『神様、やめました』 by KAICHO
吐く息が、白く周囲に広がる。
その無人駅で降りたのは、俺一人。
雪がそこかしこに残るホームで、俺は寒さに身震いした。
俺以外に乗客の居なかった汽車は、そんな俺を気遣うこともなくドアを閉め、錆び
かけた単線の上を、ごとごと揺れながら去っていく。
残ったのは、耳が痛くなるほどの、静寂。
こんな山奥にまで俺を派遣するなんて、よっぽど上は暇なんだな。
───あるいは、よほど事態は深刻なのか。
はぁ、と吐いたため息が、また白い気溜まりを作る。
駅前に、バス停はかろうじて存在していた。が、錆びた時刻表の掠れた予定では、
次のバスは三時間後。
歩くしか、ないか……。
俺はまたため息をついて、ぼろぼろのナップサックを肩に担ぐ。
ぐるりと見回すと、山、山、山。
やっと開けた場所に田んぼと柿畑が点在するような小さな村だ。
そんな中に、一箇所、山の中腹の開けた場所。
そこが今日の目的地。距離はあるが、歩けないほどじゃなさそうだ。
ふらり、歩く。
民家は点在しているが、人影は全くない。過疎とは聞いていたが、ここまでとは。
年越しを終えた村は、ひっそりと静まりかえっている。
しかし、この村には。
人の気配とは違う、別の気配がそこかしこに溢れている。
ここではまだ、彼らが健在のようだ。
『稀有な村』。
派遣前にそう言われた理由が、なんとなくわかった。
一時間近く、雪交じりの砂利道を歩いてたどり着いたのは、長く古ぼけた石畳の下。
これを上った先に、目的地がある。
入り口の鳥居をくぐった瞬間に、凛とした空気が頬を撫でた。
こんな村には不相応に大きな神社。
地面は掃き清められ、手水舎には澄んだ水が湛えられている。
本殿の茅葺屋根はさすがに雪で傷んではいるが、よく手入れされている。
大気に交じるその気配に、つい微笑む。
ここには、まだ居るんだな……。
とたたた、という音に目をやると、浅黄袴の少女が、たすきがけも凛々しく、本殿の
廊下を雑巾がけしてくるのが見えた。
俺に気付いて、先方も視線を上げる。白い息が黒髪に纏わり煌いた。
「参拝の方ですか」
「ああ」
「どうぞ、掃除、すぐ終わりますので」
涼しげな笑顔に会釈して、まずは賽銭を放り込むところから。
二拝二拍一拝の後、ナップサックから取っておきの酒を取り出す。
「本殿に上がらせてもらっていいかな。これを供えたいんでね」
「あ、はーい、どうぞー」
柱の陰から、先の少女が返事をした。
すぐに、廊下の上がり口に案内される。
「───村の外の方ですよね」
「ああ」
「なんで、こんな山奥の神社に、わざわざお供え物を?」
少女は心底不思議そうに俺を見上げた。無理もない、俺にだってよくわからない。
「……上司の命令でね」
「変わった上司さんですね!」
くつくつと口を押さえて笑いながら、少女は俺を本殿の祭壇前に通してくれた。
祭壇には質素だが十分な量の供物が捧げられている。
「お供えが終わったらまた声をかけてください。私は境内に居ますので」
「ああ、ありがとう」
祭壇の前に腰を下ろし、目を閉じる。
そして、神経を集中する───。
『ほぅ、珍しいな、神子聞きか』
声が、聞こえた。
やや遠いが、聞き取るには問題ない程度。
「あなたが、この社の主ですか」
『然り』
言葉遣いは古いが、高圧的な響きは感じない。荒神と対峙することも覚悟していたの
だが、どうやらここの神は、穏やかな御仁のようだ。
「ご挨拶代わりに、こちらを」
持参した酒を、つい、と差し出すと。
『おや、これはこれは。助かる、ありがとう』
声は嬉しげに弾んだ。
……随分と腰の低い神様だな。
「ここは大きな神社ですね。御神もさぞ名のある神とお見受けしますが?」
世辞も混ぜてそう問うてみると。
『名など何の意味もない。わかるだろう、今じゃ消滅寸前のただの老産土神だ』
落ち着いた、声。
───これは本当に、よほど名があるか、この地で息が長い神なのだろう。
『それで、』
彼は声のトーンを元へ戻す。
『君は誰で、なぜここへ? わざわざこの老いぼれに、神酒を供えに来ただけでは
なかろう』
俺は脚を改めて、本題へ入る。
「俺は、甕紬大社付の者です。此度は、御神に遷社をお願い致したく、参上しました」
『遷社?』
「御身は随分と消耗しておられる様子。このままだと近く消滅は免れません。御神の
回復を図るため、ここから、神々安寧の地、高天原へと一旦ご退避頂きたいのです」
声が止まる。
「大社では神々の消滅を憂い、対策を講じています。俺がここにに来たのも、その一環
です」
『そうか、気持ちはありがたいが、しかし……』
彼が言い淀む理由はわかる。
今まで、緩やかに消耗しながらも彼がこの地に留まり続けたのは、
『───残された社や、氏子たちはどうなる?』
そう、それを憂いてのこと。
