――追いかけるほど、青空は逃げて行く。
それが男の抱いた印象であった。
少年期は、その壁の先を夢見て。青年期は、その姿に疑いを抱いて。
やがて、その存在を忘れていた。
思い出も、今では遠く浮かぶ泡の一つに過ぎない。
穏やかな波の上、諦観に冒された男は、生気のない表情で空を仰ぐ。
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各所に雪の白さが残る冬の朝。
二十歳半ばの敏夫の娘は、今日家を出て行く。
「今度、彼を連れてくるから」
照れたように話す娘の顔には、清々しさこそあれ、未練の色は見当たらない。
それを見て、敏夫は何も言えなくなってしまった。そんな彼を尻目に、別れのドアはあっさりと閉じる。
「…………」
ほう、と横からの溜め息。
皺が目立つようになった妻は、立ち尽くす敏夫に一瞥もせず、台所へと向かう。
――昨年、敏夫は定年に達し、長年勤めてきた会社を退職した。
大きな目標を失った敏夫は、残った一人娘に目を向けたが、その彼女も巣立ちの日を迎えた。
敏夫は、ただただ途方に暮れていた。
「…………」
無言のまま、敏夫は廊下正面の書斎へ入り、後ろ手で扉を閉める。振動で舞った埃が、窓から差し込む陽光に照らされて揺れている。
敏夫は奥の物々しいマホガニーの椅子に腰掛けた。
この書斎は、四代前の当主――敏夫から見て曾々祖父に当たる人物が作らせたものだという。大きな書棚には数百もの本が羅列してあり、積み重なった歴史を感じさせる。
はじめてこの部屋に入れてもらったのは小学生の頃だが、六十歳を超えた今でも、全ての本に目を通すことはできていない。
「読まれない本もある……か」
敏夫は蔵書の山にそっと背中を寄せる。と――
『トシオ様――』
何かに呼ばれた気がして、敏夫は振り返った。が、目の前には、相変わらず数多の本が鎮座しているだけだ。
ふっと、昔の情景が頭に浮かぶ。
幼い日の情景。敏夫は、友人の誘いを断る。
『お前、最近全然来ねーじゃん』
『ごめんごめん。本がさ、家で待ってるんだ』
『はあ? なんだそれ』
――そうだ。あの本……!
本棚を一列丸々引っ張り出し、目的のものを探す。
厚みのある重い本。青空と白い雲の水彩画が描かれた鮮やかな表紙。まるで絵本のような外見の、幻想的な青い本――
「あった……」
一冊の分厚い本を、敏夫は手に取る。
その外見は、確かに周囲のそれとは異質な輝きを持ち――けれども、記憶とはいささか違っていた。
表紙は年月を経てくすみ、中身も振ったらページが抜け落ちそうに見える。
歳をとった本。
「……私と同じか」
衰えた自らの姿に思いを巡らせ、敏夫は苦笑した。
しばらくの間、懐かしむように表紙をなぞって、無邪気だった少年時代を思い返す。
その手が小口にかかり、やがて。
ゆっくりと本は開かれた――
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ポカポカと快適な気候。
『うわあ』
絶好の冒険日和に、少年は歓喜の声をあげる。
『何があるんだろう』
船から身を乗り出し、遠い景色に目を凝らす。
広大な空は、少年にとって期待に満ちたものであった――
青、青、青。
ぼやけた記憶から覚めた敏夫の目に入ってきたのは、一面の青だった。
「……ここは、どこだ」
自問は風に流され大海原を渡っていく。
群青色に彩られた海と、その上に乗った空が、同色のコントラストを形成している。その中心、十メートルほどのちっぽけな木船の上に、敏夫はいた。
晴れ渡った雲一つない空に、声高に存在を主張する橙の太陽。とても冬の日本だとは思えない。
――子供の頃、あの本に執着していたのは、このためだったのか?
