『冬来たりなば』 原作:KAICHO /進行豹によるリライト稿 「お待たせしました、マイルドブレンドです」  ウェッジウッドのワイルドストロベリー。  少女に似合いの柄のカップは、しかし恐る恐るとしかその唇に近づかない。  ようやく、ひと口。  すぐさま浮かぶしかめっ面。 「……苦い……」  つぶやき、少女はカップをソーサーに戻す。 「コーヒーって、全部こんな味なの?」 「初めて。しかもブラックでお飲みになった方にとっては、 そうであるかもしれませんね」 「うぇ……」  私の答えに、少女の眉はいっそう潜まる。 「どうしてみんな、こんなもの飲みたがるのかな?」  興味深い問いだ。  いくつもの思いが浮かんでくるが…… 「あるいは、人生の味と香りを楽しむためかもしれません」 「ふぅん?」 ……まっさきに浮かんだ答えを言葉にすれば、少女の眉がわずかに緩む。 「なら――大人になれば美味しくなるの?」  あどけない、けれど聡明な問い。  口の端に笑みが浮かんでしまう。 「はい、おそらく」 --------------------------------------------------------------------------  ……決心して肩が軽くなった気がした。 「私も、年を取ったということ、ですかね……」  諦めることを悔やまずに、むしろ、ホっと感じてしまう。  若いころにはありえなかった心の動きには違いない。 「……この店にも、ずいぶん無理をさせてしまいましたか」  磨き抜いても、無数の傷が残るカウンター。  補修してもなお、わずかにガタつきの残る椅子たち。  足音よりも、軋みが目立つようになってしまった床。 「五十年。ですか」  こんなに長く、店を続けるとは思わなかった。  あのひとがもしも来てくれていたら、 この店は……多分とっくに、閉店していたことだろう。  だが今日――あと数時間で、 分岐していた「もしも」と「今」とが、ようやく一つの道へと繋がる。  カラン―― 「いらっしゃ「いつもの!」  私の言葉を遮る注文。  カウベルの響きも消えきらぬうち、少女はカウンターの席へと座る。  マフラーを解きコートを脱げば、脱色をされた長髪が店内の空気を揺らす。 「いらっしゃいませ、ミドリさん」 「聞こえなかった? い つ も の」 「かしこまりました」  頷く手はもう、ココアを温め始めている。  これが、ミドリさんにお出しする最後のココア。  そして恐らく……この店が受ける最後のオーダーになるだろう。 「今日は、いつもより遅いお越しで」 「予餞会の練習があったの」 「予餞会……そういえばそんな季節でしたか」 「先輩とかさ、練習でもうウルっときてるの。 なんかねー」  大きな瞳が天井をにらむ。  言葉を探すかのような沈黙。 「……なんか、うん。悪くはないけど……あたしは、卒業で泣くとか、違うかなって」  泣くとか、違う。  ――実にミドリさんらしい言葉だ。 「違いますか?」 「今はね、そう思う。来年、実際の卒業ときはやっぱり、ウルっと来るかもだけど」 「来年……」  今度は、とても遠く聞こえる。 「……ミドリさんも、もう来年でご卒業なのですね」  中高一貫、六年制の私立・端野森学院。    最初の一杯をお出ししたときには、 ピカピカのセーラー服に身を包んで、思いっきりに背伸びしていたあのミドリさんが―― 「ま、ね。っても、留年しなきゃだけどさ」  余裕を感じる、大人びた笑み。  たったの五年で、ずいぶんと成長されたものだ。 「――お待たせしました」 「ありがと」  カウンターの向こうから聞こえてくる、 ふうふうと、ゆっくりココアを冷ます音。  制服が高等部のものになり、髪の毛の色が金茶に変っても、 これだけは、五年まったく変わらなかった。 「今日も、来てない?」 「ご覧の通りで」  道化て肩をすくめてみれば、ミドリさんは面白くもなさそうな顔をする。 「あたしの卒業までにはさ、来てくれるといいよね」  ああ。  