日記が消えた日　/　進行豹　（リライト担当：糸染晶色）

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「おかあさんおかあさんおかあさんおかあさん！」

　とたとたと駆ける足音。

「ひとみ？　どうしたの？」
「あのね！　こわれちゃったの！！」

　弾かれたドアが開き、小さな体が私に飛びついてくる。

「壊れちゃったって……ひとみ、少し落ち付きなさい」

　頭を撫ぜて、抱きついてきた体をそっと離そうとする。
　――私から離れたがらない。
“壊れたなにか”が、よっぽど不安なのだろう。

「大丈夫よ、ひとみ。おかあさんに直せるものなら、直してあげる。
　だから、ね？　落ち付いて。はい、深呼吸」

「うん」

　順序をおって説明すれば、ようやく体を離してくれる。

「すうううう……はああああああ」

　もちろん、頭の悪い筈もない。それに、素直だ。
　十歳児相応に小さくか細い、けれどバランス的には長めの手足をいっぱいに伸ばし、
まぶたを閉じてまつげをふるわせ、幾度も深呼吸を繰り返す。

「すうう、はあああ」

　……私なんかの子供にしては、あまりにも整い過ぎた顔立ち。
　こうして静かにしていれば、可愛いというより、綺麗という言葉が似合う。

「あのねっ！　おちついたよ、おかあさん」

　それでもこのあどけない笑顔には可愛いという言葉がふさわしい。

「うん。いい子ね。それで、いったい、なにが壊れちゃったの？」

「あのね、おかあさん」

　頬笑みかければ、言葉と同時に大きく一歩――
ほとんど触れあう距離にまで近づいてくる。

「壊れちゃったのはね、ひとみのパソコン」
「パソコン？」

　これは懐かしい言葉を聞いた。
　
「タブレットじゃなくて？　そんなもの、どこで手に入れたの？」

「どこでって……おじいちゃんがくれたんだよ？
パカッって開けたり閉めたりできるの。
好きに使っていいっていって。そのときおかあさんも一緒にいたよ？」

　ノート型か。
　持ち運びに便利といって普及したがタブレットの登場とともに廃れた。
　熱冷却がネックとなって性能面でデスクトップ型に劣り、
　携行性ではタブレットに劣ったためだ。

