「リメンバー・リグレット」(山田沙紀)(リライト担当:糸染晶色)  薄暗いバーの店内。5人も座れば満席になってしまうカウンターの内側で店主が黙々と グラスを磨いている。客の姿はないが、店主はそれが当然かのように手を動かし続けていた。  まるで時が止まったような静寂に鈴の音が割り込んできた。重い扉を開き、陰が落ちた店 の中を覗き込む黒いスーツ姿の男。手を止めた店主と男の目が合った。 「今、準備中ですか?」 「いえ、開いてますよ」  店主が答えると、男は安心した様子で店内に体をすべり込ませ、滑らかな動きでカウン ターの席に着いた。 「よかった、あまりに静かなものだからもう終わっちゃったのかと」 「いえいえ、まだ夜はこれからですよ。もっとも、この店ではお客さんはいつもこんなも のですが」  店主は自嘲気味に笑みを浮かべる。 「別に悪い意味で言ったんじゃない。俺好みのいい趣味してる。イカした店さ」 「そう仰っていただけると。まだ店を開いて半年かそこらですので」 「ま、とりあえず、そこのウイスキーをロックで」 「かしこまりました」  透き通ったグラスにかち割りの氷。そこに琥珀色が満ちていく。  流れるようにその一杯がカウンターへ差し出された。  それを片手に弄りながら男は頬杖をついて店主に話しかける。 「今日は世間じゃクリスマス、どこもかしこも浮かれ上がっちゃいるが、俺の気分には  どうも合わねえ。こんな店があってくれて助かったって思ってるぐらいだ。最期に酒を  呑むには最高の店だよ」 「最期……に?」  軽い男の口調に混ぜられた不穏な言葉に店主が反応する。 「まあ、そんな怪訝そうな顔をしないでくれよ。そうだな、ここで会ったのも何かの  縁だし、 聞いてくれるかい、マスター?」 「いいでしょう、お客様のお話を伺うのもまた私の仕事でございますから」  男はウイスキーのグラスを傾け一口含むと、おもむろに語り始めた。 「俺はよくも悪くも、まあ自分でそう思ってるだけかもしれないが、普通の家に生まれ  普通に育った。学校では大して目立つこともなく、かといって落ちこぼれるわけでも  ない感じで、な。中学のころには違うクラスの女子から告白されて付き合ったことも  あったんだが、そのころは付き合うって言っても何をすればいいのかわからなくって、  帰りに寄り道をして何回か遊んだ後に振られちまった」  店主は空になったグラスを自然な動きで交換する。それを男は受け取りながら飄々 と話を続ける。 「それから高校になってサッカー部に入ったんだが、大して強くもない学校だったんで  みんな練習に身も入らずに結局大会では一勝もできずに終わったんだよ。まあ、実際  どこの学校でもたいていはそんな感じなんだろうな。どんな分野であれ、世間に注目  されるのは、実力のあるほんの、ほんの一握りの人間だけで。俺らみたいな普通の、  ただ思っているだけの人間は、結局そこまでなんだろう」  話も酒も、男のペースは止まらない。そして、店主もまた男に話に一切割り込むこと なく、ただ話を聞いて、グラスを取り換えるだけが仕事であるかのようにふるまい続ける。 「大学は第一志望に落ちて浪人したんだが、結局同じ第一志望に落ちてしょうがなく滑り  止めで受かった大学に行った。そこから4年間も適当に過ごして何とか卒業して就職  したってわけだ。な、普通だろ? だが、ここからがよくなかった。しばらく仕事を  してから、高校時代の同級生に会った。サッカー部の部室で、一緒に駄弁っていた奴だ。  そいつは、高校を出てから大学には行かずにすぐ就職して、それなりに出世して稼いで  いたという。そして、近々独立して会社を興すんだと言った。そして、俺に「一緒に  やらないか」と声をかけてきたんだ。その時の俺は会社ではまあやっぱり普通の成績で、  優秀な同期が昇進していくのを傍目で見ていたもんだから思ったね、これはチャンス  かもしれない、って。声をかけられた次の日、会社に辞表を出してやった」  そういった男の顔は、どこか誇らしげだ。 「それから二人でいろいろと準備をしていった。事務所の下見をしてみたり、奴の知り  合いで将来の取引先だとかに顔を繋ぎに行ったりしたな。最初は小さい会社だけども  ゆくゆくは成功して会社が大きくなっていけば、俺も会社の重役だ。そうしたら、普通  の人生とはおさらばできるって思っていたんだ。そう、思っていたんだった。会社を  辞めて数ヶ月後、突然そいつと連絡が取れなかった。電話には出ないし、住所だと聞い  ていた場所は空き地、つい数日前に借りたと言っていた事務所はもぬけの殻だった。  しかもそれで終わりじゃなかった、取引先と聞いていた相手は借金取りで、いつの間に  か俺はあいつの借金の保証人にされていたんだ。早い話が、俺は裏切られた。後々聞い  た話によれば、そもそもあいつは高校を出た後はろくに働きもせずに、遊んで暮らして  いたらしい。あいつは初めに、俺に話を持ち掛けてきたときから俺を騙すつもりだった  んだ。高校時代は仲が良かったと思っていたんだが、どうやら向こうは何とも思ってな  かったんだろうな。笑っちゃうだろ、マスター?」  話が一段落ついたのか、男は店主に同意を求めたが、店主は肯定も否定もしなかった。 その店主の様子に、男はつまらなそうに口を尖らせながらも、再び話し始める。 