イミテーション・ブルー リライト
『あなたは、夢をお持ちですか?』
『僕は、空を飛んでみたい。ずっとずっと、遠くまで、自由に』
『それは、素晴らしい夢ですね』
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窓からは、春の柔らかな日差し。
新聞を見ながらうとうととしていたら、足に軽い衝撃があった。
「いて」
大して痛くもなかったが、つい私は声を上げる。
当たったのは掃除機のヘッド。気づけば掃除機の大きな音が書斎中に響いていたが、
私はまどろんでいて気づかなかったようだ。
見上げると、年配の女性──白髪と皺の増えた妻の、まるで置物を見るような
目と視線が絡む。
「……邪魔だったか」
「──いいえ」
ため息こそつかないがそれが聞こえてきそうな表情で、妻は掃除機をひっぱって
廊下の方に出ていった。
定年して丸一年。
有り余る自分の時間に嬉々としたのは最初の三ヶ月だけだった。それが過ぎると、
時間の経過が気が遠くなるほど遅いことに、嫌でも気づいてしまう。
ずっと仕事一筋だったから、趣味なんてない。妻と会話することだってほとんど
なかったから、二人きりで家に居ると間が持たない。加えて、最近では妻が私を
見る目が冷ややかになっている気がする。
『どこかへ行っててくれないかしら』
そう、先ほどもそんな目をしていた。
「──ちょっと散歩してくる」
まるで今思いついたかのように、廊下の掃除を続けている妻にそう声をかける。実際はいたたまれなくなったのだけれども。
妻は目線だけをこちらに向けて、頷いた。……ような気がする。
玄関を出る時も、掃除機の音が鳴り止むことはなかった。
散歩、といっても、還暦過ぎた男が徒歩で廻れる範囲なんてたかが知れている。
この近所は既にあらかた歩きつくしてしまった。
友達がいるでもない、道行く人はみんな他人だ。うわべだけの挨拶はするが、
その中に知った顔はない。
そうして、今は、公園のベンチで一人、空を見上げている。
珍しく晴れ渡った空は、しかし、薄い灰色をしていた。おまけに都会のビルに
遮られ、人工的でいびつな四角い形。
……昔はもっと広くてきれいな色だったはずだがな。
濃い、青色。
ずっと見上げて、なお見飽きることの無かった、青い空。
そんな空に、私は……。
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「――助けて――!」
周囲に響き渡った微かな声に、私はのろのろと目を開ける。
開いた目からぬかるんだ頭に入ってきたのは、まぶたを閉じていてもわからぬような
ノイズ交じりの白黒の海原。
足元に波音が響いているが、その音も雑音交じりで不快だ。
白黒テレビで大昔の放送を見ているような、そんな不明瞭な世界。
「……ここは、どこだ?」
自問は粉っぽい風に流されて海原に消えていく。
灰色に濁った海と、その上に乗った重苦しい曇天が、単色の世界を形成している。その中心、二人乗れるかどうかという程のちっぽけな木船の上に、私はいた。
見渡す限りの、灰色の大海原。
誰も、いない?
そう思った私のすぐ近くで、ざぁっという大きな波音。
振り返れば、巨大なガレオン船がこちらに突進してくるところだった。
船はかなりの速度で接近してきている。くすんだマストいっぱいに風をはらみ、
ごうごうと波をけたてて迫ってくる。
その舳先の後ろに、灰色のドレスにティアラをつけた少女。
「――助けて――!」
手首を縄で縛られ、もがいている。
その姿に、私は眩暈のような既視感を感じた。
同時に、助けよう、と思う。
助けたいが……。
ガレオン船は、ちょうどこの小船のすぐ先をかすめるような進路で近づいてくる。
向こうに手がかりか足場があれば、飛び移ることができるかもしれない。
そう思って船を観察するが……切り立つ船体にそんなものは皆無だった。
加えて、その足は思いのほか速かった。すれ違いざまにつかまるのは簡単ではない。
さらに、こちらは小船、あの速度で移動する大型船に接近するだけで、
転覆の恐れがある。
どうしよう、なにかいい手はないか。
そうこうしているうちに、ガレオン船は私の前を通り過ぎていく。
「――助けて――!」
遠ざかる船とともに、波の音も、少女の叫ぶ声も小さくなっていく。
呆然と見送る私の前で、ガレオン船は足早に水平線の彼方へと消えていった。
灰色の空と海の、あいまいな境界線の先へ。
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───。
──。
─。
目を開けると、そこに広がるのはくすんだ朱色の空。
公園のベンチに腰掛け、私は空を見上げていた。うたた寝してしまったようだ。
夢を見ていたのか。
春とはいえ、朝夕は肌寒い。コートの襟を立て、前のボタンをかける。
ポケットに手を入れながら、先の夢を反芻。
「助けて、か」
助けを請う少女を見逃した自分の無力さよりも、その既見感が気になった。
あの少女、どこかで見たことがある。
