三十年目の再会 作:GoShu   --------------------  その喫茶店は、大きな公園の前にあった。  開店が35年前、ということだから、もう老舗といっていい。  それほど大きくはなく、二十人ほど入れば一杯の店。  ある日の朝、窓際の席。  マスターは「予約席」の札をテーブルに置いた。  制服姿で奥から出てきたウェイターの佐藤佑介は、大きな目を見開いてその札をじっと見てからマスターに尋ねた。 「なんですか、アレ?」  佑介は大学を2年留年している24歳である。ぶらぶらしながら漫画を描いたりしているうちにそうなってしまったのだという。なんでも佑介の漫画は「イベントではそこそこ有名」なのだそうだ。  普段は茶髪に派手な原色のシャツを着ながら金色の懐中時計を使っていたりと、ファッションの美学も独特なのだが、全体としてマスターは彼を好青年とみなしている。  マスターもその札をもう一度見やって答えた。「今日、古い客が来る予定なんだ」 「……へえ。おれの知らない人ですか?」  マスターにねだって雇ってもらったのは3ヶ月前だが、その前、大学に入った年から佑介はこの店の常連である。 「ああ。なんたって僕も知らないんだからね」 「え?」 「前田さんの代の常連さんさ」  今のマスターは二代目で、前田さんというのは先代のマスターだ。老齢で体を悪くして、10年前に今のマスターに店を譲ったと佑介は聞いていた。 「へえ、じゃ、すごく前じゃないですか。そんな人が予約を入れてきたんですか」 「予約を入れていた、というべきかな。なにしろ三十年前からの予約だから」 「三十年前!?」  カラン。さえぎるようにドアに付けたベルが鳴る。 「あ、いらっしゃいませ!」  開店早々の店に客が何人か入ってきて、佑介はそちらへ向き直る。接客の合間を縫って、佑介はマスターに続きを聞いた。 「さっきの話ですけど、どういうことですか、三十年前って」 「僕もよくは知らないんだがね」  マスターはコーヒーを淹れながらちょっと眉根にしわを寄せた。 「三十年前に、今日になったらあの席で会おうと言っていた人がいたらしいんだ」 「三十年前に、今日になったらですか……へええええ」 「で、前田さんから店を譲り受けるとき、当日にはあの席を予約にしてくれって頼まれたんだよ」 「へぇーロマンチックですね。それやっぱり別れた元恋人とかなんですか?」 「ああ、男性と女性だと聞いてるね」 「ぉおー」  カラン。佑介が色めき立っていると、常連の笹木真理絵が店に入ってきてマスターに声をかけた。 「おはようございますー」 「おはよう。あれ、今日はまた早いね。それにすっきりした顔してるし」 「そうですかね」  マスターの言葉に、真理絵は苦笑して答える。  真理絵も大学生だが、こちらは佑介と違って実直に学生生活を送り、今は食品会社に就職も決めている。とはいえ朝に弱いところがあり、ボヤッとした雰囲気で現れるのが常だった。 「たしかに、いつもみたいに寝ぼけて『うーす』じゃない」  佑介がそっぽを向いて言うと、真理絵もふん、という顔をしてそっぽを向く。この二人、あまり仲はよろしくない。とはいえ、いつもはこの手の言葉に「知ったことか」くらいのことは言い返すので、今日は少しましとも言える。  ただ、真理絵もただまじめな学生というわけではない。趣味で小説を書いていて(本人は仔犬のようなかわいらしい風貌なのだが、書くものはホラー小説だ)、新人賞の最終予選に残ったこともある。  だからこの二人には共通するものもあるので、互いの作品を読みあってああだこうだと言っている光景もたまに見かける。 「いつものでいいの?」  マスターの問いに真理絵はうなずく。そしてふと窓際のテーブルの札に目を止める。 「なんですか?あれ」 「三十年前の恋人同士が今日再会するんだと」佑介が皿を拭きながら答える。そしてちらりと札に視線を走らせる。 「えー?なにそれ」  マスターが説明をもう一度繰り返すと、真理絵は目を光らせた。 「それで、いつ来るの?」  マスターは肩をすくめた。 「それはわからないんだ。まあ、朝から来ることはないと思うがね」 「本当にそんなことがあるんだな……それは見逃せない」  真理絵はそうつぶやくと、決然とマスターに向き直った。 「マスター、その二人が来るまで、ここにいさせてくれない?」 「ええ?ははは、さすが祐里伊先生。やっぱり興味ある?」マスターが言った。