題名:知識の行き先
作者:糸染晶色 (リライト:GoShu)

 

「ここですか?」
 助手の青年が僕に問う。

 10畳ほどの洋室。その真ん中に組み立て途中の装置がある。

「そうだよ」

 それにしても、ご両親はよくもここまで直してくれたものだ。
 
 内装工事の匂いがまだ新しい中で、僕は10年前の昔に思いをはせた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−


「『知ってしまうことは罪』。辰人はこれをどう思う?」
 スラリと伸びた長い髪。墨で染めたように黒く、漆塗りのように艶のあるそれをかき上げながら言う。

「わからない」
 僕は答える。

「ふむ。『わからない』ということは、考えたことがないということだろうか?」

「わからない」

「辰人はいつもそればっかりだな。少しは考えてくれるとありがたいのだが」
 晴乃は首を振る。

 2つ年上で成人したばかり。それなのに達観したような語りぶり。
 もちろん、今に始まったことじゃない。幼馴染みの昔からずっとそう。
 女の子はみんなこうなんだろうか、と思っていたこともあったっけか。

「どうしていつも同じことを言うのさ」

「世界の真実を知ることの悦びを辰人にも味あわせてやりたいからさ」

 そう、晴乃はそうだ。

 アダムとイブは知恵の実を食べて楽園を追放された。
 だが晴乃なら、その結末を知っていたとしてもなお、その実を求めただろう。

 


 晴乃は昼間も深夜もお構いなしに、当り前のように僕を呼びつけた。

 行ってみると試験管で毒々しい液体を混ぜていたり。
 大きな金属の管に配線を繋いでいたり。
 歯車をいくつも組み合わせていたり。
 でなければ、パソコンに向かってすごい勢いでキーボードを叩いていたり。


 いざ実験が始まると、10本以上の金属棒がリズミカルに上下するだけだったり、
 空に向けてレーザーのような光を放ってみたり。


 何をしているのか、しようとしているのか、僕にはわかったためしがない。
 それでも晴乃は僕を呼んだ。

 きょとんとしたり、顔をしかめたり、驚いたりだけの僕に、
「これはだな」
 と、晴乃は調合の意味、配線の意味をあれこれ事細かに説明する。

 そうでなければ、パソコンで細かい図と数式だらけのファイルを開いて読ませようとする。

「わからないってば」

 僕の言葉に、しょうがないやつだな、という顔をして、

「じゃあ、また今度説明することにしよう」
 そう言って、実験を続ける。


 それがいつものこと。いつもの僕らの日常だった。

 

 その日、晴乃から携帯に電話が入ったのは夜の8時過ぎだった。

 部屋に行った僕が見たものは、まずは金属の輪っかの中にはめられた透明なガラス玉。
 これが顔の高さに天井から吊るされている。

 輪っかには3つの金属棒……よく見れば音叉だ……それが接続されて下に伸びている。

 音叉はそれぞれ別の、これも金属製のカップに差しいれられていて、
 仕上げにそのカップには、信号のように赤青黄色の液体が満たされている。

 ざっとそれらの仕掛けを見渡してから、僕は問いかける。

「で、今日はなに?」

「このカップに電流を流すと液体が振動する。そして3つそれぞれの違う周波数の波を合成して定常波にするんだ」

 なるほど、金属製のカップには電極がつながれているのが見える。

「あー、もしかして……液体の振動が音叉を通してこっちのガラス玉に伝わるようになってる?」

「そう!」

 大きくうなずき、熱のこもった視線を僕に向ける。

「必要な波を持っていて余計な波を排除できる組み合わせを作るために溶媒と溶質を試行錯誤したよ」

「波を作って、それからどうなるの?」

「それは、見てのお楽しみだ」

「そう言うと思ったよ」


 <やってみる前にはわからないのが楽しいんだよ辰人>
 <何が起こるか知るのが楽しい>
 <先にわかってることを確認するだけなんて面白くないじゃないか>


 <そんなこと言ったってデタラメに実験してるわけじゃないだろ>
 <実験で出したい結果を予測して、そのために試薬や器具をそろえてるんだろう>


 <それは違う。予測があったってそれは予測でしかない>
 <やってみるまで何が起こるかわからない>
 <だからむしろ予測と違うことが起こった方が楽しい>
 <何かが隠れていると教えてくれて、そこでまた、知識が増えるのだから>


 そんなやりとりを何度も続けてきたのだ。


 肩をすくめて、晴乃が向かい合っているパソコンの画面をのぞき込む。

『実空間と虚空間との併存可能性』
『一方の運動量を負値とすることで他方に与えられる正の運動量』
『両空間境界面の発散と収束による転位可能性』

 あいかわらずなにがなんだかわからないが、拾い読みした単語からあてずっぽうに言ってみる。

「タイムマシンでも作ろうとしてるの?」

「どうしてそうなる。全然違う」

「別の世界がどうとかパラレルワールドとかそういうの?」

「そうじゃない。ああいや近いには近いけれども、やっぱり違う。
世界にはいくつもの空間が併存していて、私たちの生きる空間もその一つ。
その空間は合わせ鏡のように存在するが、互いに鏡の表裏のような関係であって独立ではない」

