「リライティング」 進行豹 デビューできたら、告白しようと思ってた。 一年上の先輩で。 とても綺麗な指先を、 アクリルガッシュでいつも汚して。 いつも食べ物をぽろぽろこぼして、 制服の胸のリボンを絶対まっすぐ結べなくって。 ひどく不器用で危なっかしくて、 どこかズレていてテンポが悪くて―― だけど、花歩さんはとても繊細な絵を描いた。 自分の絵本を、世界のみんなに読んで欲しいと、 花歩さんは照れず、夢を語って。 いつからか、それは僕にも伝染し、 ふたりの夢へと変っていった。 多分、そのころ、僕は花歩さんに恋をした。 それからずっと、僕は花歩さんが大好きだった。 だから。夢を少しでも叶えられたら―― デビューできたら、告白しようと思ってた。 +     +     + 「……月刊『レムリア』の、笹井さんですか」  受け取る名刺の左隅には、六芒星が輝いている。  なるほど、いかにもオカルト雑誌だ。 「はい。お時間をありがとうございます」    月刊レムリア編集長 笹井明憲。    やせぎすの、四十がらみの男。  いわゆる、“業界の有名人”だ。  新進気鋭の純文作家・黛後肢。  時代小説の大家・佐々岡周居。  果てはノーベル文学賞受賞者・小柄純。  編集者ならよだれを垂らすその面々が、 そろいもそろって、よりにもよって、 “純オカルト誌”たるレムリアに寄稿を続けるその裏側には、 笹井というこの編集者の大きな働きがあったらしい、と―― 他の作家やライターと殆ど交流を持つことのない、私のような人間でさえ、 風の噂に聞いている。  が――だ。私には、ネームバリューも何もない。 「……その笹井さんが、一体、どうして私のところに? ひょっとして、ミステリ作家の高桐浩二先生とお間違えでは?」 「いえ、高藤光司先生。自分が原稿依頼申し上げますのは、 間違いなく、今をときめくサイエンスライターであるあなたです」 「はぁ」  否定するのもイヤらしいから、やむなく頷く。  が――今をときめいた記憶なぞない。   「『生命工学 -物と命と環境と-』は、名著ですな。 自分のような門外漢にも、生命工学というものの面白さがスっと理解できました」 「そういっていただけるのは光栄です」  人違いではないらしい。  自分の本を読んでくれてる――単純だけれど、とても嬉しいアプローチだ。  しかし――  Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.  十分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。 ――A.C.クラークのこの有名な定義が逆説的に示すように、 オカルトと科学とはやはり、水と油だ。 「念のため、確認します。月刊レムリアといえば、オカルト雑誌の代表格ですよね?」 「代表格と申しますか――今となっては、月刊ベースでは唯一の オカルト誌となってしまいましたね。1999年以前は賑やかでしたが」 「そのオカルト雑誌さんが、サイエンスライターである私に、何を書けと?」  問えば、笹井はぶしつけなほどに真直ぐな目で、私を―― いや? 私の……肩のあたり? を見つめてくる。 「『青い本』」 「っ!!!!?」 「と、おっしゃってます。高藤先生と一緒におられる女性の方が」 「何……を……」 唇が乾き、言葉が貼りつく。 ……なんだってんだ。なんでこいつが、青い本なんて言い出すんだ。 オカルト雑誌ってのは、そんなハッタリをかます―― いや、しかし…… 青い本のことなんて、僕と花歩さん以外の誰も、知ってる筈ない。  そうして、僕は――あの日を境に、絵本の道をあきらめた僕は―― そんな話はただの一度も、誰にも話していない……の、に―― 「……高藤先生と自分は、以前にお会いしたことがあるのですが―― 覚えてらっしゃいますか?」 「いや……」  こういう状況に慣れているのか、 笹井は、僕――私の絶句を気にもかけずに、 自分のペースで言葉を重ねる。 「CA社の新年会でした。毎年正月十一日のアレです」  行った、行ってる。  私が唯一、定期連載でのコラムを持たせてもらってる、 『サイエンスライフ』は、CA社の雑誌なのだから。 「何故、レムリアの笹井さんが?」 「買収というヤツですよ。出版元の日研パブリッシングが、CA社に――」 「そういえば。……二年前でしたか」 「そうです。二年前の十一月にレムリアはCA社の雑誌となり。 その次の正月十一日に、私は初めて高藤先生をお見かけしました。 ……そこで、聞こえて来たんです」  五秒、十秒。笹井が沈黙を挟みこむ。  『何が』と聞こうとした瞬間に、静かな声が鼓膜を揺する。 「先生のお連れさんの、小さな願いが」 「……連れ、って」  ダメだ。  “こういう手”だとは感じてるのに、引きずられずにいられない。  余計な情報を漏らさぬように気をつけながらも、それでも答えを求めてしまう。 「僕はあの時――いや、どんなパーティだって一人で」 「あの時も、今も。先生はおひとりじゃありません」 「っ!!?」 「とても穏やかな方だ。かほさん、ですか?」 「どこで花歩さんのことをっ!!!!」  気づけば、椅子を蹴っている。 「どこでもなにも、ですから、あのパーティでですよ。 それと、今、ここでですね」  胸倉を掴み揺さぶって―― けれど笹井は顔色一つ変えはしない。 「聞こえてくるんですよ。ささやくような小さな願いが。 『たかとーくんと青い本、一緒に作れたらいいのにな』――と。 その想いだけが、とても静かに…… いえ、今となっては“か細く”、というべきですか」 「たかとーくん……って」  口真似。花歩さんの喋り方。  『高藤君』と僕を呼ぶ声が、甘えたときだけ、ふうわり『たかとーくん』になる。  そんな違い、僕の他には誰も気にしてなかったろうし―― 例えそのとき気づいてたとして、今の今まで覚えてるとか……ないだろう。 「どうして……」  だから、聞く。 「どうして、花歩さんは ―― 今、ここにいるってんなら、なんで僕には」 「“願い”だけしか遺してらっしゃらないからでしょう」 「え?」 「“遺る”方々は、普通、それは強い情念に凝り固まってらっしゃるんです。 あるいは恨み、あるいは憎しみ、あるいは情欲、あるいは後悔……そうした念で」 「…………」 「けれど、かほさんは――亡くなったことには納得されてる。 “自らの死”そのものを嘆いているというわけではない」  ……受け入れられるもの、なんだろうか。  あんな突然の――本当に突然だった病死のことを。    ああ……いや……ひょっとしたなら。  花歩さんは、自分が病気と感づいてたか、知っていたかで―― それを隠して、覚悟して日々を送ってたのかもしれない。 「受け入れた上でただ、ひとつことだけを願ってる。 それは純粋で濁りを持たず――だからとても見つけづらい」 「花歩さんの……願い」  つぶやけば途端、記憶の底から言葉が浮かぶ。  『青い本』――それを作ってみたいと、確かに花歩さんは願ってた。 「……『青い本』を作れなかったから…… 花歩さんは悲しんでいるんですか?」 「作れなかった? いえ……そうは聞こえません。 『一緒に作りたい』と、かほさんは、ただそれだけを願っているように感じます」 「一緒に……ですか。今さら……そんなこと出来っこないのに」 「……ふむ」  ぼりっ、と笹井が無精ひげを撫ぜる。 「もし、お差支えなければお聞かせいただけませんか? その、『青い本』とやらの詳細を。 お聞かせいただければ、何かの力になれるかもしれません」 「何かの力? 誰にとっての、ですか?」 「一義的には、かほさんにとっての」 「花歩さんの力? 花歩さんに今さら、どんな力が必要だっていうんです」 「…………」  口を閉ざして、笹井は僕の肩のあたりをじっと見る。  ただじっと―― 悲しむように、憐れむように、痛みに耐えているように。 「……願いが、諦めになりかかっているのかもしれません。 去年お見かけしたときと比べ、今年のかほさんはひどく薄れている」 「薄れっ!!? って――」 「ですから……どうにも放っておけずにお伺いしたわけなんですがね」 「薄れ……が……。進むと?」  無言で、笹井は肩をすくめる。  何も答えぬそれこそ答えと、直感できる――させられる。  ……かほさんが、ただ消えて行く。  叶わない願いを抱え、願うことにさえ疲れてしまい。  そんな結末、あっちゃいけない。  バッドエンドのその先に、追加バッドを迎えるなんてまっぴらだ。   「……僕と花歩さんは、先輩後輩だったんですよ。 高校も、大学も。出会ったのは高校で、僕が大学を追いかけて」  から話す。  心を縛ってた包帯を、そろそろと解いていくように。 「花歩さんは絵描きで、でも美術部じゃなく文芸部に所属してたんです。 絵本作家志望だからって、聞かれるたびに誰にでも嬉しそうに話してました」  嬉しそうな、誇らしげな。  とっておきの秘密をそっと、明かしてくれるみたいなあの口調。 