祐里伊……華祐里伊(はな・ゆりい)というのは真理絵のペンネームで、ホラーとのギャップがある名前をわざと付けたということだ。 「あたりまえです」そこで真理絵は少し口をつぐんでちらっと佑介に視線を飛ばし、はっきりした声で続けた。「あたしもモノカキのはしくれですからね。こんな場面が目の前にあるのに、はいそうですかさよなら、なんていうわけにはいかない。ねえマスター、いいでしょ」  マスターは苦笑して「わかったよ、真理絵くんの勉強にもなるだろうしね。この場の証人にもふさわしいだろう」 「ありがとう!マスター」真理絵は大きな声で言って、目を輝かせて続けた。「ねえ、他になにかその二人のことでわかってることはないの?」 「そうだねえ。僕も前田さんから聞いたことはあまりないんだけど……」  少し目を細めて宙を見つめ、思い出すように言った。 「よくここに来てたお客さんだったらしいよ。二人で仕事の話をよくしていたそうだ」窓の外で風に枝をゆらがせる公園のケヤキにマスターは目をやる。「あの公園を作る県のプロジェクトチームに二人ともいたらしい。言い争いもしょっちゅうだったが、いつも仲はよかった……」マスターはそこで言葉を切った。有線のクラシックが店内を流れ、そのまま時間が経つ。 「それで?」しびれを切らした佑介が言った。 「『それで?』。ぼくも前田さんにそう言ったんだけどね。前田さん、それ以上は何も言わなかった。ただ笑ってるだけでね。それで『まあ、いろいろあったということさ。じゃ、その日には頼むよ。あの窓際の席だ』と」  佑介が懐中時計の金鎖をもてあそびながら誰にともなくつぶやいた。「若気の至りで別れることになったが、もしまた会えたら、そのときはまた違った気持ちで話ができるかもしれない。……そんなとこでしょうかね」  真理絵は横目でしばらく佑介を見ていたが、ぼそりと「あんたも時には気のきいたこと言うのね」と言った。  普段の佑介なら何か言い返すところだが、今日はフンと鼻を鳴らし、肩をすくめて「そりゃあそうさ」とだけ言った。 「最後に座っていたのがあの席らしい。で、三十年目の五月三十一日が今日というわけ」 「ふーん」そう言って、その後は佑介も真理絵は黙りこんで、じっと窓際の席を見つめた。  それからずっと、佑介も真理絵も、気もそぞろという様子で入ってくる客を見ていた。  しかし、昼になっても問題の人物は現れなかった。  そのかわりに、この近くで働いている佑介の友人が来た。 「おい佐藤!」と佑介を捕まえ、なんだかんだとしゃべっている。その間、マスターと真理絵がいるほうをちらちらと盗み見ていた。 「もういいって。おまえ邪魔。塩まかれないうちにお帰んなさい」佑介がそう言うのがマスターと真理絵に聞こえてきた。  友人は舌打ちして席を蹴ってレジに向かった。支払いのとき、マスターの耳元に口を寄せてささやいた。「佐藤と真理絵ちゃん、今日なにかありました?」 「え?」思わぬ言葉にマスターは意外な顔をして答えた。「なにもないと思うけどね。いつもと同じだよ」 「そうですか……実は」 「早く帰れって」  刺すような佑介の言葉に友人は「じゃ、また今度」とだけ言って、店を出て行った。 「来るのかな」  昼休みの客が引いていった後、真理絵がつぶやいた。佑介も席をまた見やった。  混んだ時間帯にも、その席はずっと座るものがないままだった。  それらしい年代の男女が入ってくることもあった。しかし、彼らは窓際のテーブルにはなんの興味も示さず、別の席に屈託なく座り、お茶を飲んで出ていくのだった。 「まあ、三十年前のことだ。長い時間だよ……来られないこともあるだろう……僕たちは待つだけさ」  佑介と真理絵は、マスターの「来られないこともあるだろう」の中に「来たくないこともあるだろう」「忘れてしまうこともあるだろう」の含みを聞きとったのだろう、反論するように口を開きかけた。が、言葉にはせずそのまま口をつぐんだ。  カラン。また、50代であろう女性が一人で店に入ってくる。真理絵は女性を見るが、溜息をついて手元の本に目を落とす。佑介は「いらっしゃいませ」と緊張した面持ちで迎えるが、窓際の席を一瞥もせず、そのままカウンターに座るのを見て肩を落とした。  日が落ちた。  カラン。それらしい年代の男性が店に入ってきた。真理絵はそれを見て緊張して目で追う。佑介は口の端を少しだけ曲げ、それから「いらっしゃいませ」と言った。店内に進んできた男性は、窓際の札を見ると、ぴたりと足を止めた。  がたり。