もれていたシンクも引っ張り出した。テーブルクロスは新しいのに張り替えて、
土壁だって全部磨いて真っ白にした。
「もう当分、掃除はしなくてよさそうね」
 アタシの言葉に、少女は首を縦に振る。
「だから、次からはちゃんと遊んでくれなきゃ。そうじゃなきゃ、またすぐ雑草まみれ
になっちゃうんだから」
「うーん、努力はする」
「期待してるわ」
 そう言って、アタシと少女はまた笑いあった。

 さて。
「そろそろ、本当に会社に行かなくちゃ」
「うん、今日は楽しかった。ありがと」
 心地よい疲労感に、何かやり遂げたという充実感が重なる。本当はまだ一日は
始まったばかりなんだけど。
「──この疲労も、一緒に掃除したことも、ここを出ると忘れちゃうのよね……」
 出口のドアに手をかけたところで、ふと不安に駆られる。この気持ちを忘れたら、
またいつもの繰り返し。くさくさして、仕事に行きたくなくて、愚痴ばかりこぼして
しまう毎日に戻ってしまうのだから。
 しかし、少女は笑顔だった。
「うん、そうだよ。でもきっと、忘れないものもあると思うな」
「忘れないもの?」
 少女はそれに答えず、私の背中をぽんと押す。
「さぁさ、早く行きなさい。また明日、ここで待ってるから」
「そう……、そうね。また、明日」
「うん、また明日」
 そうしてアタシは、出口のドアノブを押して──。

 ばたん。

 ………。
 ……あれ。
 気づけば、そこは家の玄関の外。
 そうそう、アタシ、出社途中だったんだ。
 少しぼんやりしていたのか。
 憂鬱な気分で朝食を食べて、気分重く靴を履いて……。
 ──あれ。
 ──あれれ。
 今はなんだか、気分が軽い。
 今日も職場に行けば、毎日の繰り返しが待っている。神様気取りの勘違い客と、
女性に冷ややかな男性の同僚と、ダメ上司が待っている。
 でも、気分が、軽い。
 ついさっき靴ベラで踵を押し込んでいた時に感じていた心の重みは、綺麗さっぱり
なくなっていた。
 ──なんで?
 わからない。
 ただ、胸には小さな爽快感。それはまるで、旧知の親友に悩み事を全て聞いて
もらった後のような──。
 今日は、何かいいことがあるかもしれない。
 根拠なんてまるでないけれど。
 よく晴れた秋空の澄んだ空気の下、アタシは一歩踏み出す。
 そのまま、軽い足取りで最寄り駅を目指す。

 ──うん、何か。
 何か、いいことありそう!

<了>