「やっぱりパラレルワールドみたいに聞こえるけど」

「だーかーらー、SFでいうようなパラレルワールドというのはどんどん枝分かれしていって、
一つの空間で何かが起こっても他の空間には影響しないようなものだろう。
私が言っているのはむしろ正反対だ」

 そこで僕に向き直り、人差し指をこちらに向ける。

「空間が無数にあっても可能世界は常に一つであって、全ての空間は並行している。
その空間を相互に移動できるのではないかということだ」

 僕は晴乃に聞こえないようにそっと溜息をつく。

「それで?なにが起きれば成功なのさ?」

「訊き方を変えたってだめだぞ。だが、そうだね。途中までなら教えてあげよう。
中央のガラス玉の中の…名前をつけてなかったな。まあ後でいいか。
薬液が圧力を受けて中央に収縮していく」

 それを聞いてよく見ると、ガラス玉の中は透明な液体で満たされている。

「薬液の体積が小さくなって点になるまで、体積を失うまで収縮すればいい」

「それから?」

「教えるのはそこまでだ。もっとも全く収縮してくれないかもしれないけどね。そしたらまた考え直しだ」

「小さくなって点になるって、そんなのありえないじゃないか。
圧力がいくら大きくなったって、物の体積はゼロにはならない。高校生だって知ってるよ」

「どうして学校で習ったことを鵜呑みにする。
なるほど理論上はそうかもしれないが、理論なんてのは経験の範囲でしか裏付けられない。
まして学校の教科書にしたって圧力が無限大ならば体積もまたゼロとなりうるだろう?」

「圧力が無限大なんてありえないじゃないか。だいたいそんな力にガラス玉が耐えられるわけがないよ」

「圧力がかかるのはガラス玉じゃなく、あの薬液だけだ。ガラス玉は揺れるだけ。
最初に必要な波を伝えた後は薬液が内部で連鎖反応を起こして自己収縮していく。
元々爆薬に使うような物質をベースに調合してるんだ」

「おいおいちょっと待ってよ!爆薬だって!?大丈夫なの!?」

「さあ。わからん」

「わからないって!」

「これは辰人が好きな言葉だろう? 不満なら、理論上危なくないはずだ、って言っておくよ。
材料にどんな危険物を使ってたって完成品が危険だとは限らない。
学校では塩酸と水酸化ナトリウム水溶液を混ぜるとどうなるって習った?」

「それとこれとは違うんじゃ」

「まあ、それはいいじゃないか」
 晴乃はひらひらと手を振る。

「振動のエネルギーが外方向でなく内方向に向かうようにするのが一番苦労したよ。
その反応の起動に必要な波形を実現するのにも手を焼いたがね」

 そう言いながらカップとバッテリーをつなぐ配線を調整していた晴乃は、パンと手を打って立ち上がった。

「さて!これですべての準備が完了した」

 不安顔の僕に、爽やかで一点の曇りもない笑顔を向ける。

「始めるぞ。いいかい?」

 晴乃の瞳がまっすぐに僕の目を覗き込み。
 僕は、実験への不安とは別に落ち着かない気持ちになる。

「行くぞ」

 こっちの気を知ってか知らずか、晴乃の手はよどみなく配電盤のスイッチを押す。


 金属カップに入った蛍光色の薬液たちは光り出したりはしなかったが、水面にくっきり波を立て始める。
 ただ、波の大きさが普通でない。元の水面に深い凹凸が刻まれる。
 凸の部分はカップから溢れるくらいに、凹の部分はカップの底が見えそうなくらいに。

 しかし溢れることも底が見えることもなく波は音叉を揺らし、頭の奥まで緩やかに這い入るような音が部屋に響く。
 …そこから5分、10分。
 波の動きは激しいけど、同じ動きが続けば不安も薄らいで消えていた。
 ガラス玉の薬液を凝視しているけれど変化がない。

「失敗?」
「ん? いや時間がかかることはわかっている」
「時間ってどれくらい?」
「だいたい2時間くらいかな。だが変化が始まれば10秒とかからないはずだ」

 2時間って。時計を見ればもう9時を大きく回っている。

「なにか飲むか? 冷蔵庫の中から好きに選んでいいぞ。チョコチップクッキーもあったはずだからそれも開けよう」

 自分で取りに行ってこいということらしい。まったくもう。

 階下に降り、勝手に人の家の冷蔵庫を開け、飲み物を取りだす。

 途中で晴乃のお母さんに挨拶をする。
 僕に会っても、いつものとおり、あらいらっしゃい来てたの、で終わりだ。

 幼馴染みとはいえ、若い娘のところに若い男が来ているんだから、もう少し心配したほうがいいと思うのだが。

 そう思いながらふたたび階段を上がろうとしたとき。


 ガン、という揺れを感じた。


 地震か? 