直感――ではなく、理解する。 「とても残念なことですが」  このタイミングで話してしまえと、神様が言ってくれている。 「ひと足早く、私の方が卒業させていただきます」 「え?」  きょとんとした顔で見つめられる。  次の瞬間、びくり、ミドリさんの頭が動いて。 「まさか、マスター――卒業って」 「はい。待ちくたびれてしまいました。 今日が、ちょうど五十年目になりますからね……潮時でしょう」 「でも―― けど……」  ミドリさんの眼がきょろきょろ、せわしなく動きまわる。  まるで、あのひと――さくらさんを探しまわっているように。 「だって、約束したんでしょ!? またこの店に来てくれるって、何年たっても、必ずくるって」 「はい、確かに約束しました。 けれど、全ての約束が果たされるものではありません」 「でも……だって! マスターとさくらさんは」 「ただ、ブローチを見つけてさしあげた。たった、それだけの仲ですよ」  そうと言葉に出してしまえば、否応なしに、あの日の景色がよみがえってくる。  初めてのご来店での失くし物。  必死になってブローチを探される細い指。    目を放せなくなる――その言葉の意味を教えてくれた、美しい横顔。   「ただブローチをって! だって、夜中までずうっと探してあげたんでしょう? 『見つけます』って約束をしてさくらさんも帰してあげて、そのあとも。 言ってたじゃない! 当時の店長さんに怒鳴られたって!」  そう、あの頃の私はただの見習いだった。  鍵さえ、預けてもらえてなかった。  店長にひたすら頭を下げて、 一晩だけは、止まり込むことを許してもらって……  死に物狂いで探して探して……  床の隙間にすっぽりはまり落ち込んでいた、あの真っ赤な輝きを見つけたときには、 自分だけの星をみつけたような気持ちさえしたものだった。 「そこまでがんばって、ようやく見つけたブローチだったんでしょう? それをきっかけにお店に来てくれるようになって、 そこから、恋がはじまったんでしょう?」  恋。  あの感情に名をつけるのなら、たしかにそれが最適だろう。  が―― 「はじまったものを恋と呼ぶなら片恋ですよ。身分が違いすぎました。 わたくしがただ恋をして、さくらさんは――」 「名前」 「っ!?」 「教えてもらえたときに、嬉しかったっていってたじゃない。 対等に見て貰えてるような気がして、とっても嬉しかったって」 「……………………」  反論、できるはずもない。  それは確かに、私が漏らしてしまった話だ。 「身分だなんて関係なしに、何度も何度も会ってお話をしたんでしょ? 会えない事情が出来たときにも、 ゆびきりをして、必ずまたって約束したんでしょ? そんなの――そんなの、絶対に――」  声を震わせ、体も震わせ。  ミドリさんの瞳も潤み、震えてしまう。 「――さくらさんも、恋をしてたに決まってる」 「いいえ」  けれど、即座に否定する。  大切な、そして最後のお客様のおっしゃることであっても、 そこだけは、絶対に肯定できない。 「片恋、ですよ」 「なんでそんなっ!」 「さくらさんがもし、私に恋をしていたのなら、 だというのに、約束を果たせなかったというのなら……」  こんな簡単なこともわからない。  未熟さは、とても純粋で残酷だ。 「それは、さくらさんにとっての悲劇になってしまいます」「っ!」    ミドリさんが驚きに息を呑み。  そうして私をいたわるような、申し訳なさそうな顔になる。  だが、私にもわかっている。  この少女に悪気などあるはずもなく―― 恋を知らない、それだけなのだということを。 「これは片恋。五十年かけた片恋です。」  だからただ、同じ言葉を繰り返す。 「そうして私は。ようやく、その恋を失うのです。 ただ、それだけの話なんですよ」 「けどっ――それでもっ!」  勢いも良く立ちあがる、制服の胸のリボンがふわりと―― 「っ!!!?」  赤い輝き。  呼吸が、時間が、止まってしまう。 