真理絵の座る椅子が、小さな音を立てた。 「あの……何か」と問う佑介に「少しだけの時間だから、あの席はだめですか」と男性は答える。マスターと真理絵が緊張して見つめる中、佑介は二人を振り返り、「どうしましょう?」と、緊張感に欠けるように見える態度で言葉を掛けた。  思わず叫ぼうと口を開けた真理絵よりも早く、マスターが落ち着いた声で言った。 「もしかして、お客様がその席を予約しておられたのではないですか?」 「え?いや、それは違います」 「そうですか……そこでお連れ様と待ち合わせではない?」 「ええ、違います」 「そうですか……わかりました。それでは、どうぞお掛けください。予約の方が来られたら、こちらのカウンターに移っていただくかもしれませんが」 「はい、それは構いませんよ」  がっくりと肩を落としつつも、真理絵はまだ、窓外を見つめてコーヒーを飲む男性をちらちらと見ていた。  しかし男性は、コーヒーを飲み終えると、「すみませんね、あの席からの眺めがいいもので」という言葉を残し、支払いをすませてあっけなく立ち去ってしまった。  7時50分。閉店間際の店はもう3人の他には誰もいなかった。  カラン。ドアが開いた。  マスター、佑介、真理絵の三人はぱっとそちらを見たが、入ってきたのはよく知った顔で、昼間来たのとは別の佑介の友人だった。佑介は露骨に嫌な顔をした。  今度の友人は昼間の友人より少し声が大きかったので、佑介との会話がマスターにも聞こえてきた。 「ちゃんと謝ったんだろうな」 「大きなお世話だ」 「お前彼女がどうでもいいのか。誰だってはずみでひどいことを言うことはあるよ。でもちゃんと謝ればいいだけのことじゃないか」  佑介はイライラした態度で言った。「もういいよ」その後は、友人の席から離れて店のドアを見詰めた。  友人は、はあ、と息を吐き、支払いに立つ前に真理絵の前に立った。真理絵は小さく、どうも、と会釈する。 「俺は華祐里伊の小説は面白いと思ってるよ。アイツだってそう思ってる。でも先に欠点をどうこう言っちまうんだ。そこのところはわかってやってくれ。あいつだってこんなことで……」 「うるさいな、今日はお前は場違いだよ。大事な日なんだ、今日はもう帰れ」 「ありがとう」小さな声で真理絵が言った。友人は支払いを済ませて、真理絵に小さく手を振って帰っ行った。  3人しかいなくなると、店内にはクラシック音楽だけがぎこちなく残った。  マスターは二人の顔を見たが、二人は視線を合わせていなかった。小さく首を振って溜息をつくと、何も言わずに仕事に戻った。  閉店時間の8時になった。  佑介はがっくりと肩を落とし、はぁ、と溜息をついた。真理絵はマスターに言った。 「……来ませんでしたね」 「そうだな。でも今日はもう少し店を開けておこう。そうだね、10時くらいまでは」 「「ありがとうございます」」佑介と真理絵が同時にそう言って、顔を見合わせた。マスターはそれを見てくすりと笑い、声をかけた。「どうだい、おごりだ、二人ともなんか飲むかい」 「あ、いえ……あ、でも、ありがとうございます。アイスコーヒーを」 「真理絵ちゃんは」 「え、あたしは……ありがとうございます。レモンティーを」 「了解」  レモンティーの匂いが流れる中で、誰もなにも言わない時間が過ぎた。30分ほど経ったころ、佑介がぼそりとつぶやいた。 「やっぱり無理なのか。三十年も前の約束だもんな」  また10分ほどの間を置いて、また佑介がつぶやいた。 「真理絵ちゃん。この前言ったことだけど」  真理絵は振り向かず、言葉をさえぎるように席を立って、うーん、と腰を伸ばした。 「ずっと座っていると腰が痛くなっちゃった。お手洗い行ってくる」  そして髪をなびかせて洗面所の中に消えた。  佑介はその後ろ姿を目で追い、口を開きかけたが、力なく閉じた。  そのとき。  カラン。  入口のベルが鳴った。  そして、五十代と思われる美しい女性がドアから姿を現した。  佑介はばっと身を乗り出し、食い入るように女性の顔を見詰めた。マスターがすっと目を細めて答えた。 「もう閉店なのですが……あなたは」  女性は入口に立ったまま、窓際の席にぽつんと置かれた「予約席」の札にちらりと目を走らせた。そしてにっこりと笑って言った。「席を取っておいてくださったんですね。ありがとうございます」 「ではあなたが!」佑介が叫んだ。 「……ようこそ。そちらがお席になります」マスターはつつましく言った。