「借金取りに目をつけられた俺は、簡単に逃げることもままならなかった。なにせ貸した  当人には逃げられているものだからな。俺が会社に勤めていたころに貯めた分じゃまるで  足りず、俺はあっという間に素寒貧になった。新しい仕事は探したが、そう簡単に  見つかるはずもなく。ヤケになってな、そう……死のうと思ったんだよ」  そこで初めて、店主の表情が少し動いた。その極僅かな反応に男は小さく笑い、声の トーンを上げる。 「その日はちょうど一年前。今日と同じクリスマスイブの夜だった。なんでクリスマス  イブに死のうと思ったかって? 周りが浮かれていればいるほど、自分の惨めさが身に  沁みるからだな。それに、どうにも年は越せそうになかった。そんな時、最期に酒でも  呑もうと入ったバーの親父さんがいい人でな、俺の話を飽きもせずに聞いてくれたんだ。  ちょうど、今のあんたと同じだな。そして、親父さんは親身になって、俺を励まして  くれた。そのおかげで、俺は今もこうして生きているってわけだな」  男の話が途切れ、ずっと黙っていた店主が口を開いた。 「なるほど、そのバーの親父さんは確かに今の私と同じですが、私よりずっと素晴らしい  方だったんだと思います。しかし、まだ最初の疑問が残ってます。あなたは、今日も  最期の酒を飲みに来たとおっしゃった。あなたは親父さんに励まされ、立ち直ったので  はないのですか?」  ウイスキーのなくなったグラスを揺らしながら、男は店主の方を見ずに呟く。 「俺は運命とか神様とか、そういうのは全然信じちゃいないんだけどさ、でも昔は思って  たんだよ、何か悪いことがあれば、いつか逆にいいことが起こる。あるいは、今苦労  していることが、いずれ何かの糧になる。誰かに裏切られたとしても、きっと助けて  くれる誰かがいる。……でも、そんなことはなかった。悪いことは立て続けに起きる  ものだし、そこで手助けしてくれる人なんていなくて、それを利用する奴ばっかり  だって。誰だって、弱っている人間を叩くのがふつう、そう、普通なんだよな。一度  ついちまった順番は、そう簡単には覆らない。でも、俺にやさしくしてくれる親父さん  を見て俺は思ったわけだよ」  そこで男は顔を上げ口の端を吊り上げ、さも世界の真理を語るかのように、それが当然 とでも言わんばかりの自信を込めて声を出した。 「……今なら、親父さんを裏切れるんじゃないかって」  店主の顔が険しくなる。 「な、最低だろ? 初めに騙されたとき、騙された俺は間抜けだったかもしれないが、  しかし悪いのは俺を騙した奴だと思ってた。でもあの瞬間思っちまったんだよ、無防備に  俺に背を向けている親父さんを見ているうちに、な。そして気が付いたら、俺は  カウンターを乗り越えて後ろから親父さんの頭を、こう」  男は右手を振り上げて素早く振り下ろす。その動きに、店主はカウンターの内側へ後 ずさった。男はそれを見ておかしそうに笑う。 「その店は小さな割に、結構な現金が置いてあってな。それ以外にも金目の物を見繕って  俺は逃げ出した。だってそうだろ、どうせ俺が死ぬはずだったんだから、死ぬ人間が  変わったぐらい大したことじゃないんだよ。幸いにして俺は疑われることなく、事件は  今でも未解決のままだ。親父さんから奪った金で、人生をやり直せるはずだった。  もはや普通の人生を拒みはしない、最悪でない人生を送るつもりだった。まあ、話は  最後まで聞いてくれよ、マスター。おれはマスターの疑問にはまだ答えきってはいない  んだぜ?」  醜悪な告白を変わらぬ口調で語る男に、店主はあきらめた様子でため息をつく。 「仕方ありません、聞いてしまったのは私ですからね。あなたがそう仰るのでしたら、  その口からどんな世迷言を紡ぎ続けるのか、最後まで聞かせてもらいますよ」 「そうしてくれると嬉しいね。といっても、落ちはもうすぐさ。結論から言えば、  俺はやり直せなかった。以前騙されたことを見透かされたのでも、親父さんのことが  ばれたわけでもない。なのにとにかく何をやってもうまくいかなかった。だから、酒と  賭け事にはまり、そこでもやはり負け続きで気が付くと今度は自分でこさえた借金が  増えていた。そう、結局逆転の目なんて出目は、人生のサイコロにはついてないん  だろうな」 「それで今日……なんですか」 「ああ、普通の人生の幸福を象徴するようなこの日こそ、最低の人生を埋もれさせるには  ちょうどいい日だ。さて、そういうわけでマスター。悪いが俺は持ち合わせがない。  さっきの話が代金ということでどうだろう」 「最後まで実にふざけたことを仰いますね。ですがその分の価値があったことは認めま  しょう。もう二度と会うこともないでしょうが、私からの餞別ということにしておき  ますよ」  店主の言葉に男は乾いた笑いを上げて立ち上がった。  鈴の音とともに男が去った後には元の静寂が残る。 「確かに、長年探していたあなたがひょっこりと現れるとは思いもよりませんでしたが、  これもまた偶然という名の奇跡なのでしょうね。実に、実に清々しい気分です」  そして店主は自分の頭に手をやる。その後頭部にはいまも縫い跡が残っている。  あの男は今夜誰に見届けられるでもなく死ぬのだろう。  店主は暗い笑みを浮かべて別のグラスにウイスキーを注ぐと、男の残したグラスに打ち鳴らす。 「聖なる夜に、乾杯」