 違う。強い揺れが一度だけ。


 階段を見上げる。
 そしてこれまで感じたことがないような不安が込み上げる。


 僕は階段を駆け上がり、部屋のドアをぶち開けた。

 

 そこに晴乃はいなかった。


 あのガラス玉や金属カップもどこかへ行ってしまった。


 その器材があった場所を中心に、部屋の中の物が消え去っていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−


「その部屋がここというわけですか」
 助手の青年が僕に問う。

「そう。当時はガラス玉を中心にして半径2メートルの範囲、
床も天井も何もかも、スパッと切り取られたようになくなってたんだけどね」


 そのときを昨日のことのように思い出す。

 球形に切り取られた床や天井や家具。

 いなくなった晴乃。

 その名を呼ぶご両親。

 駆けつけて部屋を見回し呆然とする警察。

 

 僕は部屋を見回す。
 今はきれいにその部屋が修復されている。

 

 あたりまえだが、警察の捜査はなんの進展もなく打ち切られた。


「……それから、実験を再現しようとやってこられたんですね」

 青年の言葉に、僕はうなずく。


 そのときの僕には、何があったのか、何が起こったのかは少しもわからなかった。

 でもただ一つだけ、晴乃がいなくなってはっきりわかったことがあった。


 僕にとって、晴乃がとても大事な存在……

 うすうす自分で感じていたよりも、ずっと大事な存在だったということだ。


「言った通り、晴乃のやっていることはわからなかったし、興味も持てなかったけど……」

 それでも、僕は僕なりの知識への旅を始めた。

 最初は何を読んでも、何を見てもなにもわからなかった。

 でも、僕は、ひとつひとつ、晴乃の勉強していたこと、考えていたことを追いかけた。

 

 青年は机の上にあるものを手に取る。

 なにかにかじられたように、円弧を描いて切り取られた金属の箱。

「これ、例のハードディスクですよね。晴乃さんの研究内容が入った」

「そう。ちょうど半径2メートルの境界線上にあってね。
 一部だけでも判読するのは大変だった」

 ここから採取した情報がなければ、とてもここまでは来れなかっただろう。

 しかし、復旧作業をやっている間はうらめしく思った。
 これさえ完全に残っていればもっと早く目的地にたどりつけるのに、と。

 そんなとき、

 『もっと自分で考えてみたまえよ』

 そんな晴乃の声が聞こえたような気がした。

 
 そう。

 僕は今度は自分で考えた。

 情報の断片を前に自分で考え、知識をひとつひとつ積み上げていった。


「線形時空束宇宙ですか。やっぱり晴乃さんはすごい人だったんですね」

 僕が晴乃を後追いし、構築した線形時空束宇宙論。

 それはまるで規模も数も巨大なチューブの束。

 同一時空ベクトルを持ち、並行し、その数を変えることなく存在する複数の世界。

 複数世界は独立であり、しかし絶え間ない連鎖的相互干渉の元にある。

 晴乃の乱暴な実験は、その相互干渉を意図的に起こすものだった。

 そして、その一次干渉先はランダムではなく、干渉の内容によってほぼ決定される。

 これが、僕と僕の知識がたどりついた場所。


「まあ、辰人さんもすごいですけど。これだけのことを再構築したんですから」

 僕は肩をすくめる。


 そう、僕は知識を得た。一部は当時の晴乃も知らなかったこともだ。

 一次干渉先がランダムでないので、正当な再試験ができさえすれば、
 相当の蓋然性をもって、晴乃と同じ世界に行けることだろうことなどはその一つだ。
 このことがわかったときの安堵はとても口では言い表せない。


 でも、僕は晴乃とは違う。

 知識を得ることは確かにうれしいことだった。

 しかし、知識を得ることそれ自体がうれしいと思ったことは一度もない。

 晴乃のいる場所に一歩近づく。僕にとって知識を得る喜びはただそれだけだった。


 この複数宇宙のように、同じ方向を向いていても、同じことをしていても、
 晴乃と僕はかけ離れているのだろう。


 でも、それでいいじゃないか。

 同じ場所にたどりつくのなら。

 

 あの日の晴乃と同じように、僕は配線を終わる。

 あの日と同じように、ガラス球の中には液体が満たされている。

 しかし、それを収縮させるために音叉は使わない。
 接続された器具は、もっと正確にその役割を果たすだろう。


「じゃ、行ってくる」

「お別れですね」

 そう、理論的には帰ってくることができないわけではないが、現実的にはまず無理だろう。
 
 これは片道切符の旅。なにより、晴乃が帰って来ないのがその証拠だ。

 でも、僕にはなんの迷いもない。


「晴乃さんが待っていてくれるといいですね」

「さあ、それは期待できないな」

 晴乃が僕をどう思っていたのかはわからない。

 僕のことを好きだったならいいなとは思うが、あんまりそれは実感がわかない。

 そもそも、晴乃が恋という言葉の意味を理解していたかどうかだって怪しいものだ。


 僕は装置のスイッチをONにする。青年は安全な位置まで下がって手を振る。


 10年前に聞いたのと同じ音を一瞬聞いたような気がして……


 そして、目的も意志も全然違う二人の知識が見出した、その世界へと僕は旅立つ。