空とピート・オブライエンについての短い挿話 作:GoShu   --------------------  これは、ある少年の幸せについての、少し昔のお話です。 1.  ピート・オブライエンはイギリスの片隅の町に住んでいました。  小さなころから、外で遊ぶよりも家の中で本を読んでいることが多い、物静かな少年でした。  ピートがその本に出会ったのは、14歳になってしばらくしたある日のことでした。  父親が帰ってきて、大きな絵がたくさん描かれた、大きな判型の本をピートに手渡し、面白いから読んでみろと言いました。  それは飛行機…初期の戦闘機に乗っていた人についての物語でした。  飛行機や飛行場の絵、空から見た畑や森の絵などがたくさん載っています。  ピートは、飛行機はもちろん本などで見知ってはいましたが、まだ飛んでいるのを実際に見たことはありませんでした。  そして、この本のように丁寧に描かれた飛行機(それはまだ複葉機でした)も初めて目にするものでした。  きれいだな、ピートはそう思いながら絵を眺めました。  そして、本のちょうど中ほど。  ページをめくって「その絵」を見たとたん、ピートの手はぴたりと止まりました。  そして、目が吸いつけられました。    そこにあったのは、見開きいっぱいの青空でした。  ページには、すこしの濃淡を交えた青空以外に何も描かれていませんでした。ただひとつだけ、主人公が乗る飛行機が小さく描かれているのを除いては。    その、ほとんどが青で埋め尽くされた絵を見たとき、きれいだとか、すばらしいだとかの言葉は浮かんできませんでした。    ただただ目が吸いつけられ、  こんな空は見たことがない、  今までに一度だって見たことがない、  ただただそう思いました。  しばらくそうしていてから、この飛行機の中には人がいるんだということに気がつきました。  この空の中を飛ぶのはどんな気持ちなんだろうか。  それはきっと、…そう、…そうだな、きっと…  どうしてもピートはその先をうまく言葉にすることができず、もどかしい思いだけが残りました。  言葉にするのを途中であきらめて、あらためてページを眺めます。  そして、もう一度その青に引き込まれます。  ピートは本を手に、それを何度も繰り返したのでした。 2.  本を読んだその日から、ピートは両親に、飛行機に乗ってみたいと言いはじめました。  最初にお話ししたようにこれはすこし昔、二つの大きな戦争のちょうど間のころの話です。飛行機には今ほど簡単に乗れるものではありません。旅客機はなくはありませんでしたが、乗るにはまだとてもお金がかかりました。  両親は困って、それは難しいということを何度も説明しましたが、ピートはどんな言葉にも耳を貸しません。  こんなに頑固なピートを見るのは初めてだった両親はとまどいましたが、いろいろと骨を折ってあちこちに聞きまわることにしました。  ピートは自分でも学校の先生、友人に聞きまわって当てを探します。ピートがいつもと違う熱意を持って問いかけてくるのに面食らいながら、みな腕を組んだり頭を振ったりするのでした。  そんな日々がしばらく続きました。  晴れた日は、学校でも、日曜日に家にいるときも、ピートはいつも外に出て空を見ていました。本当の空の中に、あの本の青を見つけます。  曇った日、雨の日は、机の上にあの本を広げ、頬杖をついてあの絵を眺めます。  父親が嬉しい知らせを持って帰ってきたのは、もう半年が経とうとしているころでした。  大学の研究室になんとか話をつけて、乗せてもらうことができるようにしたのです。  空に行ける!  その日から、ピートの頭の中はそのことだけでいっぱいになりました。  勉強は手に付かず、何か話しかけられても生返事をするだけになってしまいました。  心ここにあらずのまま1か月が過ぎていき、とうとうその日がやってきました。  ピートはもちろん朝から胸をどきどきさせていました。  車で2時間かけて大学が持っている飛行場へ向かいます。広場か空き地のような雰囲気の飛行場に近づき、飛行機が何機か見えてきたときには、自分の心臓の鼓動が自分で聞こえるほどになりました。  