「リライティング」 進行豹 (リライト担当:achro)


 デビューできたら、告白しようと思ってた。


 一年上の先輩で。
 とても綺麗な指先を、
 アクリルガッシュでいつも汚して。

 いつも食べ物をぽろぽろこぼして、
 制服の胸のリボンを絶対まっすぐ結べなくって。

 ひどく不器用で危なっかしくて、
 どこかズレていてテンポが悪くて――
 だけど、花歩さんはとても繊細な絵を描いた。

 自分の絵本を、世界のみんなに読んで欲しいと、
 花歩さんは照れず、夢を語って。

 いつからか、それは僕にも伝染し、
 ふたりの夢へと変わっていった。

 多分、そのころ、僕は花歩さんに恋をした。
 それからずっと、僕は花歩さんが大好きだった。


 だから。夢を少しでも叶えられたら――
 デビューできたら、告白しようと思ってた。


 +     +     +


「……月刊『レムリア』の笹井さん、ですか」

 受け取る名刺の左隅には、六芒星が輝いている。
 なるほど、いかにもオカルト雑誌だ。

「はい。お時間をありがとうございます」

 月刊レムリア編集長 笹井明憲。
 突然訪ねてきた彼を、いつもの仕事場に通す。
 一見すると冴えない風貌の中年に見えるが、彼はいわゆる"業界の有名人"だ。

   新進気鋭の純文作家・黛後肢。
   時代小説の大家・佐々岡周居。
   果てはノーベル文学賞受賞者・小柄純。

 編集者ならよだれを垂らす面々が揃いも揃って、よりにもよって、
 "純オカルト誌"たるレムリアに寄稿を続けるその裏側には、
 この編集者の大きな働きがある、と。
 他の作家やライターと殆ど交流のない、私のような人間でさえ、風の噂に聞いている。

 しかし――。
 私には、そんな大それたネームバリューはない。

「……笹井さんともあろう方が、どうして私のところに?
 ミステリ作家の高桐浩二先生とお間違えでは」

 聞くと、「いえ」と笹井は首を振る。

「自分が原稿依頼申し上げますのは、間違いなく、
今をときめくサイエンスライターの高藤光司先生、あなたです」

「はあ……」

 否定するのもイヤらしいので頷く。

「『生命工学 ―物と命と環境と―』は、名著ですな。
 自分のような門外漢にも、生命工学というものの面白さがスっと理解できました」

「……そう言っていただけるのは光栄です」

 人違いではないらしい。
 自分の本を読んでくれている――
 単純だけれど、とても嬉しいアプローチだ。

 しかし。

   Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.
   十分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。

 A.C.クラークの有名な定義が逆説的に示すように、
 オカルトと科学とはやはり、水と油だ。

「……念のため、確認します。
 レムリアといえば、オカルト雑誌の代表格ですよね?」

「代表格と申しますか……今では、月刊で唯一のオカルト誌となってしまいましたね」

 苦笑して答える笹井。

「その、オカルト雑誌の方が、"サイエンスライター"の私に、何を書けと?」

 一言ずつ区切って問うと、笹井は一瞬押し黙り。

 ぶしつけなほどに真直ぐな目で、私を……
いや、私の肩のあたりか――? を見つめてくる。

 そして、その瞬間。

「『青い本』」

 空気が、時間が止まったように思えた。

「……な……」

 なぜ、どうして。
 どうして、この男の口からそんな言葉が出てくるんだ。

 僕は――あの日、絵本の道をあきらめた僕は――
ただの一度も、誰にも話していない筈なのに。

「……高藤先生と自分は、以前にもお会いしたことがあるのですが――
覚えてらっしゃいますか?」

「いや……」

 こういう状況に慣れているのか、
笹井は、僕――私の絶句を気にもかけずに、
自分のペースで言葉を重ねる。

「CA社の新年会です、毎年正月十一日の。
そこで初めて高藤先生をお見かけしました。
 ……その時、聞こえて来たんですよ。
先生のお連れさんの、小さな願いが」

「連れ……?
 私はいつも通り、一人だった筈だが」

「あの時も、今も――
先生はおひとりじゃない。
 ほら、そこに」

 笹井が指さした肩の辺りを、思わず目で追ってしまう。

「……とても穏やかな方だ。
 長い黒髪に、大きな優しい目。――右目の下には、ほくろが」

 ――花歩さん……!