疑問は誰に届くこともなく風に消えていく。
「……まあ、仕方がないな」
幸いにして、家に帰ってもやることはない。のんびりとこの先のことを考えよう。
ふわあ、と敏夫は大きなあくびをする、そこに冒険心に溢れた少年の面影はない。
ぼんやりと空を見上げ、横になる。ポカポカと薄赤い陽気に、敏夫は段々眠気を誘われていく。と――
「――助けて――」
海上に響き渡った微かな高い声に、敏夫はのろのろと目を開ける。
目の前に、巨大なガレオン船が近づいていた。船体の傷は激しく、マストは折れ舵は破壊され、ふらふらと海に流されている。
舳先の後ろには、白いドレスにティアラをつけた少女。
「助けて……」
手首を縄で縛られ、もがいているようだ。
その姿に、敏夫は眩暈のような既視感を感じた。
「大丈夫か?」
「あ、あなたは……」
敏夫に気がついた少女は、その端正な顔立ちに驚きの色を加えた。
その様子に首を傾げながらも、敏夫は木船を横に着け、垂れていたロープからガレオン船に飛び乗る。そのまま少女に駆け寄り、持っていたライターで縄を焼き切ると、少女はほっと安堵の息をついた。
敏夫は改めて少女を観察する。
年の頃は十七、八か。童顔ながら彫りの深い顔立ちは、欧米の血によるものだろう。かぶせたような真新しいフリルのついた白いドレスに、長い金髪が銀色のティアラでまとめられている。
洗練された動作で軽く一礼すると、彼女はゆっくりと敏夫の方に近づいた。
「……お待ち申しておりました、トシオ様。ずうっと」
耳に心地よく通る落ち着いた声。流暢な日本語で、彼女は敏夫の名前を口にした。
「どこかで会ったかな」
自信なく言うと、少女は頬を膨らませた。
「お忘れになったのですか」
覚えていない敏夫は気まずさに目を逸らす。と、
『おい、どこへ行った』
『探せ!』
足下から近づく複数の声と足音。少女は慌てて敏夫の袖を掴んだ。
「わたくし、彼らに捕まっていたのです! 助けて頂けませんか」
「ええ?」
聞き返す間もなく、
バンッ!
派手な音と共に扉を押し開け、五、六人の髭面の男たちが飛び出してきた。
足音から察するに、まだ十数人控えているようだ。
「おいおっさん、そのアマを離せ!」
距離にして二十メートル程。
頭にバンダナ、手の内にナイフ。言葉も容姿も荒っぽい彼らは、一見して海賊だと知れた。
「そういうことか。……わかった、私の船で逃げよう。こっちだ」
敏夫は自分の乗っていた木船を指し示す。
「えっ、逃げるのですか」
少女は驚いた様子だったが、構わず手を引いて敏夫は走り出した。
「あの、あちらに、わたくしの家に代々、伝わる宝剣が……」
息を切らせながら、横目で舳先を指して言う少女を、
「こんな人数に敵うわけがないだろう!」
敏夫は思わず叱りつける。
「ええっ……」
「船に乗って、速く!」
「は、はい」
敏夫からすると随分とのんびりした動きで、少女は木船に乗り込む。
背後に足音が迫っているが、姿を確認する時間さえ惜しい。大慌てでオールを引っ掴んだ。
「漕いで、君も!」
「わたくしもですか……?」
「速く!」
少女に二本目のオールを示し、敏夫は必死に船を漕ぐ。
渋々、といった様子で彼女はオールを回す。
「おい、待て!」「そいつが誰かわかっているのか!」「待ちやがれ!」
幸い、飛び道具の用意もないようで、海賊たちは罵声を浴びせかけるだけだ。
木船もちょうどよく波に乗り、順調に船の距離は離れていく。
そのまま、十分ほどで海はもとの静けさを取り戻した。
「はあ……」
労働から解放され、金髪の少女はくたびれた様子で体を投げ出す。その傍らで、敏夫もオールを船の上に投げ出した。
「助かった。お互い、運が良かったね」
「そう、かもしれませんが……どうして、海賊に立ち向かわなかったのですか?
かつてのあなたなら、そうなさっていたはずです」
敏夫は目を丸くする。
「かつて……と言われても、私は覚えていないし……それに、もうこんな歳だ」
自分の姿を見下ろす。
「剣一本では何もできない」
「……そうでしょうか」
少女はまだ納得のいかない様子であったが、「ところで」と敏夫が機先を制する。
「君は何故あの海賊に捕まっていたんだ。それに、その格好は」
目前の大仰なドレス――それには肩や袖の先に、細かな装飾が凝らされており、とても一般人が着るようなものではなかった。
「そうですね、どこから説明致しましょうか……」
手すりに頬杖をついて考え込む少女。
「まず、わたくしの素性から申し上げましょう。
わたくしはジパングの民、マルガレーテ・ヴァルテンブルグと申します」
「……ジパング? それは日本ではないのか」
「違います。ジパングは、私の父が治めている小国です」
少女――マルガレーテが何気なく漏らした言葉に、敏夫は驚く。