「おじいちゃんが、ね」

　頷きながら頭痛を感じる。
　いかにも、あの人がしそうなことだ。
　思いつきでひっかきまわして、その揺らぎを観察する。

　しかし、私が一緒にいたってそんな覚えはないんだけど。
　でも、ひとみの記憶に間違いがあるはずもない。

「使えたの？　もらったパソコン」

「うん。使えたよ？　みたことないＯＳだったけど。ばつぴー？　とかって」

「ＸＰ。懐かしいわね。一世を風靡したのよ？　完成度の高いＯＳで」

「そうなの。ちゃあんと使えてたのに」

　悲しげな声でつぶやき、
ぴとり、ひとみが体を寄せてくる。

　ああ、そう。そういう話だったっけ。

「壊れちゃったって、どういう風に？　電源が入らなくなったとか？」

「んっとね――電源は入るの」

「入って？」

「字がたくさん流れるでしょ？　で、ｗｉｎｄｏｗｓっていう画面がでて、
そこで止まっちゃうの」

「そう……そこまで行って止まるのなら一番の容疑者はＨＤＤかしら」

「えいちでぃーでぃー？」

　きょとんとした声。
　世代格差……というよりむしろ、技術革新の速さを感じさせられる。

「ＨＤＤっていうのは、ハードディスクドライブの略ね。
ちょっと前まで主流だった、ＦＳＳＤは知ってるわよね？
あれの、さらに二世代前の記録媒体」

「記録媒体――」

　ぎゅうっと、ひとみの指に力がこもる。
　おおきな瞳が不安げに、まっすぐ私を見上げてくる。

「それが壊れちゃったら、いれてたデータも壊れちゃうの？」

「基本的には、その可能性が高いわね」

「やだ！　そんなの困るっ」

　……いけない、話し方を間違えた。

「助けてあげられる可能性もあるけど」

「ほんとにっ！？」

　大きく頷く。
　可能性の話なのだから、頷けない理由などない。

　最初から、この言い方を選ばなくてはいけなかったのだ。

「よかったー」

　ごく単純な、レトリックともいえないようなレベルの言い変え。
　それなのに、ひとみはホっと、安心しきった顔をする。

「よかった。にっき、消えちゃうかと思っちゃった」

「ニッキ？　って」

「にっきは、にっきだよ。毎日、パソコンでつけてたの」

「毎日……ああ、日記ね」

　理解する。
　けれど、今度は頷けない。

　日記、日記、日記？
　ひとみが、日記をつけていた――

「一体、なんのために？」

「なんのため、って……」
「っ！？」

　戸惑ったような返事に気付く。
　むき出しの疑問符が、そのまま私の口から零れてしまっていた。

「うーんと……その日、あったことを覚えておくため……かなぁ」

　けれど、ひとみはそれ以上の違和感を感じなかったようで、
とても素直に、答えを探して返してくれる。

「覚えておく」

　だから、そのまま話しを続ける。
　母親らしさを意識しながら、できるだけゆったり言葉を紡ぐ。

「ひとみは、覚えておけないの？
その日にあったことを――パソコンに日記をつけないと」

「覚えてるけど……ええと、覚えていられるのって、
いつ、何が起きたか、何を見たか、誰とあったか、何を話したか、何をしたか――
そういうカチっとしたことだけだよね？」

「そうね」

　頷きながら自嘲にも似た気持ちを覚える。

　私は、ひとみにウソを吐いてる。
　
　私にはカチっとしてる事実だなんて、とても覚えていられない。
　覚えたつもりでいることですら、すぐあやふやに揺らいでしまう。

　だから、タブレットは手放せない。
　大事なことは、きちっと紙のメモにも残す。

　平々凡々たる人間の記憶力。なのだけれども――

「一番記憶しやすいのは、もちろん、カチっとした“事実”ね」

「だよね！」

　――こう言えば、ひとみは安心してくれる。
　少なくとも、無用な混乱を呼び起こさずには済む。

　そう知ってるから、ウソを吐く。
　それが母親の務めと信じて。

「事実ならね？　数字できちんと整頓できるできるでしょ？
そういうのなら、もちろんひとみ、ちゃあんと覚えておけるの。だけどね？」

　十歳児の外見に似合わぬ、明晰な判断力と圧倒的な計算能力。

　その特質を備えたひとみが、けれども言葉をなかなか見つけられない。

　まるで――そう。
　考えあぐね、“悩んで”しまってでもいるかのように。

「だけど。だけど、だけど違うの」

「違う？」

「違うの。足りないの。足りないのっ」

　あ、まずい。

「ひとみ、大丈夫だから。ね。落ち着いて」

　やわらかく抱き寄せ、背中を撫でてやる。
　触れた手に熱を感じる。

「うっ、うう…。足りないの」

　参ったな。なんて言えばいいだろうか。
　何が違うのかを訊いたらだめみたいだ。

「ひとみ、その日記に書いていたことを教えて？」

「ええとね――あのね、おとといの夜は、さくらをみたでしょ？」

「そうね、一緒に夜桜見物にいったわね」

「午後七時六分におうちをでて、喜多院の近くの有料駐車場についたのが四十六分後。
それから、徒歩で七分歩いて、そしたら桜の花びらが風にとんでて」

　私にぎゅっとしがみついてた手がほどかれる。

　思い出すように――ひとみが目を閉じ、両手を広げる。

「花びらがとんできた方をみたら、すごくたくさん桜があって、
くらくて、ピンクで、とっても綺麗で――
ふわふわひらひら、花びらは踊って動いて、とっても数えきなくて。
わたし、その中にたってたら、すごく――どきどきしたの」

「どきどきした？」

「うん。自分がおひめさまになったみたいな、
ドラマの主人公になったみたいな、
すごく特別になったみたいな、
花びら全部が、わたしだけのために、
わたしを飾ってくれるために舞ってるみたいなふうに思って」

　一気に紡ぎだされた言葉が、けれどぴたりと止まってしまう。

　きつく結ばれたくちびるが、むにゅむにゅ、落ちつかなげにうごめく。

「でもね？　どきどきっていうのもきっと、わたしが感じたことだけど、
それは“カチっとした事実”じゃなくて、
すごくあやふやで、全然つかまえきれないの」

　きゅと、ひとみの両手が、その胸の前で合わせられる。

「数字で整頓なんてできなくて……
だけど、それでも、そのあやふやを、わたし、とじこめておきたいの。
だからね？　たりなくっても、とどなかくってもちがっても、
そのときの言葉じゃないと、その手触りを残せないって思うから――」

