「最後の言葉」 進行豹 re-written by KAICHO
殆ど書き終えた原稿用紙を前に、老作家は独りごつ。
「あと、一文だけだというのに」
たったの一文。
どう長くても、百文字にも満たない、それだけの言葉たち。
それがどうにも――どうしても書けず、彼は時間を浪費していた。
「書きたいものだ。最後を締めくくるに相応しい一文を」
切望した。
かつては呼吸するよりも、歩くことよりも楽に出来ていたはずの行為を。
すべての言葉に、意味がある。
書き記し、残した――本当に全ての言葉に。
彼にとって、それこそが自負であり、誇りであった。
『不要な語を書くな』、と。
とうの昔に鬼籍に入った師匠の簡明な教え。
それは読者を惑わすだけだからだ、と理解している。
それを、かたくななまでに守り抜いてきたそのことが、そのまま彼の作風を形作って
きた。
全ての言葉は、そのまま物語を形作り。
全ての描写は、世界を、登場人物を掘り下げ。
そして全ての設定は、テーマを浮かび上がらせる。
「全く贅肉の無い文学」
彼の処女作の書評は、そのままその後の彼の作品群全てにも流用できるものだった。
老作家は遅筆であった。
初稿は早いが、修正に膨大な時間をかけてしまうがためだ。
『ああ、なんと美しい! 薄白葉の散る様は、大寒の降雪と見まごうばかりだ!』
どうということが無いこのセリフさえ、彼にとっては極めて悩ましい原石であった。
『美しい……!』
これだけで十分なのではないか?
だがしかし、それだと台詞の主───詩人らしさが出ないのでないか?
いや、詩人らしさはここまでで十分強調してきているはずでは?
いやいや、そこであえて装飾過剰になることで、秋の山林への畏怖の気持ちを表現で
きるのではないか?
――削ること。
言葉という原石にノミを入れ、理想の形に掘り上げることは、かくも難しいことで
なのである。
「ただ書くだけならば、容易い」
遅筆を咎められるたび、彼はそう口にした。
実際、彼にとって、ただ書くことは確かに容易いことだった。
無意味な語を連ね、原稿用紙の升目を埋めるだけでよいのであれば、一日に百枚でも
二百枚でも書き飛ばせただろう。
しかし――
“生活のため”と称して、そのようにして“一枚いくら”の原稿料を稼ごうとする
作家の類とは、彼は明確に一線を画していた。
「生涯は短い。書ける作品の数には限りがある」
デビュー間もない時期から、彼が公言していたことだ。
「ならば、納得いくまで作品の細部を練りこまぬことは、生涯を浪費するに等しい」
神は細部に宿る、と。
無論、そのような態度は反発を招く場合もあった。
「奴は日本語職人だ。作家じゃない」
ある作家が寄せる書評は、決まって手厳しいものだった。
当時を煌くミステリ作家だった彼曰く。
「本当に書きたいものが、魂が叫ぶ言葉があるのであれば、枝葉末節にあそこまで
こだわってはいけない」
そんなに嫌いならば、書評など引き受けなければいいのに、かの作家は、ことある
ごとに、彼の作品の書評を──決まって酷評を──寄稿した。
ある文芸誌の編集者が、彼に「反論はないか」と持ちかけてきたことがある。
彼の見地からその作家の対抗書評を書く、あるいは、直接対談の席を設ければ面白い
のではないか、と。
しかし、彼は一言たりとも反論しなかった。
“生涯に書ける作品の数には限りがある”ためだ。
そんなことに構っている時間はなかったのだ。
ともあれ、少々考えこみはした。
(果たして自分には、“本当に書きたいもの”がないのだろうか?)