車から降りて父親が研究所の人になにか挨拶をしているようでしたが、ピートの耳には入ってきません。  研究所の人はピートにも向き直り、笑顔で何かを話しかけます。それが握手を求めているということもしばらくしなければ気がつけなかったほどなので、その後に話しかけられたことも、後になってもなにも思い出せませんでした。  いよいよ航空帽をかぶせられ、複座機の後ろの席に座ります。  しばらくしてエンジンの響きが体を揺らせたかと思うと、飛行機はゆっくりと動き始めました。  風景が後ろに流れてゆき、それは次第に速くなり、飛行機はゆっくりと上の方に傾き……  そして、ふわり、ピートは浮き上がり、少しずつ上へと進んでいったのです。  ああ、まるで空への階段を上っているみたいだ、ピートはそう思いました。  飛行場で手を振る父親が小さくなり、その向こうの建物が小さくなり、周囲の林が小さくなっていきました。  ピートはその間、ただ感じていました。あの空が近づいてくることを。  地上の一切が小さくなっていきましたが、もうピートは下を見ていませんでした。青い空、小さく浮かぶひとひらの雲。近づいてくるそれだけを見ていました。  飛行機が雲をかすめたとき、ピートは思わず口に出しました。来たんだ!と。  そしてピートははっとしました。ピートの声に答えるように、いらっしゃい、待っていました、と、空から声が聞こえてきた気がしたのです。  ピートは空をもう一度見まわしました。そして、はい、ぼくもずっと待っていました、と、心の中でそう答えました。  耳に響くエンジンの音、風の音。ピートはその中で、大きく深呼吸をしました。  そろそろ降りるよという操縦士に何度も頼んで空での時間を延ばしてもらい、そして今度こそ降りていくときに、ピートはもう一度深呼吸しました。  次第に高度を下げていく飛行機の中から、ピートは振り返って空を見上げ、そして心の中でつぶやきました。  それじゃ、また、と。 3.  そんなピートが、飛行機に乗る仕事をしたいと考えたのは当たり前のことだったでしょう。  それまで、将来なにになるのかはあまり考えていたかったピートでしたが、はじめて真剣に考えました。  前も言いましたが、まだ旅客機というものはそれほどたくさん飛んでいません。なのでそれに乗るパイロットもあまりたくさんは必要とされていませんでした。  最初に飛行機に乗せてくれた大学にも聞いてみましたが、飛行機の開発、研究、整備といった仕事が主で、操縦だけをするというわけにはいかない様子でした。  いろいろ考えたピートは、結局、最初に考えた仕事にすることに決心しました。  軍に入って航空兵になりたい。  そう決心を打ち明けたピートに、両親はたいへん驚いて反対しました。おとなしいピートを学者とか医者とかにしたかったこともありましたし、そのころ近隣の国との関係が穏やかでなくなりつつあったこともありました。  でも、飛行機に乗りたいと言ったときのピートと同じで、このときも両親の言うことは聞きませんでした。  それからの毎日、反対する両親を尻目に、ピートは入隊試験を受けるための勉強や運動などを黙々と続けていきました。  両親はずっと反対し続けましたが、その様子を見ていると、不承不承ながらも諦めの気持ちにならざるをえませんでした。  数年経ち、試験が行われ、合格を知らせる手紙がピートの家に届きました。  なおも心配する両親に見送られ、ピートは軍に入るため家を出ました。  両親が持たせたいろいろな荷物の中に、ピートはあの青いページがある本を大切にしまっていきました。  軍隊に入ると、厳しい教官と騒がしい僚友がいました。そのどちらもピートにはありがたくないものでしたが、黙々と従って過ごすことはできました。  飛行機の操縦訓練のときだけは、ピートの目はきらきらと輝きました。操縦のための複雑な操作も、綿が水を吸い取るように、ピートの頭と体にしみこんでいきました。  そして、教官とともに初めて軍隊で空を飛ぶ日が、思ったよりずっと早くやってきました。  ピートは機に乗り込みます。  エンジンのうなりとともに機は動き始め、あのときよりも速く地をすべり、階段を2段飛ばしで上がるように空へと舞い上がっていきました。  あの日と同じ青い空に。  