題名:知識の行き先 作者:糸染晶色 「知ってしまうことは罪だと思わないか?」  スラリと伸びた長い髪。墨で染めたように黒く、漆塗りのように艶のあるそれをかき上げながら言う。 「わからない」  僕は答える。  2つ年上で成人したばかり。それなのに達観したような語りぶり。  女の子というのはそういうものなのだと思っていたこともある。小さい頃からずっと一緒にいたから。  晴乃以外の女の子と接するにつれて、晴乃が特別なのだと徐々に理解した。僕と同じ年の女の子も、晴乃より年上の女の子も、高い声で笑い、身振りで感情を表し、友達の輪を作っているものだった。 「ふむ。『わからない』ということは、それを知らないということだろう。そうじゃないか?」  彼女の口から出てくるのは、ファッションの話でもない、昨日のテレビの話でもない、イケメン俳優の話でもない。 「わからない」 「辰人はいつもそればっかりだ。少しは考えてくれたまえよ」 「どうしていつも同じことを言うのさ」 「それは世界の真実を知ることの悦びを辰人にも味あわせてやりたいからさ」  アダムとイブは知恵の実を食べて楽園を追放された。知ることが罪だったのだ。  だが晴乃なら、それを知ってもなお知ることを求めただろう。  端から端まで十歩ほど。一人の部屋というには広い室内。  しかし、床には雑多に積み重ねられた器材があふれ返っていて、足の踏み場もないくらい…だった。  昼間も深夜もお構いなしに当り前のように呼びつけて、試験管で毒々しい液体を混ぜてみたり、金属を細かく砕いてみたり、はんだで配線を繋いでみたり。なにをやっているのか僕にはわからないのに。  それでも晴乃は僕を呼んだ。  光輝き、火花を散らし、放電する。晴乃の実験にいつも僕は驚かされてばかりで。 「ふっふっふ」  そんな僕を見て晴乃は満面の笑みでキーボードを叩くのだ。なにをしているのかと訊けば記録を採っているのだと。  数式と文字列。僕にはわからない。  するとパソコンのファイルを開いて読ませようとする。 『実空間と虚空間との併存可能性』 『一方の運動量を負値とすることで他方に与えられる正の運動量』 『両空間境界面の発散と収束による転位可能性』  スクロールバーを上下させても何を言ってるのかさっぱりだ。 「タイムマシンでも作ろうとしてるの?」 「どうしてそうなる。全然違う」 「別の世界がどうとかパラレルワールドとかそういうの?」 「そうじゃない。ああいや近いには近いけれども、やっぱり違う。 世界にはいくつもの空間が併存していて、私たちの生きる空間もその一つ。 その空間は合わせ鏡のように存在するが、互いに鏡の表裏のような関係であって独立ではない」 「やっぱりパラレルワールドみたいに聞こえるけど」 「だーかーらー、SFでいうようなパラレルワールドというのはどんどん枝分かれしていって、 一つの空間で何かが起こっても他の空間には影響しないようなものだろう。 私が言っているのはむしろ正反対だ。 空間が無数にあっても可能世界は常に一つであって、全ての空間は並行している。 その空間を相互に移動できるのではないかということをだな…」 「わからないよ。もういいって」 「仕方ない。また今度説明してやるからな」  ファイルを閉じてシャットダウンする。  この中には晴乃の頭の中と同じくらい無限の世界が広がっていると、そう感じていた。  そのモニターには蜘蛛の巣状にヒビが入り、液晶の向こうまで見える。  晴乃が大事にしていたHDDはひしゃげて中身をぶちまけている。  かつての晴乃の部屋なら馴染んで気にも留まらないそれらが今はひどく目につく。  かつての面影を残す部屋の端から視線を移せば、部屋の中央にポッカリと空いた空間。  積み上げられた器材の山はきれいさっぱり消え失せて、その床すらもなくなってしまっている。 「確かに片付けろとは言ったけど」 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  屋敷から漏れ出る光を受けた庭の木々が芝生に影を落とす。  風に揺れる音だけが響く中、藪をかき分けて山奥へ向かう人影が一つ。  すでに3人が死んでいる。  気取られないよう懐中電灯も使わず月明かりだけが頼り。  暗号に示された岩をどかすと土にまみれたアタッシュッケースが現れた。  これで、やっと…。ふふ、はは、あははははは。  そこまでだ。  いくつものライトが真っ黒な人影を照らしだす。うろたえ、眩む目をかばうシルエット。  6年前の銀行強盗事件。そして3人の仲間を殺して3億円の独占を企んだ。犯人はお前だ。  チリンチリン。