「どこで、花歩さんのことを!」

 気づけば、僕の足は椅子を蹴っていた。
 そのまま、目前の胸倉を掴み揺さぶる。

 けれど笹井は、顔色一つ変えない。

「ですから、あなたの隣にいらっしゃるんです。
 "かほさん"とおっしゃるのですか?」

「…………」

 失言に気づき、思わず口をつぐむ。

「聞こえてくるんですよ。
 ささやくような、小さな願いが……。
  『たかとーくんと青い本、一緒に作れたらいいのにな』
――と。
 その想いだけが、とても静かに」

「……"たかとーくん"、って」

 その口真似は、花歩さんの喋り方だ。
 『高藤君』と僕を呼ぶ声が、甘えたときだけ、ふうわり『たかとーくん』になる。

 そんな違い、僕の他には誰も気にしてなかったろうし――
 たとえ気づいてたとしても、今の今まで覚えてることはないだろう。

「どうして……」

 だから、聞く。

「今、ここにいるんなら、なんで僕には――」

 ――彼女の声が、届かないのか。

「"願い"しか、遺してらっしゃらないからでは」

「え?」

 首を傾げる僕に、笹井は続ける。

「"遺る"方々は、普通、それはそれは強い情念に凝り固まってらっしゃるんです。
 恨み、憎しみ、情欲、後悔――そうした念で」

 見てきたように、説得力のある言葉。

「けれどもかほさんは、亡くなったことには納得されている。
 自らの死、そのものを嘆いているわけではない」

「……え」

 受け入れられるもの、なんだろうか。
 あんな突然の……病死を。

 ――いや、ひょっとしたら。

 花歩さんは、自分が病気と感づいていたか、知っていたかで。
 それを隠して、覚悟して日々を送っていたのかもしれない。

「かほさんは、ただ、ひとつのことだけを願っている。
 それは純粋で濁りを持たず――
 だから、とても見つけにくい」

「花歩さんの、"願い"――
 ……そうか」

 つぶやけば途端に、記憶の底から言葉が浮かぶ。

「『青い本』」

 二人の言葉が揃う。
 ――それを作ってみたいと、確かに花歩さんは願っていた。

「『青い本』を、作れなかったから。
 だから、花歩さんは悲しんでいるんですか?」

「悲しんでいる? ……いえ、そうは聞こえません。
 ただ『一緒に作りたい』と。その願いだけが、とても静かに」

「一緒に、ですか……」

 僕は顔を覆う。

「今さら、そんなこと出来っこないのに」

「……ふむ」

 ぼりっ、と笹井が無精ひげを撫ぜる。

「……お差支えなければ、お聞かせいただけませんか?
その『青い本』の詳細を。
 何かの力になれるかもしれません」

「……何かって、何です」

 途端、口を閉ざして、笹井は僕の肩のあたりをじっと見る。
 ただじっと――悲しむように、憐れむように。

「去年お見かけしたときに比べ、かほさんは――
 ひどく、薄れている」

「――薄れっ!?」

 思わず身を乗り出す。

「願いが、諦めに変わってきているのかもしれません。
 ですから、ふと見かけて。どうにも放っておけず、お伺いしたわけなんですが」

「薄れが、進むと……?」

 無言で、笹井は肩をすくめる。
 何も答えぬそれこそが答えと、直感できる――させられる。

「そんな……」

 ――かほさんが、ただ消えて行く。
 叶わない願いを抱え、願うことにさえ疲れてしまって。

「そんなこと……あっちゃいけない」

 バッドエンドの先に、さらなる追加バッド――
 そんなの、辛すぎる。

 だから――
 頑なだった唇を開く。

「……僕と花歩さんは、先輩後輩だったんです」

 心を縛ってた包帯を、そろそろと解いていくように。

「出会ったのは、高校の文芸部で。
花歩さんは絵描きだったけど、文芸部にいたんです。
『絵本作家志望だから』って。
 聞かれるたびに、誰にでも嬉しそうに話してました」

 嬉しそうな、誇らしげな。
 とっておきの秘密をそっと、明かしてくれるみたいな、あの口調。

「『絵本だったら、世界中のこどもたちに見てもらえるでしょう?』
って。
 最初は正直、自己顕示欲の強いバカ女くらいに思ってました」

「ほう?」

「でも――全然、そんなんじゃなかった」

 笹井が頷く。満足そうに。

「花歩さんの目は、どんなつまらない景色の中にも――ありふれているいつもの中にも。
とても綺麗な、キラキラしたものを見つけてて。
そのキラキラが、ほとんどの人には見えていないとも知っていて。
だから、それを見せてあげたい、気づかせてあげたいと、ひたすら願っていたんです。
本当は、ひっこみ思案で内気な人なのに、その一心でがんばって――」

