日記が消えた日 / 進行豹      *      *      * 「おかあさんおかあさんおかあさんおかあさん!」  早口。  とたとたと駆ける足音。 「おかあさんっっ!!!」    トトトトトトトンっ!  ノック。  小刻みに、とても慌てているように。 「ひとみ? どうしたの?」 「あのね! こわれちゃったの!!」」  弾かれたようにドアが開いて、小さな体が飛び込んでくる。 「おかあさんなら直せるかと思って」 「直すって……ひとみ、少し落ち付きなさい」  頭を撫ぜて、抱きついてきた体をそっと、離そうとする。  ――離れたがらない。  ……この子の場合。要求してくる身体接触の強度はそのまま、不安の強さだ。 “壊れたなにか”が、よっぽど不安なのだろう。 「大丈夫よ、ひとみ。おかあさんに直せるものなら、直してあげる。  だから、ね? 落ち付いて。いちど、深呼吸」 「うん」  順序をおって説明すれば、ようやく体を離してくれる。 「すうううう……はああああああ」  もちろん、頭の悪い筈もない。それに、素直だ。 「すううううううう……はあああああああああ」  十歳児らしい小さくか細い、けれどバランス的にはむしろ長めの手足を目いっぱいに伸ばし、 まぶたを閉じてまつげをふるわせ、幾度も深呼吸を重ねてる。 「すうう、はあああ」  ……私なんかの子供にしては、あまりにも整い過ぎた顔立ちだ。  こうして静かにしていれば、可愛いよりも、綺麗という言葉がむしろ似合うほど。 「あのねっ! おちついたよ、おかあさん」 「そう」  あどけない笑顔。  一転、綺麗は可愛いになる。 「なら、順番に教えてくれる? 壊れたって、いったい、なにが壊れちゃったの?」 「あのね、おかあさん」  頬笑みかければ、言葉と同時に大きく一歩―― ほとんど触れあう距離にまで近づいてくる。 「壊れちゃったのはね、ひとみのパソコン」 「パソコン?」  これは懐かしい言葉を聞いた。   「タブレットじゃなくて?」 「え? タブレットはタブレットでしょ? パソコンは、パソコンだよ。おっきくて、折りたたむの」 「折りたたむ――ああ、ノートPCね? そんなもの、どこで手に入れたの?」 「どこでって……おじいちゃんがくれたんだよ? 好きに使っていいっていって」 「おじいちゃんが、ね」  頷きながら、ほのかな頭痛を感じてしまう。  いかにも、あの人がしそうなことだ。  思いつくままにひっかきまわして、何が産まれるかを楽しみにする。 「おかあさんも、もらったとき一緒にいたよ?」  驚く。  全く記憶がない。  けど、ひとみがウソを吐くはずもない。 「いた、って―― それは、いつの話?」 「んとね……一年ちょっと前だよ。 ほら、おじいちゃんのお見舞いにいった日」 「お見舞い――って、尿路結石で緊急入院したとき?」 「くわしくはしらないけど。おじいちゃん、痛い痛いって」 「そっか。あの日ね」  緊急入院と聞いて慌てて飛び出して…… 命には別条がないって話で、さすがにホッとして……  あの日のことは、バタバタしすぎてほとんど記憶に残っていない。  この子を連れていってたことすら、ぼんやりとしか覚えてないほど。 「おじいちゃんの部屋にお着替えとか取りにいってさ。 お着替え入れたおっきいバックにパソコンも入ってたの。 おじいちゃんが気がついて、出して広げて、 『それなぁに?』って聞いたら、あたしにくれたの。 『もう使わない物だから』って」 「そう……そんなことが」  そのバッグのことなら覚えてる。  あの人のゴミタメみたいな部屋の中、 まるで何かをいれる準備をしてたかのように、 ぽっかりと口を開いて、部屋の隅っこに転がっていた。    中身のことなど気にもせず、着替えだなんだを詰め込んだけど…… そうか、あの中に、ノートPCなんてはいってたんだ。 「使えたの? もらったパソコン」 「うん。使えたよ? みたこともないOSだったけど。ばつぴー? とかって」 「XP。懐かしいわね。一世を風靡したのよ? 完成度の高いOSで」 「そうなんだろうね、ちゃあんと使えてたもん」  悲しげな声でつぶやき、 ぴとり、ひとみが体を寄せてくる。  ああ、そう。そういう話だったっけ。 「壊れちゃったって、どういう風に? 電源がはいらなくなったとか?」 「んっとね――電源は入るの」 「入って?」 「字がたくさん流れるでしょ? で、windowsっていう画面がでて、 そこで止まっちゃうの」 「そう……そこまで行って止まるのなら――一番の容疑者はHDDかしら」 「えいちでぃーでぃー?」  