確かに彼は、仕事を選ぶタイプではなかった。
悲劇も、喜劇も、ミステリも、SFも書いた。
ショートショートも、短編も、大長編も書いた。
酷評を受けたため一度限りのこととはなったが、ポルノを書いたことさえあった。
大ヒットを飛ばすようなタイプではなかったが、しかし、書けば必ず一定数は重版と
なる――つまり、固定読者に支持されている作家であったがため、執筆依頼が絶える
ようなことはなく。
そして、完成を待ってさえもらえるのならば――求められるものを書くことが、彼の
喜びであった。
(なるほど、確かに私には“本当に書きたいもの”が無いのかもしれない)
彼が物語を書く動機。
それはひとえに、“喜んでくれる読者がいると知っている”――ただ、それだけに
由来していた。
彼は、若い時から生涯変わらず、まったくもって口下手であった。
表情は変化に乏しく、ごくまれに笑みを浮かべれば、「あの先生は時々何かたくらん
でいるようなニヤニヤ笑いをする」と酷評される始末であった。
背は低く、腹は出、髪は薄く、強度の近視のため、目つきは極めて悪かった。
身なりに気を配るような気もなく、彼の普段着――部屋着も外着も同じ――からは、
洗ってない犬の匂いが漂っていた。
友人らしい友人もなく、妻はおろか、恋人の一人を持ったこともなかった。
金銭的には困窮していなかったが、金で偽りの愛を買うことはなかった。
誰かを攻撃することで同調者を求めることもなかった。
編集者との付き合いでさえ、「原稿、金銭、権利、スケジュールに関するやり取り」
の外に出ることは一度もなかった。
つまり。
彼は――常に独りだったのだ。
そんな彼にとって「自分の書いた物語で、誰かを喜ばせることができる」という事実
は、間違いなく、彼が誇れるたった一つの奇跡だった。
だから、書いた。
出来る限り丁寧に、注意深く言葉を組み上げ続けた。
褒められても、蔑まれても、売れても、売れなくても。
文芸誌が休刊になり原稿料が入らなくなっても、長年やり取りしていた編集者から
手のひらを返すようにして切られても。
雨が降ろうと風が吹こうと大水が出ようと地震になろうと、親兄弟の葬式の日にさえ
――とにかく、書いた。
書いて直した。
丁寧に。
書くことが、そして書いたものを直すことが、彼の人生そのものだった。
他には、何も求めなかった。
書いて、食えればそれでよく。
――食わずに書けるものならば、食うことさえも、おそらく求めずに書いた。
彼は、そういう作家であった。
そうして四十数年、そういう作家で在り続けてきた。
「ふぅむ」
しかし、その彼が、今、たった一文を書けずにいる。
「思い上がっていたのだな。『書くだけならば容易い』などと」
実際、そう自分を振り返るほど、老作家は衰えていた。
かつては思いをそのまま文字に落としてくれた指先は、今は震えて、一文字を記すこ
とさえ満足にはさせてくれなくなっていた。
人間の良心も悪意も等しく見通していたその目は、緑内障に侵されて、もはや失明も
時間の問題となっていた。
言葉の裏に潜む真実も嘘もごまかしも善意も悪意も、余さず聞き分けていたその耳
は、目覚まし時計のベルさえも聞き取れなくなってしまっていた。
「しかし。書き始めたのだ。書き終わらねばならぬ」
それは、彼の作家人生全てへと告げられる言葉であった。
老作家は気づいていた。
この原稿を書き上げた後、自分はもう二度と、物語を紡ぐことができなくなろう。
いや、ペンを手にして文字を書く、それだけのことさえ、恐らくはできなくなってし
まうであろう、と。
「書きたいものだ。最後を締めくくるに相応しい一文を」
再び、同じ言葉を呟いた。
「あと、一文だけでいいのだ」
それがどうにも――どうしても、書けずに時間を浪費していた。
「これだけ望んでいるのだ。気力なら十分のはずだ」
彼にとっての、最後の一遍。
それは、新しく創刊される文芸誌の編集に依頼された、何年かぶりの長編であった。
彼の作品をろくに読んだこともないであろう若い編集者からの依頼を、しかし、彼は
快く引き受けた。
いつだって、彼はそうしてきたから。
その直後――彼の体は急速に衰えはじめたのだった。
既に締め切りを二日過ぎている。創刊号の発刊に間に合わせるには、なんとしても
今日中に作品を書き上げる必要があった。
だから、書きたかった。
彼の遺作となろう作品を、どうあっても、書き上げたかった。
(恐らくは、彼らは私の遺稿を手に入れ、追悼特集でも組みたいのだろう)