「彼らは凡俗です。御神の不在に気付くことはありません。回復の後、またここに戻っ
てくればよいでしょう」
『とはいえ、私の回復には長い時間が───』
「いた仕方ありません」
ぴしゃり、そう断言する。
ここで言い淀んでは説得にならない。たとえ社を数百年間空けることになろうとも、
産土神の系譜を絶やすわけにはいかない。
こんな時の殺し文句を述べる。
「彼等が望むのは御神ではなく、『願いを叶えてくれるかもしれない何か』なのです」
言いながら、詭弁だと自覚していた。
神無しの社が数百年も信仰の対象たりえることはない。神は神として、『そこに居
る』という確かな安心感か、稀に起こす奇跡によってのみ、信仰を集めることができる
のだから。
果たして、彼が戻ってきた時、この社がまだ維持されている確率は、極めて低い。
『───少し、考えさせてくれ』
「よいお返事を期待しています」
その時、俺の後ろでガランガランと本坪鈴の音が鳴った。続いて、拍手が二つ。
振り返ると、格子戸の向こうで、先の少女が、こちらに向かって手を合わせているの
が見えた。
「今日も、平穏無事異常なしでありますように!」
本殿に響く、大きな声。
実際の声ではない。神域の中の神子聞きには、心の声も聞こえるのだ。
『いい子だろう。ああやって毎日、村の安寧を願っている』
声はそう言った。
目を細めて、わが子を見守るような口調。
『彼らには、本当に長い間、何代にも渡り世話になってきた。今の私が在り、社が保た
れているのは、全て彼らのおかげなのだ』
「存じております」
見れば判る。
供物も、掃除も、施設補修も。これだけ小さな村で、これだけ大きな神社を維持する
ことがどれほど大変だったか。
『───あれの父が病でな。社を去るなら、その前に助けてやりたいのだが』
俺は即答する。
「いけません。そんなことをすれば御神は神通力を失い、消えてしまいます」
『いや、そもそも、私の神通力など既に失せているも等しい。無理なんだ……』
吐かれた言葉には、諦観が混じっていた。
哀れに、なんておこがましいが、その時俺はそんな気持ちだったのかもしれない。
「では、俺が一度その父親を診てみましょう。何か判るかもしれない」
神は遠慮せずそれに乗ってきた。
『是非、頼む』
俺は足を崩して立ち上がり、先の少女を呼んだ。
「宮司さんと話がしたいんだが、ご在宅か?」
案の定、少女は少し困った顔をした。
「いえ、その……父は少し具合が悪くて……」
「話ができればいい。少しでいいんだが、ダメか?」
少女は散々迷ったようだが、せっかく外から来たのだから、ということで、病の床に
伏せる父親の元へと案内してくれた。
社務所の奥がそのまま彼女らの住居になっていた。
その一室で、青い顔をした年配の男性が横になっている。
「突然すみません、この神社の由来についてお聞きしたく参りました」
……などと当たり障りの無いことを述べつつ、男性を観察する。
すぐに、わかった。
首元から胸にかけて、黒いシミのようなものが蠢いている。
ケガレ、だ。
通常、こういったケガレは神域には寄り付かないものだが、ここの神はよほど弱って
いると見える。
ケガレは、人には祓うことはできない。
それができるのは大きな神通力を持った神だけだ。
つまり結局、
俺も、かの神も、何の役にも立たない、ということが判っただけだった。
『───神とは、無力なものだな───』
父親の容態を伝えた時に彼が漏らした声は、ため息が聞こえそうなほどの落胆。
『八百万柱もいれば、中にはこんな役立たずも居る、ということか』
「決してそんなことは」
言いながら、そうかもしれない、と思った。
そもそも、神とは人とは違う存在であって、人に干渉することを是とも否とも考え
ないものだ。だからこそ、その所業に人は恐怖し、敬い、畏怖の念を持って接する。
役立つか否かは人の視点からの認識だ。神の視点からではない。
なのに。
どうしてこの一柱は。
「失礼ながら、どうして御神はそこまでこの社杜を気にかけるのですか。たかが人の
所業ではありませんか」
俺の言葉に、かの神は小さく笑ったようだ。
『人の君がそれを問うかね』
俺は黙って次の言葉を待つ。
『君は、必要なのは神ではなく、「願いを叶えるかもしれない何か」だと言ったな』
「はい」
『だとしても、だ。見えもしない何かを信じるなんて、粋な考え方だとは思わんかね』
「………」
『私は、人のそういうところが興味深くてね』
「………だからといって、いつまでもここで人に寄り添っていることはできません」
『わかっている、わかっているさ。ただ、見返りもなく私を世話してくれた彼らに、
ちょっとした恩返しをしたいだけなのだ』
無理です、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