「『絵本だったら、世界中のこどもたちに見てもらえるでしょう?』って。 最初はですから、自己顕示欲の強いバカ女くらいにしか思ってなかったんです」 「ほう?」 「けど――全然、そんなことはなかった」  笹井が頷く。満足そうに。   「花歩さんの目は、どんなつまらない景色の中にも、 ありふれているいつもの中にも、とても綺麗な、キラキラしたものを見つけてて。 そのキラキラが、ほとんどの人には見えてないとも知っていて。 だから、それを見せてあげたい、気づかせてあげたいとひたすら願っていたんです。 本当は、ひっこみ思案で内気な人なのに、その一心でがんばって――」  だから、魅かれた。  同じ景色を、同じ夢を、僕も見たいと強く望んだ。 「――でも、あのひとは舌ったらずで。心に言葉が追いつけなくて。 いつからか、僕が手伝うようになりました。 誰かの知識や感覚を、伝わりやすく翻訳する―― そういう方向に、僕の能力は向いてたらしくて」 「なるほど」 「二人で一緒に絵本を作って―― コンテストに出すようになって、佳作に引っかかって。 初めてついた編集者に言われたんです。 『このままじゃ世には出せない。もう一化けが必要だ』って」  ほぉ、と笹井がため息のような声を漏らす。 「それは……かなりの高評価ですな」 「ですよね。今ならわかります」  たった一化け。  作品全部を歪めてる、たったひとつの欠点を消せば、 一人よがりの作品が、誰かに伝わる力を持てるようになる。  そういう評価を、僕らはもらって―― 「けど、そのときには評価の高さがわからなかった。 単純に全否定されたと思ってしまったんですよ。 だから――八つ当たりしてしまいました。 花歩さんに……僕を初めて認めてくれた、その人に。 『もう一化けって何ですか』 『これ以上、どこを直せばいいんですか』 『足りないとこがあるってんなら、教えてください』って感じで。 詰め寄ることで、本音を引き出そうとした。いや――」  震える、膝が。  ぬらつく汗が滲み出てくる。  ああ、僕はこんなにも―― あのときのことを悔やんでるのか。 「ただ単に、甘えていたんです。 花歩さんなら、僕を全肯定してくれるはずだと思いこんで。 けど、花歩さんは笑いました。 困ったような寂しげな、とても弱々しい笑みで―― その笑みを見て……僕は、不安になったんです」  吐きたい。  泣きたい。  ここから逃げてしまいたい。  けど、見てるなら。  花歩さんがもし、ここで見ていてくれるなら―― 僕は今こそ、贖罪しなくちゃいけなくて。 「花歩さんは、ゆっくり、言葉を探してくれました。 『もう少し、青くてもいいと思う』と、 『飾らずに、そのままの青さをぶつけてみたい』と…… とつとつと、不器用な――それでも僕に伝えるための、精一杯の言葉を」  けれど、僕は心を閉ざした。耳を閉ざした。  肯定じゃない言葉なら、全てを批判と――僕を否定する言葉なんだと思いこみ。 「僕は……思いきり反発しました。 『そんなの、花歩さんの仕事でしょう』って、 『青い絵の具が足りないんなら、ケチらず買えばいいでしょう』って―― せっかく、花歩さんが見つけた言葉を、受け取りもせずに跳ねつけて」  笹井が、痛ましげに目を伏せる。  心と喉とがイガついて――のろのろとしか、声を出せない。 「衝突――にもならなくて。 でも、それはいつものことだったんです。 僕がヒステリーを起して、花歩さんはただ待っていて、 やがて、気づいた僕が謝る。 それは本当にいつものことで。 だから、そのときも――きっと、そうなるだろうと信じてたんです」  信じてた。いや、疑わなかった。  ほんの僅かな疑いを感じることすらないほどに。  僕は子供で……そうでなければ、幸せだった。 「けれど――花歩さんは次の日部活にこなかった。 次の次の日もこなかった。その次の日もこなかった。 不安になって、ようやく花歩さんに電話して―― そうして、僕は知ったんですよ。花歩さんが入院したことを」  電話に出たのは、硬い声。  花歩さんのおかあさんの、硬く、けれども優しい声。 「大した病気じゃないって聞いて―― なら、退院を待とうと思って。 けど、花歩さんは退院できなかった。 僕は……何一つさえ――しなかった」  笹井が何かを言いかけて、けれどもすぐに唇を結ぶ。  沈黙だけが積み重なる。    ……そうすることが、一番自然なような気がして。  十年ぶりに――僕は“そこ”へと視線を向ける。 