そんな皮肉な気持ちもわいてこないではなかったが、それならそれで、至極光栄で
あるようにも思えていた。
「あと一文」
気負っているつもりはない。
思考をできるだけの知性も、ペンを持つだけの体力も、まだ残っている。
ただ、書けばいい。
書いたあと、直すことだって、恐らく、出来る。
自分の作家人生の、最後の一文。
こだわりぬいた文章表現を締めくくるためのその言葉。
それは、すぐそこにあるようで――だからこそ、書き出せないのかもしれないとも
思えてきた。
「日本語職人、か」
遠い昔に目にした言葉が、まぶたの奥に不意に浮かび上がってくる。
「なるほど、言い得て妙だったのだな」
自分の作品を酷評し続けたあの作家が、何故か、懐かしい。
その時、電話が鳴った。
震える手で受話器を持ち上げると、相手は、この作品を待つ若い編集者だった。
「先生、進捗は如何ですか」
「ああ、あと最後の一文だけだ」
そう伝えると、電話の向こうの声は安堵の色を帯びる。
「そうですか、でしたら、明日お宅に伺ってもよろしいでしょうか?」
彼がたった一文にどれだけ長大な時間をかけるかを知らない若い編集者は、原稿の
完成を間近と捉えてそう言った。
「ああ」
その時に限って、すらりとそんな返事が出た。
いつもであれば、そんな不確かなことは言わないはずなのに。
「そういえば、ニュースはごらんになりましたか?」
編集者は、思い出したように別の話題を口にする。
「先日、イシヅカ先生が亡くなったそうなんですよ」
「イシヅカ……誰だったかな?」
「ほら、よく先生の作品について、手厳しい書評を書いてた人ですよ」
「───ほぅ」
そう言われて、気付く。
そういえば、あの作家はそんな名前だったかな──。
そうか、彼は先に鬼籍に入ったか。
電話を置いたあと、机の隅に目をやる。
そこには、数日前にイシヅカという差出人から届いた封書が一つ。
相手が判らなかったために、開封していなかったのだ。
自由の効かない手で、それを開く。
出てきたのは、たった一枚の便箋。
そこには、最後の力を振り絞り、震える手で書いたと思しき、大きな、文字。
『私は、あなたの作品のファンでした』
ぽかん、と。
あいた口がふさがらない。
ついで。
すう、と。
その言葉が、心に染み込んでいく。
あの辛辣な書評の真意は。
つい言葉を厳しくしてしまうほどに、かくもかの作家は、私の作品を読み、私の作品
を好いていてくれたのだ、と。
酷評の山の果てに頂いた、氏の最後の言葉。
それは確かに、かのミステリ作家の末期に相応しい、最後の最後のどんでん返し。
なんと、見事な───。
自覚する。
言葉の力を、その恐ろしさと――素晴らしさを。
かの作家の残した作品の一部には、未だ再販がかかり続け。
ならば確かに、彼の言葉には時を超えて残る価値があったのだろう。
その作家をして、“日本語職人”と言わしめ、彼をファンとするほどの作品を書き
続けてこれたというのなら――それは、誇るべきことなのかもしれない。
だが、彼は気付いている。
彼自身の誇りなど、何の意味もない。
「私は、作家だ。余計な肩書きのひとつもない、ただの物書きだ」
作品を作る。
依頼してくれた出版社――編集者のためでは、決して無く。
それを、読んでくれる人のため。
ただそれだけのために書き続け、こだわってきた。
そうして、読み手が少しでも楽しんでくれればそれでいい。
「読み手が気にかけるのはただ一点。『面白いか、つまらないか』――」
すうっと、肩が軽くなり。
彼は、今まで自分が気負っていたのだと知る。
『自分の作家人生の最後を締めくくるに相応しい一文』だなんて。
考えてみれば、滑稽だった。
そんなことは、読者には関係のないことだったのに。
読者にとって、その作品が面白いのかつまらないのか――
それは決して、作家にはコントロールできないことである。
そして、それを気にするのは、これを書き上げた後でいい。
「面白いと思ってもらえるのならば僥倖だ」
ベストは、すでに尽くしてある。
なら。
「──よし」
さらり、と。
あれほど苦しんだ最後の一文、最後の一語が、原稿用紙の上に黒々、書き上がる。
「ふぅ……」
老作家は、長い、長い息を吐く。
老眼鏡を外して瞼をもみ、ゆっくりとまたかけなおす。
そして、自らの作家人生に終止符を打つ、最後の言葉に目を落とす。
――これなら、直さなくていい――
――そんな必要はどこにもない――
心の底からそう感じ、老作家は、やがてゆっくり、満足そうに一つ頷いた。
<了>