「だって、五十年も待ったんだしさっ! あと一年、もう一年くらい待っても――――って、マスター?」  まくしたてていたミドリさんの言葉はけれど、 戸惑ったように速度を落として、止まってしまう。 「ええと……あたし、あれ? 言いすぎちゃったとか」 「いいえ」  指さそう、として震えに気付く。 「いいえ、そうではありません」  指だけじゃなく、手だけでもなく、体全部が震えてる。 「それ、です」 「それ?」  指さす先に目が落ちる。   「それって、なに、リボン?」 「下です。その、リボンの下」 「あ、マスター気付いたんだ? 先生たち、誰も気づかなかったんだけど」  ミドリさんの指が赤いリボンを持ち上げる。  結び目の下、隠れるように。 「実はさ、予餞会であたし送辞よむんだ。 でさ、ちょっとだけおしゃれしようと思って」  あの星が――赤い宝石が輝いている。 「かわいいでしょ? これ、おばあちゃんの形見――――――」  動きが止まり、ミドリさんの目がまるくなる。  口がぽかぁんと開いて言葉が出てこなくなる。  沈黙の中。  鼓膜が、記憶が揺すられる。  ――おばあちゃんの形見――  ああ、そうか。    今ふうの服や髪のせいで誤魔化されてた。  ミドリさんには、確かにさくらさんの面影がある。  そうか、そういうことだったのか。 「…………………………………………」  ミドリさんは、何もいえない。  賢く、とても優しい少女だ。  ……この少女の祖母であったというなら、とても容易に確信できる。  さくらさんは、幸せな生涯を歩まれたのだ、と。 「……………………」 「……………………」 「……………………」 「……………………」  長い、長い沈黙のあと、ようやく私は言葉を見つける。 「……冷めてしまいますよ、ココア」 「あ」  金縛りから解かれたように、ミドリさんがココアのカップに唇を寄せる。  もう冷めきってしまってるだろうに、習い性なのか、ふうふうをして。 「あたし……ここのホットココアが好き。マスターと話すのも好き」  カップを見ながら、ミドリさんがぼんやり呟く。  聞いた瞬間、冴え冴えとした寂しさが胸にこみあげてくる。 「……ありがとうございます」  それしか、言えない。  ちびちびと、ココアが飲まれる。  飲み干す事を恐れるように、本当にちびちび、ちびちびと。  けれども――やがて、カップが置かれる。 「……ごちそうさま」 「ありがとうございます」  一礼をする。心をこめて。  ミドリさんに、この店に――そして、さくらさんに。 「あのっ! マスター」 「っ!?」    不意の一声に驚かされて顔をあげれば、 切羽詰まった表情で、ミドリさんは口を開きかけ―― 「…………ごめん、やっぱりなんでもない」 「そうですか」  不意に、感じる。  この子は、少し大人になった。  成長、ではなく。  多分――脱皮をするように。 「……ここは、喫茶店でしたから」  過去形で言えば、ミドリさんも静かに頷き返してくれる。 「最後にお出しする一杯がココアでは、少し寂しい気がします。 ので、いかがでしょう――」  もう一度、強い頷き。  そして私の言葉を待たず、ミドリさんはラストオーダーを口にする。 -------------------------------------------------------------------------- 「お待たせしました、マイルドブレンドです」  ウェッジウッドのワイルドストロベリー。  それでもやはりこの柄は、ミドリさんに良く似合ってる。  ゆっくり、ひと口。  そして眉根がキュっと潜まる。 「……苦い……」  けれど、カップは戻らない。  もう一口が、ゆっくり喉へと落される。 「でも……少しだけわかった気がする。 みんなが、これを飲みたがる理由」  ふう、と深い、深い息。  「多分、これが美味しいってことなんだね」  それは、問いではなく答え。  最大限の敬意を払い、私もまた心からの答えを返す。 「はい、おそらく」 <了>