題名:落ちない砂時計 作者:糸染晶色 リライト:yosita 閉店時間まであと13分。店内の座席に客の姿はない。 とうに夏は過ぎ去り、外は朝からずっと冷たい雨が降り続く。傘を差す手に湿り気がまとわりついて体温が奪われていく。 こんな日は暖房の効いた中で熱いコーヒーでも飲みたくなるもの。 そのおかげか今日の客足は上々で、傘や靴からしたたった滴がいまも床を濡らしている。 いまからやってくる客もいるまいし、今日は店じまいにしてしまおうか。 「ふう」 入口のガラス戸の札をひっくり返せばいい。 内側に<CLOSED>の面を向けているそれを見る。 とはいえ表に掲げた閉店時間を客が来ないからといって早めてしまうのもサボってるみたいだし。 手持ちぶさたで流しに向かい、底に薄く残った紅茶を捨ててカップを洗う。カチャカチャと鳴る音が耳に刺さる。 実はコーヒー専門の喫茶店にしようと思ったこともある。だが訪れる客の立場で考えた結果、紅茶やホットミルクに加えてケーキやサンドイッチも並んだ無難なメニューに落ち着いてしまった。 なんとなく物足りなく感じることもないではないが、配慮の成果か売り上げ自体はそこそこだ。 それにこの店自体も格安で手にいれることができた。 カランッ――。 お? 来客を告げる鈴の音。 入口には傘の水を雑に払う男の姿。店内を見回した後、二人席の片方の椅子に座った。 時計を見上げると閉店時間をわずかに過ぎている。少し考えて入口の札を裏返すだけにした。 落ち着いた風貌。黒いコートの下にまた黒いスーツ。椅子に立てかけた傘の先にはすでに滴が溜まっている。 「ご注文は」 「ホットコーヒー。ブラックで」 「かしこまりました」 さっきの客でコーヒーが切れて、閉店まで大してなかったからそのままだった。 あぁ、これ以上はこの豆から淹れるべきじゃない。 前の豆を濾紙ごと捨てて、紙袋から新しい豆を取り出す。 と――、 「新聞やテレビは見ないんですか?」 ――座席から声がした。 「そんなことはないですよ」 返事をして席のほうを伺うが、男は窓の外を眺めているだけで次の言葉はない。 独り言? いや話しかけてたよな……。 なんだろう。 ひいたばかりの豆から滴った琥珀色の珠が集まっていく。 だがカップ一杯分にはもう少しかかる。 「よろしければどうぞ」 備え付けの新聞を持っていって男の前に置いてやった。 コーヒーの前に戻ってくるとクックッと噛み殺すような声が聞こえた。 男の様子を伺うと笑いながら新聞をめくるところだった。 はて。スポーツ新聞でもなし、読んで笑うようなところなんてあっただろうか。記憶をたぐってもそんな記事は思い当たらない。 いつも通りの日常的な記事しか思い当たらない。まあ、見出しくらいしか目を通してないけども。 棚にもたれるようにして琥珀色が満ちるのを待つ。ときおり男はこちらに視線を投げるが、すぐに新聞に目を落とす。 男がテーブルの下で脚を組みかえたが、座りが悪かったのかまた元に戻した。 コツ、コツ、と時を刻む音が店内に染み渡る。 あまり待たせたくはないが、こればかりはどうしようもない。 レストランなんかに行けば料理が早くこないかと厨房の出入口を伺うのは私も同じだが。トレーを持って出てきたウエイターが横を通り過ぎていく肩透かしは何度経験しても慣れない。 もういいか? いや、まだか。もう少しだけ足りない。 ぽつ、ぽつ、と水面に落ちる滴は小さくて、まるでかさが増えていないようにも思えてしまう。 男のほうはというと、新聞を眺めてはいるが流し読みをするだけで、一つ一つの記事を読んでいる様子はない。 ふう。 ようやく溜まった一杯をカップへ注ぎ、テーブルへ届ける。 「お待たせいたしました」 はっきりブラックでと注文されたので砂糖とミルクは添えない。 「ごゆっくりどうぞ」 「マスターさん」 「はい?」 「一緒に飲みませんか。マスターの分は私のおごりで。今日はもうほかに客は来ないんでしょう?」 入口のガラス戸にかかった札を指して言う。 閉店時間を読んだうえで入ってきたな。 ふてぶてしさに苦笑しつつ、 「そういうことでしたら御馳走になります」 と答えて厨房に戻るが、コーヒーの滴は器の底を隠すこともできていない。 残っている紅茶をカップに注ぎ、男の向かいに座った。 正直あまり気分のいいものではない。 「紅茶ですか?」 「ええ、まあ。コーヒーはそれを新しく淹れ直したところで、次の一杯は入ってないんですよ」 「それは残念」 男はさして気にした様子もなく目を伏せてカップを傾ける。 合わせて私も紅茶を口にした。 嫌いというわけではないし、紅茶は紅茶で美味しく飲めるのだけど、やっぱりコーヒーには適わないんだよな。 改めてそう思う。 この男、私よりも少し若いくらいか。 