 だから、魅かれた。
 同じ景色を、同じ夢を、僕も見たいと強く望んだ。

「――でも、あのひとは舌ったらずで。
心に言葉が追いつけなくて。
 いつからか、僕が手伝うようになりました。
 誰かの知識や感覚を、伝わりやすく翻訳する――
そういう方向に、僕の能力は向いてたらしくて」

「なるほど」

「長い時間をかけて、二人で一緒に絵本を作って――
コンテストに出すようになって、佳作に引っかかって。
 初めてついた編集者に言われたんです。
『このままじゃ世には出せない。もう一化けが必要だ』
って」

 ほぉ、と笹井がため息のような声を漏らす。

「それは……かなりの高評価ですな」

「……ですよね。
 今なら、わかります」

 ――たった、一化け。

 作品全部を歪めている、たったひとつの欠点を消せば。
 一人よがりの作品が、誰かに伝わる力を持てるようになる。

 そういう評価を、僕らはもらって――

「……でも、そのときはわからなかった。全否定されたと思ってしまったんです。
 だから――八つ当たりしてしまった。
 花歩さんに。
 僕を初めて認めてくれた、その人に……。
 『これ以上、どこを直せばいいっていうんですか』
 『足りないとこがあるんなら、教えてくださいよ』
って」

 震える、膝が。
 ぬらつく汗が滲み出てくる。

 ああ、僕はこんなにも――
あのときのことを、悔やんでいるのか。

「甘えていたんですね。
花歩さんなら、僕を全肯定してくれると思いこんで。
 ……その時の花歩さんの顔、今でも覚えています。
困ったような寂しげな、とても弱々しい微笑み――
それを見て、僕は、とても、不安になった」

 言葉が途切れがちになる。

 吐きたい。
 泣きたい。
 ここから逃げてしまいたい。

 ……けど、見てるなら。
 花歩さんがもし、ここで見ていてくれるなら――
 僕は今こそ、贖罪しなくちゃいけない。

「花歩さんは、ゆっくり、言葉を探してくれました。
 『もう少し、青くてもいいと思う』
 『飾らずに、そのままの青さをぶつけてみたい』
と。
 とつとつと、不器用な――
それでも僕に伝えるための、精一杯の言葉を。
 ……だけど」

 心を閉ざし、耳を閉ざした、あの日。

「僕は、思いきり反発しました。
 『そんなの、花歩さんの仕事でしょう』
 『青い絵の具が足りないんなら、ケチらず買えばいいでしょう』
って――
 せっかく花歩さんが見つけた言葉を、受け取りもせずに跳ねつけて」

 笹井が、痛ましげに目を伏せる。

「でも、それはいつものことだったんです。だから……
次に会った時に謝ろうって、そう、思ってた」

 感情の奔流に、一度言葉を切る。

「……だけど。
 花歩さんは次の日、部活にこなかった。
 次の次の日も。
 その次の日も。
 不安になって、家に電話をかけて――
 そこでようやく、僕は知ったんです。花歩さんが……入院したことを」

