『冬来たりなば』
「はい、どうぞ」
私が勧めたカップを、少女は恐る恐るあおる。
すぐに精一杯のしかめっ面になって、少女はカップを置いた。
「……苦い……」
私はその様につい頬を緩める。初めて飲んだコーヒーに対して、実に素直な感想だと
思う。
「それは人生の味と香り、ですからね」
「大人になれば美味しくなるものなの?」
まだ眉を顰めたままの少女に、私は微笑んだまま言う。
「はい、おそらく」
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ふぅ、と大きなため息をひとつ。
それで決心がついた。
結論に至るまでに長い長い時間がかかった。でも、その時間は無駄ではなかった、と
信じたい。
決心して、ふっと肩が軽くなった気がした。
「私も、年を取ったということ、ですかね……」
つぶやいた言葉が虚空に消えるのを、なんとなく見守る。
この半世紀、分不相応に充実した日々だったと思う。たくさんの人に出会え、
たくさんの元気と勇気を頂いた。
それもこれも、彼女との約束があったから。
それも、今日、あと数時間で終わる。
からん、と入り口のドアベルが鳴った。
「いらっしゃ……」
「いつもの!」
私の言葉を遮って注文が飛ぶ。
冷たい外気と共に入ってきたのは、長い黒髪の少女。足早にカウンターに近づき、
私のすぐ前に座った。厚いコートを脱ぎ捨てると、近所の女子高の制服があらわに
なる。
「かしこまりました」
私は苦笑しながらホットココアの用意。
それがいつもの光景。夕刻、ちょうど客が途切れる頃、少女はこの喫茶店にやって
きて、ホットココアを一つ注文し、少し世間話をして、小一時間程で去っていく。
そんな毎日が、もう何年も続いていた。
いつもは元気な少女は、しかしここ数日、いつになく沈んでいた。気の強そうな
眉も、いつもの覇気を失っているようだ。今日も殆ど私と目を合わせようとはせず、
ただじっと、カウンターの丸椅子の上で、ホットココアが出てくるのを待っている。
程よく暖房が効いた店内に、客は誰も居ない。私と少女のふたりきり。
かつては近所の紳士淑女でにぎわったこの喫茶店も、時代の変化と寄る年波には
勝てず、ここ十年程は、かつての賑わいを取り戻すことはついぞなかった。
煤けたテーブルや椅子を指して、少女は『それがいいのよ』と言ってくれたが、
老体の目から見ても、それらにはそろそろ引退の文字が見え隠れしている。
「今日はこの冬一番の冷え込みだそうですよ──はい、どうぞ」
たっぷりミルクと、ほんの少しだけシナモンを散らしたホットココアを少女の前に
置く。猫舌のこの子のために、温度は少し控えめに。
少女はそれを両手に取って、暫し冷えた掌を暖める。それから、ちびり、と一口だけ
飲んで、カウンターの上に両手を戻す。
そうして、しばらく、そのまま。
立ち上る湯気が少なくなってくるまで、少女は黙ったままだった。
私も、それをなんとなく見やりながら、いつものようにグラスの曇り取りのための
手を動かす。もはやそうすることに意味など無いことを知りながら。
きゅ、きゅ、と目の細かい布がグラスを撫でる小さな音が響く。
「──マスター、」
少女──ミドリさんは、顔を挙げ、神妙な眼差しで私を見た。
「はい」
私は手を止めず答える。
「今日で最後だね」
「そう、ですね」
「サクラ……さん、くるといいね」
「そうですね、来て下さるとよいのですが」
そんな短い会話の後は、また沈黙が周囲を包む。
そう、今日はこの店の最後の営業日。
一世紀近く続いた店の歴史は、今日をもって終わる。それ自体は随分前に決めた
ことだ。
ただ一つ心残りは、サクラさんにお会いできなかったこと。それだけだ。
柱時計が時を刻むコツコツという音が、やけに大きく響く。
「──サクラさんの話、」
沈黙に耐えられなくなったのか、またミドリさんは口を開いた。
「サクラさんの話、聞かせて」
話題は何でもいい、静寂さえ破れれば。そういった趣きで、少女はそんなことを
言った。
「もう何度もお話ししたでしょう」
「いいの、もう一度、最後にもう一度、聞かせて欲しいの」
懇願するような少女の目に、つい私も気圧されてしまう。
「──仕方ありませんね、では、もう一度だけ──」
私は少しだけため息をついて、煤けた天井を見上げた。
そうして、思い出すように、ぽつり、ぽつりと言葉をつむぐ。
それは、もう半世紀も前のお話──。