顔は蒼白く生気を感じられない。 やっぱり――。 それでも、コーヒー味の感想が気になる。 澄ました顔のまま男はテーブルの上のカップをずらす。 「ところでこれを見てください」 男が広げたのは私が渡した新聞。社会面。 その指が示す先。 そういうことか。 またクックッと噛み殺したような笑い。 だから私は顔を上げられない。 代わりに男の指先にある記事を読み直す。 「長谷川一樹さん……ですか」 「”かずき”でなく”いつき”と読みます」 愉快そうな様子が頭の上に感じられる。 そしてカップを口に運ぶ気配。やがて受け皿に置かれる音が耳元に。 「早く飲まないと紅茶が冷めてしまいますよ?」 「……そうですね」 努めて平静に体を起こし、紅茶を飲む。 改めて男の顔を見ようとして目が合ってしまう。 ――昨日午後5時14分頃旅行代理店勤務の川口勤さん(53)が首などを刺され、病院に運ばれたが死亡が確認された。警察署は目撃証言からその部下の長谷川一樹容疑者(33)を殺人の疑いで指名手配している――。 記事の横に容疑者の顔写真が掲載されており、目の前にその顔がある。 「……どうして?」 何に対する質問なのか自分でもわからない。 それでも長谷川は勝手に理解してくれたようだ。 「そうですねえ……。カッとなって、というのが正しいんでしょうが、いま思うと自分でも不思議なんですよ」 男は淡々と話を進める。 「いやあ、ハワイのホテルの予約が確保できなくてツアーの企画が潰れちゃったんですよ。その企画は私の上司――そこに書いてある川口ってんですけど――が立案したもので、うまくいけば会社も大きく儲けられて部長に気に入られると思ってたみたいで」 「はぁ……」 私は適当に相槌を打つ、 「けど欲をかいて粗利でかくしようと途中で飛行機を変えやがったんですね。格安のに。それを私がチェックしたら、その飛行機、ツアーの人数分は乗れないんですよ」 「はあ……」 「それを川口に伝えたら、あわててホテルと交渉を棚上げして元々の航空会社に戻そうとしたんですが、向こうも突然のキャンセルで怒ってて断られちゃって。で、飛行機を探せって私に怒鳴り散らすわ、椅子を蹴るわで……」 「大変ですね……」 「期限がギリギリですから私もなんとか航空会社を探して、少し割高になるとはいえ見つけたんです。そしたらどうなったと思いますか?」 どう答えれば……。 「え、えー、儲けが小さくなるからって怒鳴ってきた……?」 「いえいえ。それだったらまだ良かったんですがねどうにかツアーも空きを出さずに済んだでしょうから。まあ部長に誉められるのは無理だったでしょうけど」 そこで話を区切ってコーヒーを口にする。 「川口はね、ホテルとの契約を忘れて交渉を中断したまま放っていたんですよ。『はぁ?』って思いました」 「それで私はすぐ電話しましたけど、もう部屋が埋まってしまってて。さすがにもう別のホテルを探す時間はなくて、川口は部長に呼び出されて大目玉。ざまあ見やがれって思ってたんですが、次に私が部長に呼び出されたんです。おかしいなと思ったんですが行ってみると、部長は私を見るなり建物中に聞こえるんじゃないかって声で怒鳴ってくるんです。もう面食らっちゃって。川口のミスの尻拭いで飛行機を確保したことで誉められるくらいのことはあっても、怒られる覚えなんてないんですから。聞いてると一番最初の航空会社との契約を私がキャンセルしたことになってるんですね」 「……」 「で、川口がホテルの方に頭を下げて契約を待ってもらいながら代わりの飛行機を探したが、とうとうホテルに断られてダメになったという筋書きです」 「説明はしなかったんですか?」 「ーーしましたよ、もちろん」 「けれども、聞く耳は持ってもらえませんでしたけどね。『嘘をつくなっ!』って。戻ると川口がこっちを見て笑ってるんです。にやにやと嫌らしい顔をしてね。ま、それでついカーッとなって――」 なるほど……。 深く腰掛けて淡々と語る様子を見ていて、少し落ち着いてきた。 「後悔しているんですよ」 「……というと?」 「だってほら殺しちゃったらこういうことになっちゃうわけです」 人差し指で自分の写真を叩く。 「そしたらもうどうしようもないじゃないですか。あのまま我慢してたら人並みの生活をできてたわけでしょ。ああ、いやクビになってたかもしれませんね。それだとしたらヤツの顔面をブン殴るくらいにしておけば、気持ちよくクビになれたってもんです」 またクックッと笑い、カップの残りを飲み干した。 「ああ、おかわりはいりませんよ。その間に電話されちゃ困りますし」 沈黙。時計の音と窓を打つ雨音だけが薄く空気を満たす。 だが、私は通報する気はさらさらない。 「どうして……」 「はい?」 「どうしてそれを私に?」 「うーん、どうしてでしょうねえ。