 花歩さんのおかあさんの、硬く――けれど、温かい声。

「大した病気じゃない、って聞いて。
 なら、退院を待とう、と、思って」

 僅かな疑いを感じることすらないほどに。
 僕は子供で……幸せ者だった。

「――結局、そのまま。
 花歩さんは……。
 永久に、いなくなってしまった」

 感情の奔流を抑えきれず、拳を叩きつける。

「僕は――!
 僕は、何も……
 何一つも、しなかった」

 笹井が何かを言いかけて、躊躇う。

 ――そうすることが、一番自然な気がして。
十年ぶりに、僕は"そこ"へと視線を向ける。

「……見ますか? そのときの絵本」

 一番高い棚の上、花歩さんのものだったカルトンの中。
 紐をほどいて、挟まれていた紙を取り出した。

 ミューズコットンに、アクリルガッシュ。
 花歩さんの絵は、色あせてない。

「ほう」

 感嘆の息。
 百戦錬磨の編集者にさえ、それを吐かせる花歩さんの色。

「投稿作なんで、裏面が文章です。
 鉛筆書きで読みづらいかもしれませんが――」

「いえ、十分に拝読できます」

 受けとった紙を、丁寧に丁寧に、笹井は繰り換える。
 一枚一枚。
 読み終えるたび、僕に原稿を手渡す。

 そうしてやっと、確かめた。

「……背伸びを、僕はしてたんですね」

 ぎくしゃくとした、余計な飾りで固まった文。

「花歩さんに追いつきたくて、入選という結果を求めて――
 自分のじゃない言葉を借りて、ゴテゴテと化粧している」

「……だからこその、一化け?」

「でしょうね」

 僕は頷く。

「化粧を落とすのも、一化けだ。
いい編集さんだったんですね、あの人……。
 そして、花歩さんも――
 ちゃんと、見ていてくれた」

 今さら、理解る。

 ――いや、本当はずっと前から理解ってて、
けれど怖くて認められずにいた、その事実をただ確かめる。

「だから花歩さんは、"青く"とだけ。
生の言葉を、本当の言葉をそのまま書けと、促してくれた。
 青くさくても未熟でも、ひたすら真直ぐぶつけてしまえと――
 花歩さんは、きっと、僕に望んでくれていた、の、に……」

 ゆっくりと、笹井が頷く。
 全てを受け入れるかのように。

 薄汚れた中年男の仕草のはずが、どこか、懐かしい少女の姿と重なって――

「っ!」

 胸が痛い。呼吸が苦しい。

 頭を振って、きつく目を閉じ。
 頬に流れる感触を、自己憐憫を消し去りたくて、罪を吐く。

「僕は……花歩さんを、裏切った」

 裏切って、絵本の世界に背を向けた。

「信頼を跳ねのけて。
 最後の最後に彼女を、一人ぼっちにしてしまった――」

 取り返しの付かないことをした、もう戻らない時間。
 今はただ、項垂れることしかできない。

「……ですから」

 あきれたように、笹井が呟く。

「あなたは、ずっと、一人じゃない。
 そして――同じように、花歩さんも」

「……けど……」

 反射的に出た言葉に、「そう、"けれど"」と笹井は頷く。

「あなたがそうして止まり続けていたら……
 やがて、本当の別れが来てしまいますよ」

「……っ!!」

 喉が鳴る。
 意志と関係なく、唾を勝手に飲みこむ。

「け、ど……だけど」

 同じ言葉を繰り返す声は、かすれてる。

「今さら、僕になにができるっていうんです。
 花歩さんが一緒にいてくれたっていうのに――
 その声さえも、一度もちゃんと聞こうとしなかった、この僕に」

「……わかりませんか?」

 笹井が僕をまっすぐに見る。

「一緒に、創ればいいんですよ。
『青い本』を」

「でも、花歩さんはもう――!?」

 言ってから、すがるように笹井を見てしまう。

「あの、もしかして……口寄せみたいなことを」

 食らいつく僕に、「いえ」とあっさり笹井は首を振る。

「仮にできても、不要でしょう」

「え?」

 首を傾げると、笹井はその一言を突きつける。

「なぜならば――
 あなたは、作家だ」

「っ!」

 その言葉が、すとん――と、おなかに落ちてくる。
 喉の小骨を取り去った、たきたてご飯の固まりのように。

 作家としての僕の人生。その原点――

「そうか……」

 これは――
 花歩さんの温もりだ。

 一緒に居る。一緒に居た。
 この温もりを忘れていたときにさえ、僕は花歩さんと一緒に居た。

 この先、花歩さんが望みを満たして、満ち足りたとして。
 僕の元から、その魂がどこかに昇っていくのだとしても――

 その後だって、僕は、花歩さんと一緒に居られる。

「書けば、いいんだ」

 だって――
 僕は、作家だから。

 向き直り、PCを立ちあげエディタを開く。
 堰き止めていた想いが溢れ、指を動かす。


 文芸部の部室、語り合った時間。

 大学を追いかけて、勉強を教えてもらった夏。
 困ったような花歩さんの微笑み。

 二人で作った、青い本。
 重ねた手で出した応募原稿――


 解説でも翻訳でもない、僕と花歩さんの、そのままの、言葉。
 ふたりが過ごした時間の全て、記憶の全てを文字へと変える。

 そうして、そこから。

 ――『青い本』――

 僕は新しく紡いでいける。

 どんな未来も、どんな望みも。
 物語にして、花歩さんと一緒に歩んでいける。

「…………」

 止まらない指。
 動き続ける画面は、終わらない物語。

 ――そして、いつか。きっと叶える。
 花歩さんの夢、僕の夢。
 二人がともに夢見た願いを。

「……ふふ」

 誰かが、ふわりと笑った気がする。
 静かに、部屋を立ち去る気配。

「玉稿、楽しみにしていますよ」

 誰かの声が聞こえたようで――
 それでも、指は決して止めない。


 これからの、
 僕らの言葉を。
 僕らの物語を。


 ――次の一行を、書きつなぐために。


(了)