きょとんとした声。  世代格差……というよりむしろ、技術革新の速さを感じさせられる。 「HDDっていうのは、ハードディスクドライブの略。 ちょっと前まで主流だった、FSSDは知ってるわよね? あれの、さらに二世代前の記憶媒体」 「記憶媒体ってことは――」  ぎゅうっと、ひとみの指に力がこもる。  おおきな瞳が不安げに、まっすぐ私を見上げてくる。 「それが壊れちゃったら、いれてたデータも壊れちゃうの?」 「基本的には、その可能性が高いわね」 「やだ! そんなの困るっ」  いけない、話し方を間違えた。 「救出できる可能性もあるけど」 「ほんとにっ!?」  大きく頷く。  可能性の話なのだから、頷けない理由などない。  というかむしろ最初から、 こちらの言い方を選べばよかっただけの話だ。 「よかったー」  ごく単純な、レトリックともいえないようなレベルの言い変え。  それなのに、ひとみはホっと、安心しきった顔をする。 「よかった。にっき、消えちゃうかと思っちゃった」 「ニッキ? って」 「にっきは、にっきだよ。毎日、パソコンでつけてたの」 「毎日……ああ、日記ね」  理解する。  けれど、今度は頷けない。  日記、日記、日記。  ひとみが、日記をつけていた―― 「一体、なんのために?」 「なんのため、って……」 「っ!?」  戸惑ったような返事に気付く。  あまりに大きな疑問符が、そのまま口から零れていたと。 「うーんと……その日、なにがあったかを覚えておくため……かなぁ」  けれど、ひとみは私の疑問に特段の違和感を感じなかったようで、 とても素直に、答えを探して返してくれる。 「覚えておく」  だから、そのまま話しを続ける。  母親らしさを意識しながら、できるだけゆったり言葉を紡ぐ。 「ひとみは、覚えておけないの? その日にあったことを――ノートPCに日記をつけないと」 「覚えてるよ! 覚えてるけど……」  むにゅっと、薄い唇がゆがんでしまう。  “思考する”ときのこのコのクセ。  おじいちゃんと、まるきり同じクセだ。 「ええと、覚えていられるのって、 いつ、何が起きたか、何を見たか、誰とあったか、何を話したか、何をしたか―― そういうカチっとしたことだけだよね?」 「そうね」  頷きながら自嘲にも似た気持ちを覚える。  私は、ひとみにウソを吐いてる。    よっぽど強い動機でもなきゃ、カチっとしてる事実だなんて、とても覚えていられない。  覚えたつもりでいることですら、ほんの少しのきっかけで、すぐあやふやに揺らいでしまう。  ――私の記憶力なんて、そんな程度のものでしかない。  だから、タブレットを手放せない。  大事なことは、きちっと紙のメモにも残す。  それが、私。  平平凡凡たる能力の人間。なのだけれども―― 「一番記憶しやすいのは、もちろん、カチっとした“事実”ね」 「だよね!」 ――こう言えば、ひとみは安心してくれる。  安心、といえば語弊が生じてしまうかもしれないけれど…… すくなくとも、無用な混乱を呼び起こさずには済む。  そう知ってるから、ウソを吐く。  それが母親の務めと信じて。 「事実ならね? 数字や時間できちんと整頓できるできるでしょ? そういうのなら、もちろんひとみ、ちゃあんと覚えておけるの。だけどね?」  私とはまるで違った記憶力。  外見に似合わぬ、明晰な判断力と圧倒的な計算能力。  その特質を持ったひとみが、けれども言葉をなかなか見つけられない。  まるで――そう。  考えあぐね、“悩んで”しまってでもいるかのように。 「ひとみは、つまり…… 数字や時間できちんと整頓できないこと。 それを日記につけていたの?」 「うんっ!」  ごく単純な助け舟。  けれどもひとみは笑顔でそれに乗り込んで、ほっとしたように私を見上げる。 「そうなんだ」  けれど――だからこそ。  私の言葉はどんどん、遠まわしになる。    答えを、ひとみに与えちゃいけない。  誘導だけは、何があってもしてはいけない。 「たとえばそれは、どんなこと? 具体的には、何を書いてたの?」 「具体的にはね……ええとね―― あのね、おとといの夜は、さくらをみたでしょ?」 「そうね、一緒に夜桜見物にいったわね」 「午後七時六分におうちをでて、喜多院の近くの有料駐車場についたのが四十六分後。 それから、徒歩で七分歩いて、そしたら桜の花びらが風にとんでて」  私にぎゅっとしがみついてた手がほどかれる。  思い出すように――ひとみが目を閉じ、両手を広げる。 