私とサクラさんが出会ったのは、私がこの喫茶店で丁稚を始めたすぐ後のこと
でした。だから、私が十八の時ですか。
この店は以前は随分な繁盛店でしてね。しかも周囲は高級住宅街、昼下がりにも
なると、御婦人やそのご子息が集い、笑顔が飛び交っていました。小さな社交場
だったのですよ。
そんな中に一人、とてもさびしげな顔をしたお嬢さんがいらっしゃって。
聞けば、この店で大切なブローチを落として無くしたと仰る。
その方が、サクラさんでした。小柄で長い黒髪の美しい少女で、私よりは少し
年下のようでした、気品のある方でしたねぇ。
その目があんまりに悲しそうだったから、つい私も男意地を出してしまって。明日
までに探し出すから、明日もう一度来て下さい、って言ったんです。
それからはもう仕事そっちのけで、マスター……ああ、当時の、ですね、
マスターに叱られながら、必死で探したんですよ。床を這いずり、ごみ箱を漁り、
店の隅々、机と椅子をひっくり返してまでね。
なぜそんなことをしたかって? それはよくわかりません。でも、サクラさんの
悲しい顔を見ていると、とても胸が痛みました。それで、ついついがんばって
しまったんですよ。今から思えば、多少は下心もあったのかもしれませんね。
ところが、一日では見つからなくて、また翌日、また翌日と約束を伸ばして頂いて。
それでもサクラさんは毎日、必ず夕刻、いまくらいの時間にこちらにいらっしゃった
んです。喫茶店が一番暇な時間だろうから、と。
私が申し訳なさそうな顔をすると、会釈されるんですよ。そうして、
「もうよいのですよ、お時間をとらせてしまい申し訳ありません」なんて仰るん
です。そのお顔がまた儚げで、つい私も「必ず見つけます」なんて見栄を張って
しまいましてね。
そうして一週間して、やっと床板の木目の間に挟まっていた小さなブローチを
見つけた時は、嬉しかったですねぇ。お返しした時のサクラさんの笑顔は、今でも
忘れません。
それで終わりだと思っていましたら、サクラさんはそれからもずっと毎日この店へ
通い続けてくれました。お礼を兼ねて、と仰って。それで、仕事の合間を縫って
お話を続けるうち、だんだんと惹かれあうようになって……そうですね、
恋仲というやつですね、いや、お恥ずかしいことです。
けれでも、時代が時代でしたからね、丁稚と良家の子女とでは身分が違いすぎ
ました。やがて私たちの仲に気づいた周囲からの圧力で、サクラさんが来店
される頻度は減っていきました。思えば、サクラさん自身も葛藤されていたので
しょう。ご両親からしてみれば、身の程知らずの若造に愛娘を誑かされている
のですから。それもあってか、私自身、素性の悪い男たちから嫌がらせを
受けるようになりまして。
ただ、私はそれでもよかったのです。サクラさんとお会いすることができれば。
しかし、最後にお話しした時、サクラさんはこう仰いました。
『しばらく会うのは止めましょう。ほとぼりが冷めた頃に、また、このお店で──』
その時の悲しげな目を、私は忘れることができません。
「……それから?」
ミドリさんは真剣な目で私を見る。
「それきりです。私はここで働きながらサクラさんを待ち続けています。
いつのまにか私はマスターになっていましたが、結局、サクラさんが来店されることは
ありませんでした」
私は淡々と話を終えた。
ひどくさばさばとした気分だった。確かに、こうして話をして、私自身、心の内が
整理できたような気がする。
ミドリさんは視線を落とす。何か物悲しいものを胸につまらせたような、ほの暗い
表情で。
「マスターは、……サクラさんのことが好きじゃなかったの? こっちから会いに
行こうとは思わなかったの?」
「大好きでしたよ。そうでなければここでこうやって喫茶店を続けることはなかった
でしょう。ただ……」
「ただ?」
「私は彼女の重荷になりたくなかった。きっとそれは彼女も同じだったのでしょう」
ふ、と洩らした微笑みは、自嘲的に見えたかもしれない。
「さて、──そろそろ閉店にしましょう」
意を決して私は言う。
「あなたが最後のお客様で、よかった」
その言葉に、ミドリさんはこちらを見上げた。
「サクラさんは……どうするの?」
「もう──、サクラさんがこちらにいらっしゃることはないでしょう」
「そうとは限らないじゃない!」
少女はカウンターから立ち上がって私を見る。真摯な瞳だ、と思った。
暫く私を見つめた後、少女は再び、弱々しく椅子に腰を落とす。
「諦めちゃうの……?」