教官がいろいろと話しかけてきましたが、ピートの心はほとんどそちらには向いていませんでした。  青空の中にふたたび身を置いたピートは、ただいま、と心の中で空に話しかけました。  そして、はっきりと声を聞きました。おかえりなさいと、ピートに呼び掛ける声を。  そして、ピートはにっこりと笑いました。 4.  ピートの操縦の腕はみるみるうちに上がっていきました。  ピートには、空に流れる風も、それが来る前からそれがわかりました。そして、流れる風に従い、自分の体を動かすように飛行機の姿勢を変えました。そして泳ぐように、踊るように、ピートの乗った機はなめらかに動いていくのでした。  そして、一人で操縦して空に出る日が、他の誰よりも早くやってきました。  ピートはぐっと操縦桿を引いて、空への階段を上っていきました。  雲を抜け、空に出て、水平飛行に移りました。  一人で来ましたよ!そう空に呼び掛けた瞬間、ピートは、ああ、こうしたいから自分はここに来たんだ、と、そのとき初めて気がついたのです。  もちろん、軍に入った理由には、あの本が戦闘機乗りについてのものであったこともありました。  しかしそれより何より、一人だけで、毎日、空に行き、空にいて、空を飛ぶ。  それができそうなところを求めて、そして自分は今ここにいるんだ、と。  どうやらそういうことらしいです、とピートはくすりと笑いながら空に話しかけました。  空もくすりと笑ってくれたような気がして、ピートはとてもいい気持ちでした。  ピートの腕は僚友の誰よりもはっきりと優れていました。そのため、無口なピートを時にはからかっていた僚友も、自然とその数を減らしていきました。  そんな中で、何人か友人もできました。友人に、軍に入った理由を聞かれた時などは、あの本を取り出し、あのページを見せることもありました。  見せられた友人は、絵に感心はしましたが、その後で興味深そうにピートの顔を見るのでした。すごいやつだが、やはり少し変わってるな、というふうに。  ピート自身は、その顔の意味することに気が付いていないようでしたが。  隊で一番の腕利きと言われても、ピートにとっては特にうれしいことではなかったのですが、ただ一つうれしかったことがあります。  新しい機のテスト飛行とか、あるいは自分独自の訓練とかいう名目で、空を自由に飛ぶ機会が多くできたことです。  そんなとき、ピートはときに空に話しかけながら、  ときには何も考えずただただ無心に、  空での時間を、空との時間を過ごし続けました。    そんなある日のことです。  ピートはテスト飛行をしていました。飛び方はほとんどピートに任されていたので、気ままに旋回や上昇下降を繰り返していました。  その日は特に天気がよく、雲ひとつもありませんでした。  ときにいたずらをしてくる風も、そのときはほとんど顔を出しませんでした。    ああ、いい日だなあ。そうだよね?と、空へつぶやきます。  そしてピートはあまりの気持ちよさに、いつのまにか飛行中にうとうとしてしまいました。  ピートの機はまっすぐ水平飛行をしていたので、無線の向こうでもそれとは気づきませんでした。  ピートはただ、空のなかで、心地よい眠りに入っていました。  目を覚ましたとき、自分が眠ってしまったことにさすがのピートも驚きました。  しかしそれよりも、眠りから覚めたときに空にいるということに、とても幸せな気持ちになったのでした。  おはよう、と、ピートはそのとき小さくつぶやきました。  おはよう、と答えるように太陽がきらめき、さわやかな風が吹いてきました。    青空の中で、ピートの機だけが光っていました。  --------------------------------------------  さて、このお話は先に書いたとおり、ピートの幸せについてのものですので、大事なことはこれでほとんどおしまいです。  後のことは、少しだけかいつまんでお話しすることにしましょう。 5.  ピートがいたところは軍隊でしたので、戦闘訓練などという、やりたくないこともやらなければなりませんでした。  ピートにとって、飛行機からの銃撃の訓練は、最後まで好きになれませんでした。銃を撃つことは、空でやることの中でもっとも似つかわしくないことと思えたからです。