世界の果ての二人の会話

作:GoShu
 
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 ぼくが主査に命じられてこのラボ(実験室)に来てから1週間が経った。

 ここは政府某省直属のラボだ。
 公にはされない種々の研究・実験が行われている。
 ときには人体実験のようなこともだ。

 え?ああ、日本の話だ。
 そんなものがあるのかって。まあ、信じられないなら信じなくてもいい。
 ただ、諸外国にあるものは対抗上日本にだってあるかもしれない……
 そういう感覚は持っていてもいいだろうとは思うが。

 秘密の人体実験と聞くと、故意に病原菌を人体に埋め込むだの、
 死体からセッケンを作るだの、そういうものを思い浮かべる人もいるだろう。

 まあ、あえてそれは否定しない。
 しかし、そんなのばかりではもちろんないし、
 そこまでひどいのは少なくともぼくは知らない。

 ぼくが医学者でなく心理学者ということもあるだろうが、
 心理学者だって悪いものを見ることはある。


 『彼女』のように。

 

 いつものようになにも知らされずこのラボを訪れ、
 はじめて『彼女』の姿を見たときのことはもちろん忘れない。

 見たとたん、顔をしかめたくなった。
 しかし昔から、感情を隠すことはぼくには難しくない。
 冷静を装い、ぼくは責任者に質問する。

「なんですか、これは」
「名前はシズカだ。今年で6歳になる」

 説明するラボ責任者の顔をぼくは見る。

 その責任者は『彼女』を眺めている。

 ガラスケースの中で、なにかの水溶液に浸された脳髄を。


「これは?事故か病気でこうなったんですか」
「ESセルだ」

 責任者はそれだけを言った。
 聞いて、ぼくはかすかに顔をゆがめてしまったようだ。

 ESセル。Embryonic Stem Cells、胚性幹細胞。
 受精卵の初期発生状態から採取される、いかなる組織にも分化可能な細胞株。

 それから造られたのがあれということか?

 もろもろの規制だか条約だかに反しているはずだ。
 それに受精卵の提供者は誰なのか。
 
 しかし、ここでそれを言っても始まらない。
 絶対に答えが帰ってこない質問があることを前提に、ここでは過ごさなければならないのだ。

 必要最低限のことを聞く。

「わたしは、ここでなにを?」
「彼女はしばらく誰ともしゃべらない」
「しゃべる?」

 責任者は周辺の機材にあごをしゃくる。
 大脳の横からいくつものケーブルが出ていて、それがケースの下部から機材につながれている。
 そこにはディスプレイやマイクなどがあった。

「側頭葉聴覚野に接続されている。
 あのマイクで話せば彼女に伝わる。
 そして、彼女の意志はあのディスプレイに表示される」
「……すごいですね」

 この責任者が言うのであればそれは事実なのだろう。

「きみの前任者は1年前までは会話に成功していた。しかしそれ以降は一切の会話が成立していない」
「彼女の知能レベルは?」
「一概には言えない。なにしろ特殊な状態だ。3歳児程度の部分もあれば、年齢以上の成長を示す部分もある。
 これはきみの領分だろう」

 発達心理学はぼくの専門ではない。
 
 しかし成長、か。
 脳髄以外に肉体を持たない存在に、その言葉はどういう意味を持つのだろうか。

「……すでに、機能を停止しているという可能性は?」
「それはない。彼女の精神活動はモニタリングしている。それがこの計画の主目的の一つだからな」
「モニタリング?」
「神経細胞のパルスを逐一記録している。あのケーブルは別室の記録媒体につながっているんだ」
 責任者は床に消えているケーブルを指して言った。
「神経細胞のパルスを?逐一?まさかそんなことが」
「もちろん記録は膨大になる。すべてを短時間で調査することもできない。
 しかしパルスと精神活動の相関については次第に明らかになりつつある」

 心理学と大脳生理学は、年代を追うにつれていよいよ関係が強固になっている。
 しかし、そのようなことができるとはすぐには信じられない。

 しかしそれもおそらくは事実なのだろう。

 そして、それを問うことがこの場の問題でもあるまい。

「わたしの仕事は、会話を再開させることですか?」
「そうだ。きみの専門は環境心理学であることは知っている。
 若干畑違いだが、今回はその専門が役に立つかもしれない。
 これまでの資料は向こうの担当者に聞いてくれ」