チリンチリーン  一昨日の夜。夕食を終えて部屋で漫画を読んでいたところに携帯が鳴った。  画面を確認せずとも晴乃とわかる。専用の着信音。  メールなんて相手がいつ読むかもわからないものはまだるっこしいと電話をかけてくる。 「辰人。来てくれ」 「わかった。9分待って」  漫画本には紙切れを栞代わりに挟んで外へ出る。晴乃の家に着くと呼び鈴を鳴らす前にドアが開く。  部屋の扉を閉めてきっかり9分。 「今日はなに?」 「これを見てくれ」  そう言ってまた奇っ怪な実験器材を示す。なんだこれ。  電極がつながれた金属のカップが3つ。  それぞれ違う蛍光色の液体が満たされ、器の縁には触れず液体に浸かるように上から音叉が吊されている。  その音叉の根元は上に伸びて金属の輪っかにつながっている。  3つの音叉の振動が全て輪っかに伝わる仕組み…かな。  輪っかの内側にはガラス玉がはまっていて、その透明の中に透明な液体が満ちている。  密閉されたガラス玉の中にどうやってこれを流し込んだんだ?  晴乃はいつもこうだ。僕にはなにをしているのかわからない。 「これはなに?」 「このカップに電流を流すと液体が振動する。そのときは交流じゃだめだから直流に直さなくちゃいけない。 そして3つそれぞれの違う周波数の波を合成して定常波にするんだ。 必要な波を持っていて余計な波を排除できる組み合わせを作るために溶媒と溶質を試行錯誤したよ」 「波を作って、それからどうなるの?」 「見てのお楽しみだ」  そう言うと思ったよ。いつもそう。  やってみる前にはわからないのが楽しいんだよ辰人。  何が起こるか知るのが楽しい。  だから先にわかってることを確認するだけなんて面白くないじゃないか。  そんなこと言ったってデタラメに実験してるわけじゃないだろ。  実験で出したい結果のために試薬や器具をそろえるわけで。予め結果が見えてるじゃないか。  それは違う。予測があったってそれは予測でしかない。  やってみるまで何が起こるかわからない。  だからむしろ予測と違うことが起こった方が楽しいんだ。  そこの裏側に何かが隠れていると教えてくれているのだから。  晴乃は僕が目で見るまで教えてくれない。うっかり触って火傷したこともある。  晴乃がキーボードを叩き始めた。 「なにやってるの?」 「ああ。これからカップに電流を流す。その強弱をこいつで調整するんだ。 手動だと遅すぎるからアプリケーションを作ってある。 とはいっても純度の高い材料を用意できなかったからおそらくノイズが混じる。 今回は成功しないかもしれない。けれど兆しだけでも見えれば十分だ。 無理を通せば大学の研究室で使ってる純度の高いものをわけてくれるかもしれない」  興奮を顔に溢れさせてモニターに向かう。黙って大人しくしてればほかの男も寄ってくるだろうに。  …でも…だとしたら、このままでいい。 「なにが起きれば成功なのさ?」 「訊き方を変えたってだめだぞ。だが、そうだね。途中までなら教えてあげよう。 中央のガラス玉の中の…名前をつけてなかったな。まあ後でいいか。 透明な薬液が圧力を受けて中央に収縮していく。 薬液の体積が小さくなって点になるまで、体積を失うまで収縮すればいい」 「それから?」 「教えるのはそこまでだ。もっとも全く収縮してくれないかもしれないけどね。そしたらまた考え直しだ」 「小さくなって点になるって、そんなのありえないじゃないか。学校で習ったよ。 圧力がいくら大きくなったって、物の体積はゼロにはならない」 「どうして学校で習ったことを鵜呑みにする。 なるほど理論上はそうかもしれないが、理論なんてのは経験の範囲でしか裏付けられない。 まして学校の教科書にしたって圧力が無限大ならば体積もまたゼロとなりうるだろう?」 「圧力が無限大なんてありえないじゃないか。だいたいそんな力にガラス玉が耐えられるわけがないよ」 「圧力がかかるのはガラス玉じゃなく、あの薬液だけだ。ガラス玉は揺れるだけ。 最初に必要な波を伝えた後は薬液が内部で連鎖反応を起こして自己収縮していく。 元々爆薬に使うような物質をベースに調合してるんだ。 そのエネルギーが外方向でなく内方向に向かうようにするのが一番肝心で一番苦労したよ。 その反応の起動に必要な波形を実現するのにも手を焼いたがね」 「爆薬って、それ危なくないの?」 「さあ。わからん」 「わからないって……」 「これは辰人が好きな言葉だろう? 不満なら、理論上危なくないはずだ、って言っておくよ。 材料にどんな危険物を使ってたって完成品が危険だとは限らない。 学校では塩酸と水酸化ナトリウム水溶液を混ぜるとどうなるって習った?」 