――懺悔したかったから? ――仕事でミスしていないことを誰かにわかってほしかったから?」 「……」 「どうですかね」 「……」 「実を言うとですよ、あなたを殺そうかと思ったんです」 「!!」 真っ直ぐに見る視線に背筋が冷える。 窓の外に人通りがないわけじゃない。ときおり車の姿もある。 とはいえほかに誰もいない店内。襲いかかるのには1秒もかからない。 カツ、カツと時計の音が響く。 「いまはそのつもりもないのですけど」 「……そうだと助かります」 「昨日の今日でもう指名手配。行き場所もなく追われるから逃げるだけ。逃げても結局は捕まるでしょうし。川口を刺したハサミ、いま持ってるんですよ。見ますか?」 ざわざわと何かがこみ上げてくる。 黙って首を横に振った。 「凶器をまだ持ってるんですね」 「ええ、もう同僚たちの目の前でやっちゃいましたからね。こんな写真も出されちゃって。凶器を捨てたところで意味ないでしょう。意外に冷静だったんです。自分でも驚いたことに。机の上にあった大バサミをひっつかんで川口に突き立てた後からは。そこでハッとして、これはもう助からないなと思いながら首からハサミを引き抜いて、そのまま立ってたら同僚たちに取り押さえられちゃうからと飛び出して。家に戻ってたら捕まるので銀行で金を下ろせるだけ下ろして。電車は監視カメラで足取りが割れるんで、バスを使って逃げました。それだったら、あと一歩早く冷静になってくれればよかったのに……」 この長谷川という男、後悔はしているのだろう。 「これからどうするんですか」 「それなんですよね。どう足掻いたって警察からは逃げられない。捕まらなくたって定職に就くなんてとてもできない。当面は困らないとしても、金が尽きるのなんて時間の問題ですからね。日雇いの仕事を探して転々とするくらいしか。道路工事のバイトとかってどうやったらやれるんですかね。工事してるとこに直接行って監督っぽい人に言えばいいんですか?」 「……さあ。なんとも」 そんなこと私に言われても……。 「結局のとこ、これからどうしたらいいかわからないんですよ」 そして溜め息。 なんとなくわかった気がする。 「こうやって逃げていて、その先になにかがあるわけでない。どうでもよくなって。1人殺したら2人殺しても一緒だからとあなたを殺そうかとも思ったんです。なんとなく」 「やめてくださいよ」 なんとなくで殺されたらたまらない。 ……どんな動機があっても殺されたらたまらない。 「まあ、なんとなくだから殺す理由もなくって。店に入って傘を振ってるうちにそんなつもりもなくなりました」 「……それはまた私は命拾いしたわけですね」 「で、私を見ても顔色一つ変えなかったので、つい聞いちゃったんです」 「ああ」 「そしたら私の写真が載ってる新聞を持ってくるじゃないですか。これはこれで面白いなと」 「つまり指名手配犯だと教えたときの反応を見たかっただけ……?」 「どうでしょう。ああ、案外そんなとこかもしれません」 「自首してはいかがですか。確か殺人でも1人ならそうそう死刑にはならないと聞いたことがありますよ」 「それでも牢屋に何年入ることになるやら」 「きっと長くても懲役10年くらいだと思いますよ」 「簡単に言いますね。10年ってすごく長いじゃないですか」 「考えてみるとそうですね」 確かに年単位で人生を失うことになるなんて耐えられそうにない。 「でも警察に追われて逃げ続けるのも辛くないですか?」 「それはもう……」 「一日周りを気にしていただけで疲れました。もうずっとここに座っていたいくらいです」 「勘弁して下さい。もうとっくに閉店時間は過ぎてるんですから」 それだけは困る。私は断固として拒否をした。 「そうでした。それじゃあもう行きましょうかね。私が出ていった後も通報しないでもらえるとありがたいです」 言って立ち上がる。 「ははは」 「もしかしたら殺しちゃうかもしれません」 「殺す気はなくなったって言ったじゃないですか」 「いやあ気が変わることもありますよ」 「それは困りますね。では通報しないと言っておきましょう」 「あとそれとコーヒーの淹れ方を教えていただけませんか。もうここに来ることはないでしょうし」 長谷川は足を止めて私に向き直る。 「それは企業秘密です」 「残念」 クックッと笑う。 カランッ――。 鈴の音とともにまた店内には私一人。 テレビをつける――。 確認しておきたい、念の為。 ちょうどニュース番組の時間。 レポーターの声が聞こえる。 『指名手配中の長谷川一樹容疑者、本日午後13時に潜伏先のホテルで自殺――』 「……」 やはり……。 私はため息をついた。 初めてのことではない。 店が格安で手に入った理由、それは店の裏が墓地だからである。 <了>