 そう、大きく畑違いだ。ぼくは発達心理学者ではなく、セラピストでもないのだから。
 そう内心で考え、「わかりました」と答えた。

 

「彼女のパルスは発生と同時にこのHDDに記録されます。
 なにしろ量が多いので、1PB、つまり1GBの百万倍の容量があります」

 若い担当者はぺらぺらと説明する。厭な感じに明るい男だった。

「発生と同時、ね」
「そうです。このサーバ内に構築された疑似神経束に対し、まったく同時に作用します。
 シンクロ率100%!ってわけですよ」

 そう言ってひとしきり軽薄に笑ってから棚を指差す。
 その示す先には、棚一杯の記録媒体がある。

「バックアップがあっち。シズカちゃんの成長の記録というわけですよ」
「6年間すべてというわけか」
「そんな。それじゃとっても足りませんよ。ここにあるのは1カ月分だけです。
 それ以前のは向こうの建物にいっぱい詰まってます」
「それじゃ全部見るのは無理だ」
「見る必要もありませんよ。あちらのサーバに前任の方が残した報告文書があります。
 それを見ればいいですよ」

 

 報告文書だけであっても、量は多かった。
 深夜、痛む目と肩をもみほぐしながら、頭の中でまとめる。

(機材を通してのこちらの声には有意の反応あり。
 当初の反応は定型的だがノイズが多量)

 椅子の背もたれを倒して目を閉じる。

(2年目以降、反応が変質。
 調査分析により、言語に変換することが可能になる)

(5年目になってしばらくして、こちらからの問いかけに有意の返答がなされなくなる)

(問いかけの内容は、
 「おはよう」
 「気分はどうだい」
 「なにか聞きたいことはないかい」
 「ところで、何々について聞いてもいいかい」)

(……まあ、話しかけることなんてそんなもんだろうな。
 話題なんか、あるわけがない)

 そもそも、
 親の顔も知らず、
 母に抱かれた時の肌触りも知らず、
 歩くことも知らず、
 食べることも知らない。

 ぼくの専門ではないが、発達心理学の前提がすべて通用しない。

 そんな子供が、何を考えているのか?


「そんなこと、ぼくが考えてもわかることじゃない」
 ぼくは目を閉じたままそうつぶやいた。

 


 そして翌朝。
 ぼくは彼女の前に立った。

「おはよう。はじめまして。コンノといいます」

 反応なし。ディスプレイは深い灰色をたたえてすこしも変化しない。

「今日からシズカちゃんのお相手をすることになりました。よろしく」

 反応なし。

 新しい人間が来たら興味を覚えるかとの淡い期待はやはり裏切られた。

「26歳で、心のことを勉強しています。
 心って、わかるかな。
 何を考えているか。
 うれしい、かなしいといったこと。
 そういうことです」

 反応なし。

「勉強のために、いろいろな場所に行ったりしました。
 これから、いろいろお話ができればいいと思っています」

 反応なし。

 まずは自己紹介からと思ったので、今日はこれくらいにする予定だった。

「じゃあ。また、明日来ます」

 どうせ長期戦だ。これから毎日、会話の後は作戦作りになるだろう。


 帰りに、精神活動記録担当の若い男に聞いていく。
「どうだった?なにかこの1年との変化は?」
「うん、今日は少し違いましたね。がんばってくださいよ!」

 肩をすくめたい気持ちを抑え、がんばるよ、と答えて去る。

 

 翌日。

 ぼくは童話の本を抱えて行った。

「今日はお話をしてあげるからね」

 そう前置きをして、明るい話、「ブレーメンの音楽隊」や「ヘンゼルとグレーテル」を読んで聞かせる。


 反応はない。

 それを確認して、二日目も終わる。

 明日に少しの期待を抱きながら。

 

 翌日。

 ぼくがラボに持ち込んだものを見て、周囲の研究員たちは目を丸くした。

 ぼくはそれを無視してさっさと荷物……ギターをケースから取り出す。

 そして彼女にあいさつをして、童謡を弾き語りする。

 明るい歌を選ぶ。「春の小川」「おつかいありさん」「犬のおまわりさん」
 思いつくままに弾く。
 一部のコード進行は怪しいが、以前習っていたこともあるので、
 あからさまにおかしくはないはずだ。