「ということは……君は、王女――お姫様、ということか」
「はい。……旅行から帰るところを、先程の海賊たちに襲われて……もう三日も誘拐されていたのです。
父も、さぞかし心配しているでしょう……」
なるほど、と敏夫は何度か頷く。
「つまり、君の無事を国に伝えられれば、めでたしなんだな」
「……そう、ですね」
姫は考えつつ答える。
「よし」
敏夫は胸ポケットから携帯電話を取りだした。
「国王の電話番号は?」
「え、え」
目を白黒させるマルガレーテの前で、敏夫は一本も立たない電波状況を見つめる。
「あ、駄目だこりゃ。圏外だな」
諦めて携帯を放り投げると、
「もう。こんなのどかな所に、変な機械を持ち込まないで下さい」
少女――ジパングの王女は、頬を膨らませて詰め寄る。
その歳相応の可愛らしい様子に、敏夫は少し見とれてしまった。
――青い海。木船の上。真っ白なドレスのお姫様。
記憶のフラッシュバック。
『……どうしたの?』
『海賊に追われているのです。助けて頂けませんか』
銀のドレスをまとった女性が答える。
『わかった、僕に任せて!』
若さをエネルギーに、少年は剣に手を伸ばす。
幼い日の少年には、ドレスは太陽の光を浴びて、銀色に。笑顔を向ける姫も、眩しく、輝いて見えた。
――それは、今目の前にいる少女と一致する。
「私は……君を知っている、かもしれない」
「思い出して頂けましたか?」
顔を覗き込むようにして、マルガレーテは尋ねる。
「しかし……まさか。だって君は、若すぎる」
敏夫の疑問に、少女はふふ、と意味深な笑みを浮かべる。
「その秘密は、国に着いたらお伝え致しましょう」
今は内緒です、と口に指を一本当てて彼女は微笑んだ。
何の脈絡もなく、敏夫は娘の顔を思い出す。
――そういえば、あいつもこんな風に笑っていた時期があったな。
男の感慨を背負い、木船はゆっくりと目的地、ジパングへと流れていく。
銀のドレスの お姫様
青い野原を かけめぐる
透き通る肌 細やかな仕草
優しげな瞳は 全てを包む
ジパングという国は直径数十キロほどの小国で、しかし特産品が多く栄えていた。
白い髭が印象的な国王は、娘を救った英雄として敏夫を丁重にもてなした。
専用の部屋と豪華な食事を与えられ、のんびりと過ごす生活は、今の敏夫にとって理想的であった。
それから三日間、ただただ厚意に甘える、自堕落な日々が続いた。
四日目の朝。
鳥のさえずりが聞こえる頃、マルガレーテが敏夫の部屋に訪れる。
「トシオ様、商船が海賊に襲われる事件が頻発しています」
「そうか」
気のない返事を返す敏夫に、マルガレーテは顔をしかめる。
「ご協力、頂けませんか?」
「警察――軍隊がいるだろう。私の出番はない」
はあ、とマルガレーテは溜め息をつく。その表情の裏には、焦燥と失望の色。
「……でしたら、他のことでもよろしいのですが。
何か、おやりになることはないのですか」
「今更できることはない。
……わかったら、放っておいてくれ」
追い返すように手を振る敏夫に、マルガレーテは怯まない。
「できないとお思いだから、できないのでございましょう」
珍しく厳しい口調に、敏夫は目の前の顔をまじまじと見つめる。
「トシオ様は、*夢の中でも夢を見られない*のですか」
夢の中、とマルガレーテは言う。その言葉は、少し震えていた。
「……先日、わたくしの秘密を教えると、約束致しましたね」
「そんなこともあったな」
三日前のことが、遠い昔のように思える。
「お気づきかもしれませんが――この世界は、作られたものです」
小さな体躯がきっぱりと、真相を告げる。
「もう百年以上も前のこと。トシハル様……あなたのご先祖様が、孫の遊び相手にとお造りになったのです」
「敏春……?」
家の書斎を作った曾々祖父が、確かそのような名前だった。
「わたくしたち――わたくしも、父も、国も。全てが、創られたものです。ですから、歳を取ることも、外見が変わることもありません。
……これが、わたくしたちの秘密です」
「創られたもの、か」
噛み締めるように、敏夫は呟く。
華やいだ街も、国も、人も。全てが作り物だという。
本を開いた人物のために、全ては用意されている。
だとすれば、
「……君が海賊に捕まっていたのも、演出だったのか」
突きつけると、マルガレーテは一瞬逡巡したが、やがて「はい」と小さく答えた。
「なんだ、嘘ばかりじゃないか」
鼻で笑う敏夫。それを見つめる笑みは、痛いほどに真剣であった。
「嘘、で、ございますか」
ゆっくりと、噛み締めるようにマルガレーテは言葉を投げ掛ける。
「……ずっと昔、子供のあなたが勇気を持って海賊から助けてくれた時、わたくしは本当に嬉しかった。