「花びらがとんできた方をみたら、すごくたくさん桜があって、 くらくて、ピンクで、とっても綺麗で―― ふわふわひらひら、花びらは踊って動いて、とっても数えきなくて。 わたし、その中にたってたら、すごく――どきどきした気持ちになったの」 「どきどきした気持ち?」 「うん。自分がおひめさまになったみたいな、 ドラマの主人公になったみたいな、 すごく特別になったみたいな、そういうきもちで、 花びら全部が、わたしだけのために、 わたしを飾ってくれるために散ってるみたいなふうに思って」  一気に紡ぎだされた言葉が、けれどぴたりと止まってしまう。  きつく結ばれたくちびるが、むにゅむにゅ、落ちつかなげにうごめく。 「でもね? そういう全部は、“どきどきした気持ち”じゃおさまりきらないの。 どきどきっていうのもきっと、わたしが感じたことだけど、 それは“カチっとした事実”じゃなくて、 すごくあやふやで、全然つかまえきれないの」  きゅと、ひとみの両手が、その胸の前で合わせられる。 「数字でも時間でも整頓なんてできなくて…… だけど、それでも、そのあやふやを、わたし、とじこめておきたいの。 だからね? たりなくっても、とどなかくってもちがっても、 言葉でしか、その手触りを残せないって思うから――」  もう一度。とん、とぶつかり、しがみついてくる。 「だから、日記をつけてたの」 「そう」  頷いて。  私から、ひとみの髪に手を伸ばす。 「わかったわ。ひとみの、とても大事な日記なのね。 パソコン、おかあさんが預かるわ。何とか修理してみるわ」 「ほんと!?」 「ええ、もちろん」  撫でる。何度も。柔らかな髪を。  私に本当の子供がいたら、きっとそうしてあげるように。 「おかあさんが、ひとみに嘘をついたことがある?」 「…………この前の授業参観、来てくれるって」 「とにかく!」  こほん、と大きく咳払い。  いちどぎゅうっと強く抱き締め、 それからそっと体を離して、私はゆっくり立ち上がる。 「安心して、今日はもう寝なさい。 おかあさん、まだお仕事あるから、 ノートPCはリビングのデスクの上においておいて? 大丈夫。絶対、なおしてあげるから」 「うんっ!」  ぴょん、とひとはね。    ひとみは笑顔を輝かせ、くるっと振り向き、部屋を出て行く。 「おやすみなさい、おかあさん!」 「おやすみ、ひとみ」  ぱたぱた、軽やかな足音が遠ざかっていく。 「さて……と」  考える。  何を報告するべきなのか、何の修理を、最初に申請するべきなのか。 「……数値化できず、言語化できない情報を、 ひとみが、“感じる”なんてことが……ありえる、の?」  だって、あの子はアンドロイドだ。  環境学習・知覚相関型・常時コスモス接続型の人工意識実験体であるとはいえど―― 今までの102体のプロトタイプのどれひとつ、 数値化も言語化もし得ない……つまりは、保有せず、環境からも学習できない、“何か”について、 表現することは――いえ、表現しようともしなかった。  その“何か”がもしも実在するのなら…… それは、ひとみが、プロトタイプ103号が自己生成した、 模倣ではない――“感情”ないしは“感動”になる。 「その可能性より、何らかの故障を生じている可能性の方が、恐らくは高い。 けど……そうであっても、そうでなくても――」  103は、きっと回収されてしまう。    そして私は、追試のために、 あの子とよく似た顔をした―― けれどもまったく別の“個体”を、また、母として育てるのだろう。 「……あの子の取得したデータの全ては、コスモスに記録されていく。 あの子はもちろん、それをいつでもリアルタイムで引き出せる。 なのに、日記があの子に必要であったのなら、あるのなら……その理由は……」  受話器を手にする。  コスモスに記録された全ては、もちろん、プロジェクトマネージャー―― あの子の“おじいちゃん”にも閲覧される。  私一人で判断できることではないし、  隠しておけるようなことなど、なにひとつない。    私の意見が、PMの決定に影響を与えることなんて、 決して、ありえないだろう。 (Trrrrrr――Trrrrr――)  けれど、もし。  もしもひとみが。  記録ではなく、記憶を持てるというのなら。  あの子に記憶が、あれほど強くしがみつくほど、大きな価値を持つというなら―― 「……もしもし、今、お時間よろしいでしょうか? ええ、そうです、その件です。ひとみのことで、少しお話させてください」  私は、ひとみの記憶の中で。  あの子を守る、母でありたい。 (了)