 ギターは他人からほめてもらったこともある。
 しかしギターをほめられても嬉しくはなかった。
 というか、何をほめられてもあまり嬉しいと思ったことがないのだが。

 大の大人がギターを抱えて「おつかいありさん」を歌っているのは
 滑稽だろうが、幸か不幸かぼくはまったくそういうことは気にしない。


 ディスプレイを常に注視していたが、残念ながら今日も反応はなかった。

 

 翌日。

 ぼくは再度童話の本を抱えていった。

 しかし今日は一昨日とは違った。

 では今日も始めるよ、と言って語りだしたのは、
 「マッチ売りの少女」、「人魚姫」、「泣いた赤鬼」、「ごんぎつね」……。

 暗い話、悲しい話ばかりだった。

 実は、一昨日の反応は予期していた。
 なぜなら、普通の本の読み聞かせは前任者がすでに実施していたと記録にあったからだ。


 それでだめなのであれば、ショック療法になるが、このアプローチを採用する価値はあると思った。


 とはいえ、今日も反応は相変わらずなかった。
 だが、しばらくこの方法を取ることに決めていた。

 

 翌日。

 今日はギターの日だ。

 昨日と流れは同じだ。
 「大きな古時計」「小さい秋見つけた」「カナリヤ」そして「ぞうさん」。
 「ぞうさん」は別に暗くも悲しくもないが、母親が出てくる。
 これを歌うときだけは少し緊張した。

 歌い終えて、いつものように声をかける。

「それじゃ、今日はこれでおしまい」


 ギターを片付けていると、目の端で何かが動いた。
 
 さっと顔を上げると、そこには初めて目にするディスプレイの文字があった。

 


"明日も来る?"

 


 胸の中では深い安堵のため息をつきながら、ぼくはさりげなく答える。

「ああ、もちろん」

 


 翌日、ラボに行く途中で、手洗いの前を通る。
 例の担当者の大きな声が聞こえてきた。

「いやー、しかしすごかったですね。1年しゃべらなかったのを、
 1週間もせずにしゃべらせたんですから。
 ギター持ってきて、しかもうまいのにはホント驚いたな。
 あの人鉄仮面みたいで表情変えないじゃないですか。
 難しいんじゃないのかなあ、と思ってたんですけどね」

 ぼくは彼と顔を合わせないよう、早足でその前を通り過ぎる。

 こう言われるのはいつものことなので、特に気を悪くもしない。


 彼女に朝のあいさつをする。
「おはよう」

 ディスプレイから返事が返る。
"おはよう"

 ぼくは童話の本を鞄から出しながら聞く。
「なにかしてほしいことはあるかい」

 しばらくして、返事が返る。
"お話か、歌"

「それじゃ、今日はお話だ」

 もう、無理に暗い話をすることもない。

 暗い話も明るい話も、ランダムに、自分の好みも入れて話す。

 帰る時、ディスプレイに文字が並ぶ。
"さようなら"

 

 翌日は、ラボに入る前に、責任者と今後のことをいろいろと相談する。

 それから部屋に入り、彼女にあいさつする。
「おはよう」

 ディスプレイから返事が返る。
"おはよう"

「今日は歌だね」

 ケースからギターを取り出す。

 童話同様、歌ももうランダムに、自分が好きな歌、得意な曲を並べる。

 今日は、耳をすます彼女が感じ取れるようになった。

 一歩一歩、進んで行けている。そう思いながら歌う。


「……じゃあ、今日はこれでおしまい」

 ケースにギターを納めようとすると、ディスプレイに文字が出た。

"もうちょっと"

 ぼくは少し驚いた。
 しかしギターを再び取り出して、また別の歌を歌い始める。


 終わろうとすると、また"もうちょっと"と彼女は言った。

 そして、それが何度も続いた。


 彼女がしゃべるのはそれだけ、"もうちょっと"。

 しかし、これは親愛の念の表出であろうと判断して、彼女の要望に応え続けた。


 歌いながら、今日の朝に責任者と話したこと……
 他の感覚野や運動野にも種々の機具を接続する計画のことを
 ときどき思い出していた。


 しかし、自分が歌を歌い、彼女がそれを聞いている時間は、
 そのこともぼくに忘れさせる、楽しい時間だった。

 そのことは、意外だった。

 