この瀕死の神に、一体何ができるだろう。
「───今の御神のお力では、キセキを一つ起こすことも難しいでしょう。是非ご自愛
下さい」
それだけ吐くのが精一杯だった。
彼は返事をしなかった。
「明日、もう一度伺います。その時までに、ご決心を固めておいて頂ければ」
返事を待たず、俺は席を立つ。
あの様子なら、大人しく遷社に従ってくれるだろう。
無理をしてケガレを祓おうとしても、その力がなければどうしようもあるまい。
今回は楽な任務だったな、と。
まだ終わってもいないのに、俺はそんなことを考えていた。
「この村に、旅館のようなところはあるかい?」
参道を掃いていた少女をつかまえてそう聞くと、彼女は首を横に振った。
「いえ、この村には宿は……」
だろうな。
「では、軒下を貸してくれ。寝袋は持ってきてるから」
少女は少し考えて。
「冬の夜は冷えます。よければ、社務所にお部屋を一つ、用意します」
願ってもない。屋根のあるところで寝れるなんて。
「助かる、ありがとう」
社務所に向かって歩き出した少女の、後ろから。
「───お父さんのこと、神様にお願いしないのか?」
ふと、そんなことを聞いてみた。
先に聞いた少女の願いは、村の安寧だった。
病気の父の回復くらい、願ってもいいんじゃないか。
「───父が、」
少女は振り返って、少し堅い笑顔で言う。
「うん?」
「父が、そういうことはするなって。神様は忙しいんだから、神社の人間が神様を
煩わせちゃダメだって言うものですから」
その時俺は、毒気を抜かれたような顔をしていたに相違ない。
「おかしいですかね、神様に一番近い人間が神頼みをしないなんて」
気配りというか気遣いというか……。
この社は、神も人も、思いやりに満ちている。
こんな社杜だからこそ、ここの神は長きを生き延びてきたのだろう。
「いや、神様だって休憩は必要だろう。そういう気遣い、大事だと思う」
俺がそう言うと、少女は小さく微笑んだ。
翌朝。
目覚めるとすぐに、昨日とは雰囲気が違うことに気付いた。
周囲に満ちていた神気が全く感じられない。
本殿の神の気配さえ───。
「しまった!」
慌てて部屋を出ると、すぐに男性に───少女の父親に出会った。顔色は悪いが、
浅黄色の袴を身に纏い、しっかりとした足取りで歩いていた。
「おお、これはおはようございます。昨晩はよく眠れましたか?」
「おかげさまで……もう起きてよろしいのですか?」
「ああ、今日は朝から調子がよいので。久しぶりに境内の掃除をしようかと」
胸のケガレは一掃されていた。
誰が、一体どうやって?
本殿に駆け込むと、かすかに気配がした。
『おや、君か。どうかね、彼は元気になっただろう』
消え入りそうな声が聞こえる。
音圧に反比例して、嬉しそうな声。
「やはり、あなたが……」
俺は唸る。
しかし。
「どうやって!? 御神にはもうそんな力は……」
『なに、ちょっと近所の「知り合い」にも協力してもらってな。彼らも、この神社には
世話になってきたから、快く力を貸してくれたよ』
気付けば、この境内だけではない。村に漂っていた神気もほとんど消えている。
残った神々が総力を結集して、あのケガレに立ち向かった、と?
その結果、一体何柱の神が消えたことか。
「なんてことを……」
『君には悪いが、私はとても満足だよ。最後に彼らに恩が返せたからね』
急に遠のく声。
『くれぐれも、このことは彼らには内密にな』
雑音交じりで、もう殆ど声は聞き取れない。
『ああ、それと、』
最後に、ぽつり、と。
『ご馳走様』
それだけが聞こえて、それで、完全に神気は消えた。
足元には、昨日持ってきた神酒の瓶が、空になって転がっている。
自らと、周囲の神々の神通力、加えて神酒も全部使って。
彼らは、最後にキセキを起こし、
そして消えてしまった。
「なんてことを……」
もう一度、そう呟く。
神とは、なんと人らしい存在なのか。
恩を忘れず、同情し、慈しみ、自己犠牲を持って相手に幸を成す。
多分、住む世界が少し違うだけなんだ。人より少しだけ自由が効く、神とはつまり、
それだけの存在なんだろう。
時には無慈悲に人を見捨てるくせに、時には人へ無条件に献身する。
人は多くの場合、それに気付かない。
「報われないのに」
そう呟いて、俺は肩を落とした。
ガランガラン。
本坪鈴の音に振り返ると、少女とその父、二人が手を合わせるのが見えた。
父が回復した後、あの子は何を願うのだろう。
少女の心の声が、本殿に響く。
「この神様と、いつまでも一緒に居られますように!」
そうか……。
そうなると、いいな。
多くの場合、神の所業は報われない。
でも、ここでは。
ここでは、そんなことはないんじゃないか。
たまにはそういうことがあってもいい。
やれやれ、参ったな。
なんて上に報告したものか。
本殿の真ん中で、俺は頭をかいた。
<了>