それでも、うまくはできたのですが。  そして、ピートが入隊して数年したころ、周囲でささやかれていた、2度目の大きな戦争が始まってしまいました。  ピートは空の上で、戦いをしなければならなくなりました。  空の向こう、ほんとうの向こうに、オリーブ色をした飛行機がこちらに向かってきます。相手の飛行機はピートたちよりも少し高くを飛ぶことができました。そして急降下してこちらの機に銃撃して、さっと去っていくのでした。  ピートは誰よりも早く、相手が近づいてくるのを見つけることができました。本当に、目に映る前から、気配でそれとわかるのです。  向こうは、ピートが気付いているとは思っていません。そこで、気づいていないふりをして相手が近づくのを待ち、舞い降りてくるところをさっとかわして迎撃しました。相手は煙を上げて落ちてゆきました。  そのようなことが何度も続きました。ピートがそんなとき考えていたことは、パラシュートで脱出するパイロットを見て少しほっとしたことと、少し高く空を飛べる彼らの飛行機をなんとなく面白くなく思うことくらいでした。  ピートはエースパイロットとして表彰されたりもしましたが、もちろんそれはピートにとってうれしいことでもなんでもありませんでした。  そんなときのピートの顔は、いるべきでない場所にいて困っているような表情をしていました。  そしてある日のことです。 いつものように指令が出て、いつものようにピートが空に向かったとき、初めて見るような妙に黒い雲が空にかかっていました。  やってきた飛行機は、いつもより数が多く、ピートたちの僚友もそれだけたくさん出撃しました。  数が多いと、さすがにピートも勝手がきかない場合があり、危ういところでかわさなければならないことが何度も起きました。  戦いは長く続きました。  ピートの味方も何機か落とされる中、しかし相手の機は次第に数を減らしていきました。そして、最後に残った一機をピートが撃ち落としました。その機は煙を上げながら海に落ちていきました。  ほっ、とピートが息をついたとき、さきほどの黒い雲がさっと切れました。そしてそこから相手がもう一機現れ、ピートに銃撃を浴びせました。  衝撃が走り、炎が上がりました。  あれ。  どうして気が付かなかったんだろう。  機体に感じた衝撃と同じくらい、そのことにピートはショックを受けました。  ピートの機は速度を失い、海へと落ちて行きます。脱出しようと思いましたが、ちょうどそのとき、エンジンからの爆発音が、再びの衝撃とともに聞こえてきました。  脱出するための装置は動きませんでした。  落ちていく中で見上げると、黒い雲は視界の外に消えており、いつものような青空だけが目に入ってきたのでした。  --------------------------------------------  すべてが終わったあと、健在だった両親は、嘆き悲しんで遺品を家に持ち帰りました。  でも、あの本、青い空のページを持つあの本は、友人に貸したままになったのか、それともそうでないのか、ピートの部屋からなくなってしまっていて、どこからも見つけることができませんでした。  --------------------------------------------  これで、空とピート・オブライエンについての短い話はおしまいです。  最後に、戦争が終わって何年か経ってから発売された、ある本についてお話しします。  それは、ある写真家が撮った、飛行機についての本でした。  旅客機、輸送機、軍用機、いろいろな国のいろいろな飛行機が、あるいは空を飛び、あるいは飛行場に止まっている写真が、短い文とともに載せられていました。    その中の一枚に、雲一つない青空を背景にして、銀色の飛行機がまっすぐに飛んでいる写真がありました。  それは、いつのものかはわかりませんが、ピートが操縦する飛行機でした。  空も、飛行機も、そのころの写真技術では不思議なくらい鮮明に、きらきらと輝いていて、その本の中でも一番美しい写真でした。  その本を手にしたある一人の男の子などは、まるで時間が止まったように、まばたきもせず、その写真をいつまでも見つめ続けていたのでした。