 もう夜も遅くなっていた。

 ラボのメンバーは、一人また一人と帰宅していき、もうぼくしか残っていなかった。


 そして、また一つの曲が終わった。

 ギターの響きが消えると、ラボにはかすかな機械音だけが残った。

 

"ありがとう"

 ディスプレイにその言葉が映し出される。

「……どういたしまして」
 お礼を言われるようなことはない。
 そう思いながらも、返事をする。

"あなたに会えて、よかった"

「!」

 その言葉を目にした瞬間、自分にも理由がわからないほど、
 頭の中で言葉が噴き出した。


 そんなことは言わなくていい、

 ぼくはそんなことを言われるようなことをしていない、

 ぼくはそんなことを言われるような人間じゃない、

 きみはぼくに対してそんな言葉を言ってはいけない。


 これをなんと伝えよう。

 言葉を探しているうちに、ディスプレイにさらに次々と文字が浮き出てきていた。


"長い間、ずっと同じことだけ考えてた。そのうちなにも考えなくなってた"

"コンノさんが来てくれた"

"コンノさんの歌とお話、好きだった"

 

 絶句するぼくの目に、さらに文字が映る。


"さようなら"


 意味を理解する間もなく、何かが変化したことを悟った。


 次の瞬間、ラボ内に異常を知らせる警報が鳴り渡った。


 ガラスケースに駆け寄る。

 見かけは、さっきまでと変わらない。


 しかし、彼女との短いつきあいが終わってしまったことは、
 頭でなく、感覚で理解していた。

 


 責任者から聴取を受け、状況を説明する。
 長い束縛が終わり、ぼくは記録担当者のところへ行く。


「直前になにか記録されている?」
「なにかもなにも……これ見てくださいよ」

 00000000000000000000000000000000000000000000。

 ディスプレイに無限に映るゼロの列。

「なんだ、これは」
「HDDがきれいに消去されてるんですよ。一部ノイズデータが残ってますが、
 ほぼすべてのセクタが0だけ。
 おまけに書きこみも不能になっちゃってる。
 昨日1日の記録はすべてパーです」

 ゼロ。空虚、空白か。

 そう、死というのはそういうものだろう。
 シンクロ率100%はダテではなかったということだ。


 そして、すべてパー、か。

 であれば、彼女の最後の言葉は誰も見ることがない。

 そして、それをうれしいことだと思う自分がいる。

 これも、意外だったが。


「どうやって死んじゃったんでしょうね?自殺なんでしょうか?」
「……そう決まったわけじゃないさ。なにかの機能限界が来ただけかもしれない。
 まあ、自殺としたって、彼女の世界はぼくらにはわかりようがないさ」

 ぼくがそう言うと、記録担当者もディスプレイを見てうなずく。


「さて、報告書を書きに行くか」

 ぼくが出て行こうとすると、担当者が奇声を上げた。

「あれ?もしかして?」

 振り向くと、「あ!やっぱり!」と大声を出してこちらを向く。

「このノイズですけどね、音声形式に変換できるんですよ!今やってみますね!」

 担当者がなにやらキーボードを忙しく叩くと、傍らのスピーカーから声が出てきた。

 少女の声だ。


  うたをわすれた かなりやは
  ぞうげのふねに ぎんのかい
  つきよのうみに うかべれば
  わすれたうたを おもいだす


「……これが彼女の声なんですかね?」
「ああ、たぶんね」
「大人びてますね」

 それは、彼女が子供の声を聞いたことがないからかもしれない。
 そう思ったが、言うのをやめた。

「ああ。それにいい声だね」

 ぼくが見せた笑顔に少し驚いた顔をする彼を背に、ぼくは扉を出る。


 廊下を歩きながら、さっきの歌、そして彼女の最後の言葉を思い出す。

 彼女は何かを忘れて、そして思い出したのだろうか。

 そして……


「やっぱり、思い出せてよかったのかな」

 自分も、思い出せない何かがあるような感覚の中で、ぼくはそう独り言を言った。