　もう一度。とん、とぶつかり、しがみついてくる。

「だから、そういう全部を日記につけてたの」

「そう」

　頷いて。
　私から、ひとみの髪に手を伸ばす。

「わかったわ。ひとみの、とても大事な日記なのね。
パソコン、おかあさんが預かるわ。何とか修理してみるわ」

「ほんと！？」

「ええ、もちろん」

　撫でる。何度も。柔らかな髪。その束をなぞるように。
　私に本当の子供がいたら、きっとそうしてあげるように。

　しゃがんで目線を合わせてから一度ぎゅうっと強く抱き締め、
それからそっと体を離して、私はゆっくり立ち上がる。

「パソコンはどこに置いてある？」

「デスクの上だよ。ｗｉｎｄｏｗｓの画面のままにしてある」

「そう。今日はもう寝なさい。
おかあさん、まだお仕事あるから、すぐにはできないけど、
今夜のうちに見てあげる。大丈夫。絶対、直してあげるから」

「うんっ！」

　ぴょん、とひとはね。
　
　ひとみは笑顔を輝かせ、くるっと振り向き、部屋を出て行く。

「おやすみなさい、おかあさん！」

「おやすみ、ひとみ」

　ぱたぱた、軽やかな足音が遠ざかっていく。

「さて……と」

　ひとみの部屋のドアが閉まる音を聞いてからデスクの部屋へ向かう。

　ひとみの言う“日記”のデータの内容自体は問題でない。
　ＨＤＤからサルベージできないような物理破壊はしてないだろう。
　万一、ＨＤＤからサルベージできなくても、コスモスの方から復元すればいい。

　環境学習・知覚相関型・常時コスモス接続型・人工意識実験体１０３号
　それが“ひとみ”の識別番号だ。

　“ひとみ”の見たもの、聞いたもの、触れたもの、加えてそれらへの反応。
　その全てのデータがコスモスに記録されていく。

「これか。なんか懐かしいなあ」

　確かに動かない。

　……だが、ひとみにはこのパソコンのデータなど必要無いはずだ。
　なぜなら“ひとみ”は“日記に書いた文章”を一字一句違えず記憶している。
　アンドロイドゆえの圧倒的な記憶力。

「それなのに、どうして」

　腕を組んで、使い古された旧式の姿を見つめる。
　いま思うとこんな大型を持ち歩いていた時代が不思議になってくる。

「このパソコンでないとダメな理由……」

　考えられるのは……。

　あやふやを――とじこめておきたい――。
　ひとみはそう言った。

　もう市場では出回ってないだろうが、
　同型のノートパソコンを調達することはできなくない。

　けれど、ひとみが求めたのは、これを直すこと。
　全く同じデータを記録した全くの同型でもダメということなら。

「そんなの……まるで」

　想い入れ。

　例えば、ずっと大切にしていたクマのぬいぐるみ。
　それが千切れてしまったとき、
　同じぬいぐるみを与えられても納得しない。

　そんな理不尽。

　ノートパソコンに触れる。
　ひとみが“あやふや”をそのときに“閉じ込めた”のはこのＨＤＤ。
　だから……これじゃないとダメ？

　数値として、言語として、再現しても欠けてしまう何か。
　それがあるというなら、それはきっと――感情と呼ぶもの。

「そんなの、今まで一度もなかった」

　私たちが環境学習実験を行い、観察してきた、
　今まで102体のプロトタイプのどの子も一人として。

　そんなことがあるのか。
　だが、そうでなかったとするなら、何らかの故障を生じていることになる。

　どちらであっても１０３号は、“ひとみ”は、きっと回収されてしまう。

　そして私は追試のため、あの子とよく似た顔の――まったく別の実験体を、
また、母親として育てるのだろう。

　私の同僚たち。母親たちと父親たちがそうであるように。

「……いま何体いたかしら」

　確か43……一昨日廃棄処分が出たから42か。

　コスモスに記録された全ては、もちろん、プロジェクトマネージャー――
あの子の“おじいちゃん”にも閲覧される。

　だが、実験体の全てを管理しているわけでない。
　電圧その他の動作データ異常のほかは、
　母親たちと父親たちから上がった報告を元に必要なデータをチェックするのみ。

　……わざとこんなことをしたとバレたら間違いなくクビだろう。
　しょせんはアンドロイドに何をと笑われるだろうか。

　でも私は、ひとみを本当の娘のように思い始めている。
　人間は、そんな想い入れというものを持つんだ。

「はあ……」

　新品を購入するのはプロジェクトマネージャーにバレる危険が大きい。
　そもそも、こっそり新品に取り換えたとしても、外装の具合で違うとばれるだろう。
　ひとみの記憶力は外装の汚れや傷の相違を見抜いてしまう。

「となると」

　このノートパソコンを直すしかない。
　それが、ひとみの望んだことである。

　人工意識実験体として感情を模した動作が設計されているとはいえ、
　あの取り乱しようが続けば、ひとみの挙動に異常が出ていると判断されるだろう。

　そうなればコスモスに収められた変調時の記録が精査されてしまう。

　私は、ひとみを守る母でありたいのだ。

「あー、今夜は徹夜かな」

　ため息。
　でも顔は自然と笑顔になるのだった。

（了）