「いいえ、諦めるわけではありません。しかし、私は年を取りすぎました。潮時
なのですよ」
「そんな……」
少女はぽろぽろと涙をこぼす。
「ああ、泣かないで下さい、ミドリさん。あなたが悲しむことはありません」
私はその頭に優しく手を置いた。いつのまにか節くれだった自分の指が、
少女の美しい濡羽色の髪と対照的で、それが少しだけ悲しい。
「あなたは本当にお優しい。でも、気にしないで下さい。これは私の、私だけの
問題なんですから」
意を決したように、少女はこちらを見上げる。
「私……私は、ここのホットココアが好き。マスターとお話しするのが好き」
それは多分、少女の心からの言葉なのだろう。
「ありがとうございます、光栄です」
「だから、……」
私はゆっくりと首を横に振る。
「物事には始まりがあるように、必ず終わりもあります。このお話は、この店は、
ここで幕を引くべきなのです」
「……」
じっと考えるように。少女は下を向いたまま。
「さ、お帰りなさい。外はもう暗い。おうちの方も心配しておられるでしょう」
私が声をかけると、少女はまた私を見た。逡巡するように、目が泳ぐ。
それから、少女は視線を逸らす。
また一度目を合わせて、もう一度思い直すように下を向く。
そして、私に目を合わせることなく、呟くように。
「──本当は……、本当はね、私……」
「言わなくていいんですよ」
私はその言葉を途中で遮った。少女のまっすぐな瞳が、また私を捉える。
「……言わなきゃ、いけないの。マスターに、伝えなきゃいけないことが──」
「いいえ」
私は微笑む。そしてもう一度。
「存じています。言わなくて、いいんですよ」
そう、私は知っている。
本当は、この少女がサクラさんを知っていることを。
本当は、少女の胸のブローチが、あの時のサクラさんのものであることを。
本当は、もうサクラさんはこの世にいないことを。
本当は、サクラさんは、この少女の祖母であることを。
初めてサクラさんのことを話した時、少女は大粒の涙を流して泣いてくれた。
『サクラさんを待とうよ! 必ず来てくれるよ!』と言ってくれた。
それは、この子の優しい、優しい嘘。
この老いぼれが失望しないように、希望を持って店を続けられるように。
だから、私も彼女を傷つけないように、今までそれに乗ってきた。
この嘘が罪だというなら、きっと私も同罪だ。
「──ひとつ、告白してもいいですか?」
私からの言葉に、ミドリさんはまた顔を上げた。
「──なに?」
「実は、……あなたを初めて見た時、サクラさんがやってきたと思ったんですよ」
ミドリさんの肩がぴくりと動いた。
「背丈も体格も、お顔の雰囲気もとてもよく似ていらしたものですから」
本当に、そう思った。サクラさんが来てくれたものかと。冷静に考えれば、
あれから何十年も経っているのだから、当時と同じ姿のままということは絶対に
ないはずなのに。
「そう、なんだ……」
ミドリさんは再び顔を伏せる。その顔には、悲しみとは違う、はにかむ
ような笑みが浮かんでいた。
「今まで、ありがとうございます、ミドリさん」
私は深々と頭を下げる。
「ミドリさんが居たから、この店を続けることができました。
本当は、ずっと前に畳むつもりだったのです。今日まで店を続けることが
できたのは、あなたのおかげです。だから、本当に、ありがとうございます」
私はポケットから小さなハンカチを取り出し、差し出す。ミドリさんはそれで
頬に残った涙の跡を拭いた。
「それに、店は閉めても、私はいつでもこの二階に居ます。ホットココアが飲みたく
なったら、またいつでもいらっしゃい。次からは、旧知の友人として、
うんと濃いのでおもてなししますよ」
その言葉に、少女は泣きながら笑った。
その笑顔もまた、サクラさんに似ている、と思った。
「──じゃぁ…じゃぁ、ね、最後に……」
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「はい、どうぞ」
私が勧めたカップを、少女は恐る恐るあおる。
すぐに精一杯のしかめっ面になって、少女はカップを置いた。
「……やっぱり、苦い……」
私はその様につい頬を緩める。人生二度目のコーヒーに対して、これも素直な
感想だと思う。
「それは人生の……」
「人生の味と香り、でしょ?」
少女は少し微笑んで。
「多分、これが、『美味しい』ってことなんだね」
その呟きに、私も微笑んだまま答える。
「はい、おそらく」
<了>