そして今回も――やっぱり、あなたは助けてくれました」
あまり格好良くはなかったけれど、と付け加えるマルガレーテ。
「――その、嬉しいというわたくしの気持ちも、嘘だと仰るのでしょうか」
真っ直ぐな視線に耐えきれず、敏夫は視線を逸らす。
「あなたが、わたくしを助けたのも、全て嘘だったのですか?」
「…………」
答えられない敏夫に、少女はそっと溜め息を吐く。
「嘘をついているのは、あなたの方です、トシオ様。
わたくしはあなたをよく知っています――あなたの、夢も」
「……夢、か」
敏夫は過去に思いを馳せる。
一心に働いていた頃、希望に燃えていた頃、無邪気に遊んでいた頃――
ふっと浮かんできたのは――空であった。
敏夫はゆっくりと顔を上げる。
「……私は、あの空の先が見たい」
その言葉を聞いて、久方ぶりに、マルガレーテは柔らかい微笑みを見せた。
『どうやったら、あの空まで登れるかな』
『残念ながら、わたくしには力になれそうにありません』
『ここには、飛行機はないの?』
『ヒコーキ……とはいったい』
無力のまま、未知に憧れていた少年時代。
今の敏夫には、その夢を叶える力がある。
――ある、はずだ。
燃料、丈夫な大きい布、そして人が乗れるサイズのカゴ。
森を、商家を、民家を、材料を探して小さな国を所狭しと走り回った。
その甲斐あってか、三日という短い期間で目的のものは完成した。空気を包む大きな布袋。その下に発火装置、さらに下部にはカゴが繋がれる。
知らせを聞いて駆けつけたマルガレーテは、完成品を見て、まあ、と感嘆の声をあげた。
「大きいのですね……これが、ヒコーキ、ですか?」
「いや、これは熱気球だ。空気を温めて、周囲よりも密度を小さくすることで、全体を浮かせる」
「はあ……」
首を傾げたマルガレーテを見て、敏夫は軽く笑った。
「簡単な作りだから、そんなに上には行けないと思う。ちょっと様子を見て、すぐ帰ってくるよ」
「そう、ですね。……無事なお帰りを待っております」
どこかぎこちない笑みを浮かべるマルガレーテに、敏夫は小さく頷いた。
空の向こうには 何があるのだろう
雲がある 星がある その先には?
きっと輝かしい神秘が 隠されているはずさ
さあ行こう 高く高く もっと高く
気球は、ゆっくり、しかし着実に上空へと向かっていく。笑顔で手を振っていた姫の姿は、次第に豆粒のように小さくなり、やがて判別できなくなった。ジパングも、まるでミニチュアのように見える。
そこまでは順調だった。
だが、高度が上がって行くにつれ、敏夫は奇妙な感覚にとらわれた。
「どういうことだ……」
――減じない速度。近づく一方の景色。
唐突に、敏夫は理解した。
上昇する熱気球の前、眼前に近づく空。雲一つない、澄んだ青空。
――どうして、気がつかなかったのだろうか。
青空は、その場所に静止していた。
「……当時はこの先を、知らなかった」
人類が宇宙に出たのは二十世紀後半のことだ。それまで、誰もこの先を見ていない――
目前の景色が曾々祖父の描いた空だとして、誰がそれを責められようか。
敏夫は小さな胸の痛みと共に、自分の幼い夢の結末を見つめる。
やがて青空は拡大して、視界一帯を覆い――――そのまま、破裂した。
中心から始まったその崩壊はやがて端へと伝わり、破片がバラバラとこぼれ落ちる。
尚も上へ登ろうとする気球は、破片となった空を飛び越え、真っ黒な闇の中へ吸われていく。
「これが、空の先か」
呟き、敏夫は意識を失った――
『トシオ様は、将来の夢など、考えておいでですか』
『僕は、空を旅したい。ずっとずっと、上の方まで』
『それは、素晴らしい夢ですね』
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追憶は、やがて現実へ。
気がつくと、敏夫は書斎の椅子に座っていた。
窓の隙間から差し込む光が、敏夫を優しく揺り起こす。
「――そうか、私は本の中で」
机の上に目をやると、そこにはボロボロになった青い本。表紙の青空に走る無数の傷が痛々しい。
敏夫はその本を、丁寧に棚へと戻した。
またいつか、別の誰かに使われる日まで、本は待ち続けるだろう。
書斎を出て、玄関へ。途中、裁縫をしていた妻に声をかけると、驚いた表情が返ってきた。
――何かが変わる、前触れになるだろうか。
そのまま、玄関を出る。
その先の景色は、見慣れたもののはずだが、新鮮な色合いを持ったものに見えた。
首を傾けると、目の前には何度も見た薄い青。
広大な空は、記憶していたよりも遠く、高々と立ち塞がっている。
その景色を、じっと見つめる。
――追いかけるほど、逃げて行く青空。
「だが、いつかは捕まえるさ」
敏夫は、不敵な笑みを浮かべた。
THE END