少女を、というよりも、そのシチュエーションを。
あれは、
あれは確か……。
……なんだったか……。
思い出せない。
重い頭を振りながら、私はベンチから立ち上がった。
『考えてもわからないなら、考えない方が楽だ』
六十年の人生経験から学んだ極意を思い出しながら、夜の帳が降りはじめた
街へと足を踏み出し、家路に着く。
帰宅したのは周囲がとっぷりと暗くなってからだった。
妻は相変わらずモノを見るような目で私を見、無感情に
「遅くなるなら、先に知らせて頂かないと」
と言った。
すまん、と答えたものの、申し訳ないなんて微塵も考えていない自分がおかしくて、
少し笑ってしまった。
それが、長年連れ添った妻と私の、今の関係。
心地よい距離感、と言えば聞こえはいいが、つまりは夫婦としては乖離し切って
いる、というのが正直なところだろう。
レンジで暖められただけの食事を、一人口に運ぶ。妻は夕食を先に済ませたようだ。
前は、私がどんなに遅く帰ってきても、それを待ってくれていたのに。
──よそう。
二人で暮らすということは、何かを妥協するということ。
それも私の、つまらない人生訓のうちの一つだ。
大海原で海賊に捕らえられた姫を助ける物語、か──。
食事を終え、書斎に篭った私は、黒い大きな皮張りの椅子に座って、さっきの
夢のことを思い出していた。
たしかそんな話を前に──、
聞いた覚えがあるような──。
「──あぁ!そうか!」
本棚を一列丸々引っ張り出し、目的のものを探す。
目印は、青。
青空をそのままこぼしたような鮮やかな表紙、まるで絵本のような外見の、
青い本――。
はたしてそれは、書斎の本棚の隅の隅に、ひっそりと差し込まれていた。
真っ青な表紙にタイトルだけが書かれた、シンプルな表紙。
それは、半世紀も前に、私が大好きだった本、子供向けの冒険小説。
その外見は異質なほどに輝いていた。けれども、記憶とは少し異なる。
表紙は年月を経てくすみ、端々はささくれ立ち、振ったら中のページが
抜け落ちそうに揺れる。
歳老いた本。
「……私と同じか」
本を手に、これを開いていた頃を思い出す。
何度も何度も読み返し、無邪気に夢を抱いて、時には空想の中で主人公に
なって姫を助けたりした、少年時代。
本を開くと、その頃のむせ返るほどの情熱の残滓を、ページのそこかしこに感じた。
海賊船に乗り込んで、姫を助け、
仲間とともに世界を旅して見聞を広げ、
時にはその地方の悪い領主と戦い、領民と共に自由を勝ち取り、
魔物を統べる魔王と戦い、幾多の困難を乗り越えて勝利し、世界を救う──。
そんな他愛もない冒険譚に、胸を躍らせ、心をときめかせた時が、確かに私にも
あった。
──はずなのに。
私も、本も、歳を取って擦り切れてしまった。
本を閉じると、くすんだ青色の表紙がやけに白々しくて、少し嫌気がさした。
現実はそんなにお気楽じゃないよ、なんて。
大人らしい言葉をつい口にしてしまう。
本を元あった場所に返し、それで私の興味も尽きた。
ただつまらない日常に、頭がちょっとした刺激を欲して思い出しただけさ。
そんなことを考えながら。
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「――助けて――!」
周囲に響き渡った微かな声に、私は再びのろのろと目を開ける。
周囲には白黒の海原。
……またか。
灰色の海とその上の曇天に囲まれた中のちっぽけな木船の上に、私は座っていた。
ざぁっという大きな波音に振り返れば、またしても巨大なガレオン船が
こちらに突進してくるところだった。
その舳先の後ろに、やはり灰色のドレスにティアラをつけた少女。
「――助けて――!」
手首を縄で縛られ、もがいている。
私は、彼女を、助けたい、のだろうか?
今回のガレオン船には、前回の反省を元に(?)、親切にも船体外壁に足場が用意してあった。
タイミングを合わせて小船から飛び移れば、甲板までよじ登るのはそんなに難しくはなさそうだ。
しかし、還暦の私にそんなことができるんだろうか?
よしんば甲板まで上れたとしても、あの本に従うなら、それから大勢の海賊と戦うと
いう大仕事が待ち構えている。いくら夢とはいえ、こんな老人にそんな芸当が
できるのだろうか?
どうしよう、なにかいい手はないか。
そうこうしているうちに、ガレオン船はまた私の前を通り過ぎていく。
「――助けて――!」
遠ざかる船とともに、波の音も、少女の叫ぶ声も小さくなって──。
呆然と見送る私の前で、ガレオン船はまた水平線の彼方へと消えていった。
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私は小船の上で、はぁ、とため息をついた。
どうしようどうしよう、考えるだけで何もしない。
『人生経験』とはそういう遅疑を教えてくれるだけのものだったのだろうか。
自分が嫌になる。
だからといって、あの場で颯爽と姫を助ける、などという行動も、今の自分には
似つかわしくない、ような、気がしていた。
私は……どうするべきだったんだろうか?