「……お連れの方はまだおいででないですが、もうしばらくお待ちしようと思っています」  女性は微笑んだ。そして、席をもう一度見やって、なぜかそこには座ろうとせず、カウンターに近づいてきた。そしてもう一度微笑んで言った。 「あそこは私の席ではありません」そう言ってカウンターに座り、言葉を継いだ。「相手の男性の方は来られません」 「なぜです」マスターが小さく、鋭く言った。 「四年前に亡くなられたからです」  マスターは目を細め、佑介は目をみはった。 「そうだったのですか。それをご存じだったのですね」 「はい」  女性は小さく微笑んだ。 「その男性は都市デザインをなさっておられました。誰でも知っている有名人というわけではありませんでしたが、知ろうとすれば消息を知ることは簡単でしたから」 「……」佑介は黙り込んだ。 「そして、女性のほうも来られません。こちらも先年亡くなりましたので」 「……!」  マスターと佑介が衝撃を受けていると、後ろで声がした。 「叔母さん!」  そこには、茫然と真理絵が立ちすくんでいた。 「真理絵ちゃん……あなたここにいたの」女性は驚いた顔をして言った  そして、下を向いて黙り込む真理絵に、女性はふっと微笑んで言った。 「ご挨拶をしなきゃいけないと思ってね。でもあなたが来てるんだったら」 「どういうことだ」佑介が鋭く聞いた。真理絵は佑介に向き直った。「三十年前に約束をした一人、笹木みづき……広江みづきはあたしのお母さん。……三年前に亡くなった」 「なんだって」佑介はつぶやいた。 「……どうして黙ってたの」マスターが言った。 「どうって……」真理絵は下を向いて言い淀んだ。「理由はうまく言えませんけど……台なしにするのがいやだったのかな……黙っていれば、本当に二人が来るような気もした……」  マスターは小さく首を振った。真理絵は顔を上げて、叔母である女性に向き直った。 「さっき、相手の男の人も亡くなったって聞こえたけど……それ本当?」  うなずいた女性が口を開くより先に、佑介が言った。「本当さ」  3人の視線が集まるなかで、佑介は金色の懐中時計を取りだし、鎖を持ってぶらぶらと揺らした。 「これは親父の形見です。ここに来るはずだったもう一人、佐藤裕孝はおれの親父です」  しばらく誰も口をきかない時間が過ぎた後、マスターは脱力したように言った。「佐藤さんと広江さん、という名前は聞いてたんだ。しかしまさか君たちとはね」そして首を振ってつぶやいた。「ずっとおかしいと思ってたんだ。君は女性にしか、真理絵くんは男性にしか注目してなかった」 「すみません」佑介が言った。「おれも、本当に簡単な内容しか聞いてなかったんです。親父が酔ったときにしゃべった内容しか知らなかったんで」真理絵も同じような状況だったのだろう、小さく何度かうなずいた。  女性はその様子を目を細めて見ていたが、バッグから何かを取りだした。 「あ、それ……」真理絵の言葉に女性は微笑んだ。 「持ってきたの。姉さんが使ってたブローチ」  叔母に差し出されたブローチを、真理絵はおずおずと受け取った。 「これは天の配剤ね。今日のあそこには、あなたがた二人が座るべきよ」  清楚な横顔が刻まれたカメオのブローチ。手の中のそれをしばらくじっと見つめた後、真理絵は顔を上げて何か言おうとしかけた……しかしそのとき自分を見つめる佑介と目が合った。  しばらくの間があったが、佑介は視線を離すと席の方へ歩いて行った。  そして、ややあって真理絵も席に向かった。  向い合いに座った二人は、しばらくの時間何も言わず、暗い窓の外を眺めていた。  そして、女性とマスターには聞こえない声で、佑介が何かを真理絵に話しかけた。  それからぼつぼつと、相手の言葉への返答にそれぞれ長い間を取りながら、二人の間に何かの会話が交わされた。  その会話の中には、佑介から真理絵への謝罪も、それ以外のことも含まれていたようだった。  いつまでも続くかと思われたとぎれとぎれの会話もやがて途絶えた。  最後に二人はもう一度、無言で窓の外に顔を向けた。  カウンターで女性とともにその様子を見ていたマスターも首を回し、昔の二人が作ったという窓の外の公園に目を移す。  真っ暗な中に、街灯に照らされ、大きなケヤキの葉がきらきらと妙に白く反射しているのが見えた。  視線を店内に戻すと、窓際の席の二人は、もう窓の外を見てはいなかった。  懐中時計とブローチが置かれたテーブルを挟んで、恋人同士の二人は、じっと相手を見つめていたのだった。