「見ますか? そのときの絵本」  一番高い棚の上、花歩さんのものだったカルトンの中。  紐をほどいて、挟まれていた紙を取り出す。  ミューズコットンに、アクリルガッシュ。  花歩さんの絵は、色あせてない。 「ほう」  感嘆の息。  笹井のような百戦錬磨の編集にさえ、それを吐かせる花歩さんの色。 「投稿作なんで、裏面が文章です。鉛筆書きで読みづらいかもしれませんが――」 「いえ、十分に拝読できます」  丁寧に、笹井は紙を繰り換える。  一枚一枚、読み終えるたび僕に原稿を手渡してくる。  ……僕も、読む。  そうしてやっと、確かめる。 「……背伸びを、僕はしてたんですね」  ぎくしゃくとした、余計な飾りで固まった文。 「花歩さんに追いつきたくて、入選という結果を求めて―― 自分のじゃない言葉を借りて、ゴテゴテと化粧している」 「だからこその、一化け?」 「でしょうね。化粧を落とすのも、一化けだ。 いい編集さんだったんですね、あの人……。 そして花歩さんも……もちろんちゃんと見ていてくれた――」  今さら、理解る。  いや、本当はずっと前から理解ってて、 けれど怖くて認められずにいた、その事実をただ確かめる。 「だから、花歩さんはただ“青く”とだけ、望んでくれた。 生の言葉を、本当の言葉をそのまま書けと促してくれた。 青くさくても未熟でも、ひたすら真直ぐぶつけてしまえと―― 花歩さんは……きっと、僕に望んでくれていた。の、に……」  ゆっくりと、笹井が頷く。  ゆっくりと、全てを受け入れるかのように。  薄汚れた中年男の仕草が何故か、懐かしい少女の姿と重なって―― 「っ!」  胸が痛い。呼吸が苦しい。  頭を振って、きつく目を閉じ。  頬に流れる感触を、自己憐憫を消し去りたくて、罪を吐く。 「……僕は…………花歩さんを裏切った」  だから。僕は絵本の世界に背を向けた。 「あの人の信頼を跳ねのけて、 最後の最後に花歩さんを……一人ぼっちにしてしまった」 「ですから」 「っ!!?」  あきれたように、笹井が呟く。 「あなたは、ずっと一人じゃない。今もですし、そのときもです。 同じように、花歩さんも決して一人じゃなかった」 「けどっ!」 「そう、“けれど”。 あなたがそうして止まり続けていたら…… そのときにこそ、本当の別れが来てしまいますよ」 「っ!!」  喉が、鳴る。  唾を勝手に飲みこんでいる。 「け、ど…………」  同じ言葉を繰り返す声は、かすれてる。 「今さら……僕になにができるっていうんですか―― 花歩さんが一緒にいてくれたっていうのに、 その声さえも、一度も聞こうとしなかった僕に」  笹井が僕をまっすぐに見る。 「一緒に、創ればいいんですよ。青い本を」 「一緒にって……だから僕には――っ!?」  言って、ふと――すがるように笹井を見てしまう。 「あの……花歩さんを――そのっ、口寄せみたいなことを例えば」 「いえ、私にはできません」  あっさり、笹井は決めつける。 「仮に出来ても不要です」 「え?」 「なぜならば――あなたは作家だ」 「っ!!!!」  すとん――と、おなかに落ちてくる。  喉の小骨を取り去った、たきたてご飯の固まりのように。  錯覚なのかもしれないけれど。  これは…………花歩さんの温もりだ。 「ああ……そう、か」  一緒に居る。一緒に居た。  この温もりを忘れてしまっていたときにさえ、僕は花歩さんと一緒に居た。  そうしてこの先……花歩さんが望みを満たして、満ち足りたとして。  僕の元から、その魂がどこかに昇っていくのだとしても――  その後だって、僕は花歩さんと一緒に居られる。 「……書けば、いいんだ」  だって――僕は作家だから。  PCを立ちあげエディタを開く。  堰き止めていた想いが溢れ、指を動かす。  解説でも翻訳でもない、僕の言葉――僕と花歩さんとの言葉。  ふたりが過ごした時間の全て、記憶の全てを文字へと変える。  そうして、そこから。  僕は新しく紡いでいける。  どんな未来も、どんな望みも――  物語にして花歩さんと、そこで一緒に歩んでいける。  そうして、いつか、きっと叶える。  花歩さんの夢、僕の夢。  僕らがともに夢見た願いを。 「……………………」  誰かが、ふわりと笑った気がする。  誰かが静かに、部屋を立ち去る気配を感じる。 「――玉稿、楽しみにしています」  何かが聞こえたような気がして、それでも、指は決して止めない。  ここから続く僕らの言葉を、物語を。    ――次の一行を書きつなぐため。 (了)