「爆薬とは違う」 「それは問題ではないだろうに。ニトログリセリンを使った心臓病薬もあるって言えば満足か?」 「…………」 「さて納得してくれたか? もう準備はできてるんだ」  晴乃は僕と話ながらも手を動かし続けていた。それがエンターキーに人差し指をかけて止まっている。  爽やかで一点の曇りもない笑顔。僕は好きだった。それで晴乃の言葉にうなずいてしまったんだ。  それを、いまは、後悔している。  実験が始まった。  金属カップに入った蛍光色の薬液たちは光り出したりはしなかったが、水面にくっきり波を立て続ける。  ただ、波の大きさが普通でない。元の水面に深い凸凹が刻まれる。  凸の部分はカップから溢れるくらいに、凹の部分はカップの底が見えそうなくらいに。  しかし溢れることも底が見えることもなく波は音叉を揺らし、頭の奥まで緩やかに這い入るような音が部屋に響く。  …そこから5分10分。  波の動きは激しいけど同じ動きが続けば不安も薄らいで消えていた。  ガラス玉の薬液を凝視しているけれど変化がない。 「失敗?」 「ん? いや時間がかかることはわかっている」 「時間ってどれくらい?」 「だいたい2時間くらいかな。だが変化が始まれば10秒とかからないはずだ」  2時間って。窓の外には月が見えている。そもそもここに来たのが8時過ぎだ。 「なにか飲むか? 冷蔵庫の中から好きに選んでいいぞ。チョコチップクッキーもあったはずだからそれも開けよう」  自分で取りに行ってこいということらしい。まったくもう。 「晴乃はどうする?」 「えー、あーオレンジジュース」 「ん」  他人の家の冷蔵庫を開けるってすごく気が引けるはずなんだけど、晴乃の家ではもうそれが当たり前になっている。  晴乃のご両親はどう思ってるのだろう。こっそり覗けば居間で晩酌を交わしている。  たぶん僕が来てることは承知のうえだよなあ。  オレンジジュースは・・・・・・と、あった。自分の分はどうしようか。コーラは好きだけど、いまは気分じゃないし。んー。  冷蔵庫を開けたまま迷っていて漏れ出す冷気に罪悪感を覚えてしまう。  緑茶でいいや。半分くらい開いた2リットルのペットボトルを取って扉を閉める。  ええと、クッキーは、あった。  二人分のコップを出し、一つに緑茶を注ぎ、もう一つにオレンジジュースを――注げなかった。  地震か? けど違う。強い揺れが一度だけ。  走る。  部屋のドアをぶち開けた。  すぐに晴乃の両親も後ろに駆け寄ってくる。  晴乃がいない。  あのガラス玉や金属カップもない。  その器材があった場所を中心に部屋の中の物が消え去っていた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  それから110番を受けてやってきた警察も首を傾げるばかりで何もわからなかった。  報告では爆発事故と失踪事件として扱うことになったらしい。  それを伝えに来た警察官にも納得できていない様子がありありと見えた。  ガラス玉のあった位置からきっちり同じ距離までの物は影も形もなく消えていて、  その外側の物は壁まで吹き飛ばされていた。  爆発というには不可解。ましてどうして晴乃がいなくなったのか、まるで説明できない。  いつも通りに始まって、いつも通りに進んでいた晴乃の実験。  冗談みたいにふっと晴乃は消えてしまった。  晴乃はどこに行ったのか。  わからない。  誰か教えてくれ。  知りたいんだ。  何を考えていて何をしようとしていたのか。実験が終われば成功しても失敗しても晴乃は全部教えてくれた。  だが晴乃はいなくなり、全てを記したHDDもガラクタと化した。  晴乃は何を知っていたのか。知りすぎたためにこの世界を追放されたとでもいうのか。  そうだというなら追いかけたい。  僕には何もわからない。けれど晴乃を探すためならなんだってする。  晴乃が調べていた方法を知ることができたなら。たとえ二度と戻って来られないとしても。僕はやる。  いまも世界の真実なんてものにはまるで興味はないけれど、もう一度晴乃の笑顔を見るためなら。  それを知った先に晴乃のところへ続く道が隠れているというなら。  あのとき、なんて一回だけじゃない。何度も何度も晴乃は教えようとしてくれた。  ちゃんと聞いていればよかった。すぐに理解できなくたって、勉強すればわかったかもしれない。  いま僕が知るべき全てが刻まれていたそれは何も伝えてはくれない。 「罪だとしても構わない。追放されても構わない。だから…どうか…教えて下さい…」  一人だけの部屋。膝をつき、砕けた磁気盤を胸に抱いた。