「──なぜ、わたくしを助けて下さらないのですか?」
唐突に、出し抜けに。
目の前に、さっき水平線の彼方へと消えたはずの姫が立っていた。
くすんだ色の、くすんだドレスを着て。
責めるような視線で、私を見下ろしている。
……これが「姫」だって?
すっかり庶民の娘じゃないか。かつて輝いていた純白の服に金色の髪、
ルビーのような深いブルーの瞳は、いずれも色あせて、周囲のモノトーンに
溶け込まんばかりだった。
それに、「なぜ自分を助けないのか」と勇者(?)を叱責する、なんて、そんな
姫が居るものだろうか。
「なぜ、わたくしを助けて下さらないのですか?」
『姫』は繰り返した。
私は頭をかく。
「私は……もう歳だからね」
姫はため息を一つ。
「もうご存知でしょう、これは夢なのですよ。歳は関係ないのです。あなたが
そう思うから、相応の姿になってしまっているだけなのですよ」
「とはいっても、もうこれ以外の姿なんて思い出せない」
姫は、またため息を一つ。
「昔のあなたは、もっと素敵で勇敢な人でしたのに……」
かつての私を知っている……いや、覚えているのか。
耳の後ろがむず痒くなるような感覚。
「あとさき考えずに危険に飛び込むのは、蛮勇というんだよ、勇敢さとは違う」
姫は、うつむいて小船の上にしゃがみこむ。
「──どうして皆さん、わたくしを助けてくれなくなるのでしょう」
誰に言うともなしに、姫はそう口にした。
皆さん、というからには、そういうことが何度もあったということか?
「どうして皆さん、そうやって諦めてしまうのでしょう。『できない理由』を探すようになってしまうのでしょう」
「それは……」
そこから言葉続かない。あまりに寂しげな姫の横顔を見てしまったから。
「夢の世界、望めば何でも叶うのですよ? なぜ望まないのですか?」
私は、その問いに明確な答えを持っている。「つまらない人生訓」として。
伝えるべきだろうか。しかし、伝えていいのだろうか。
そう考えているうちに、勝手に口が動いてしまった。
「夢と現実は違う、ということを知っているからさ」
姫は黙って聞いている。
「ここで何かが叶ったとして、それが現実で何になる? 夢から覚めた時に
心が空虚になるだけだ。だったら夢は──」
急に姫の顔つきが厳しくなった。その先の言葉を知っているかのように。
「夢は──」
言ってはいけない。そんなことはわかっている。
「──嘘の塊なんだ」
そう吐露して、私はいたたまれない気持ちになった。
夢の中で夢の無意味さについて語るなんて、どうかしてる。
そこまで私は落ちぶれてしまったのか。
自分の発言に自分で落ち込んでしまった。
姫は、はぁ、と更にため息。
「……ずっと昔、子供のあなたが勇気を持ってわたくしを海賊から助けてくれた時、わたくしは本当に嬉しかった」
「――その、嬉しいというわたくしの気持ちは、嘘だと仰るのでしょうか」
真っ直ぐな視線に耐えきれず、私は視線を逸らす。
「あなたが、わたくしを助けたことも、嘘だったのですか?」
「…………」
答えられない私に、少女はそっと溜め息を吐く。
「嘘をついているのは、あなたの方です。
わたくしはあなたをよく知っています――あなたの、夢も」
「……夢、か」
私は過去に思いを馳せる。
一心に働いていた頃、希望に燃えていた頃、無邪気に遊んでいた頃――
「かつて、あなたはわたくしに語って下さいました」
『あなたは、夢をお持ちですか?』
『僕は、空を飛んでみたい。ずっとずっと、遠くまで、自由に』
『それは、素晴らしい夢ですね』
「その夢を、もう一度追いかけてみたいとは思いませんか?」
『信じても、夢は叶わない。しかし、信じれば、実現に近づく』。
ああ、それはかつて私自身が口にした──。
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気がつくと、私は書斎の椅子に座っていた。
窓の隙間から差し込む光が、私を優しく揺する。
机の上に目をやると、そこには件の青い本。
ただ、昨日見た時と違って、その表紙のくすんだ青色が、かえって作り物ではない、
現実の空色に見えた。
『信じれば、実現に近づく』、か。
私はその本を、丁寧に棚へと戻した。
書斎を出て、玄関へ。途中、裁縫をしていた妻に声をかける。
「飛行機の操縦免許を取ろうと思う」
妻は開いた口が塞がらないようだった。まじまじと私を見る。
その目は、置物を見るときとは違う、……そうだな、三十年ほど前の視線に、
少し似ていた。
唐突だと思ったろう。そんな話をしたことはなかったから。
だが、私にとっては、それは何十年来の夢。
口に出してみて、少し、私の中で何かが変わった音がした。
そのまま、玄関を出る。
その先の景色は、見慣れたもののはずだが、新鮮な色合いを持ったものに見えた。
首を傾けると、目の前には何度も見た薄い青。
広大な空は、記憶していたよりも遠く、高々と立ち塞がっている。
その景色を、じっと見つめる。
夢の、さらにその先を。
(了)