『待ち人、来たらず』 by KAICHO
深呼吸をすると、鼻膣に淡い潮の香りが残った。
冬だというのにうらららかな日差し。五分もすれば汗ばむ程の小春日和の中、私は、
港の中を歩いている。
目指すのは、小さな埠頭へとかかる幅広の橋。
中央の踊り場にある木のベンチの隅に、人待ち顔の婦人が、今日もまた座っている。
歳は私よりも少し下。気品ある佇まいと、質素だが清潔感のある服装は、初めて
出会った時の印象そのままだ。
「おはようございます」
「あら、おはようございます」
私が声をかけると、婦人はこちらを見て柔らかく微笑む。
と同時に、小首を傾げた。
「はじめまして……でよかったでしょうか?」
私は軽く首肯。
「はい、はじめまして」
その言葉に、婦人はほっとしたように微笑みを強くする。
「ああ、よかった! 最近物忘れが酷くて、よく失礼をしてしまうことがあるので」
「そうですか、実は私も時々あるんですよ。お互い、もう歳なのかもしれませんね」
私はそう答え、ベンチの反対の端に腰を下ろした。
そのまま、婦人と二人、海風の吹く方を見る。
埠頭の向こうには、青く広がる穏やかな海。太陽が反射して水面がきらきらと輝いて
いた。人影もまばらな港には、時折響くかもめの鳴き声以外には耳障りな音もなく、
静かな潮騒が私たちを包む。
本土との連絡便は、一日に一本だけ。
埠頭を見下ろせるここは、連絡便で旅立つ者とその帰りを待つ者にとって、待合室の
ような場所になっていた。いつからかベンチが置かれたのも当然だ。───ただし、
たった一つのこのベンチに二人以上が腰掛けている様を、私は見たことがないのだが。
「───どなたかを、お待ちなんですか?」
何かを期待して、婦人にそう聞いた。しかし、帰ってきた答えは予想通りのもの。
「主人を、待っているんです」
婦人は、前を向いた視線を動かさずにそう呟いた。
「しばらく前に、本土に出稼ぎに出まして。その帰りを待っているんです」
「そうなんですか」
私は極力感情を込めずそう答えた。
「六ヶ月間、という約束でした」
「……長いですね」
「そう思っていました。でも、明後日でちょうど六ヶ月。だから、二日後には主人が
帰ってくるはずなんですよ」
「それは楽しみですね」
「楽しみが過ぎて、今日も出てきてしまいました。おかしいですよね、待っていても、
今日は主人は帰ってこないのに」
邪気のない婦人の笑顔が、私を捉える。何故か、どぎまぎしてしまった。
「いえいえ、そんなことは。ご夫婦仲が良いようで、羨ましいことです」
そんな会話をしていると、湾の向こうに連絡便の姿が見えた。小さな船体から
弱々しいエンジン音を立てながら、どうにかこうにか埠頭に近づいてくる。
埠頭に横付けした船から船員が降りて、舫杭にロープを巻きつける。
船からは荷物が一つ降ろされて二つ載せられ、乗客が一人か二人が入れ替わりに
乗降するのが見えた。
十分程で連絡便は作業を追え、再び弱々しいエンジン音と共に、ゆっくりと埠頭を
離れる。その姿が視界から消えるまで、婦人はじっとそれを見守っていた。
やがて、婦人はベンチから立ち上がる。
「───さて、では私はこれで失礼します」
「そうですか。どちらまでお帰りで?」
私の言葉に、婦人は少し離れた高台にある二階建ての小さな木造住宅を指差す。
「私、あちらの病院にお世話になっているんです。どこも悪くないって言ってるんで
すが、先生がどうしても、と仰って」
「先生が仰るのでしたらしばらくは従った方がよいでしょうね。お大事に」
「ありがとうございます、では」
踵を返した婦人は、二、三歩歩いた後急に立ち止まって振り返る。
「そういえば」
「はい?」
「あなたの待ち人もいらっしゃらなかったようですね、お気の毒です」
婦人の言葉に、私はつい微笑んでしまう。
「いえ、私はいいんです。待ち人にはもうお会いできましたから」
「? ……そうですか、それは何よりです」
婦人は一瞬『理解できない』という顔をしたが、詮索はやめてくれたようだ。
「では」
再び会釈して、婦人は去って行った。
翌日も、私は橋の上のベンチへと向かう。
「おはようございます」
「あら、おはようございます」
私が声をかけると、婦人はこちらを見てやわらかく微笑む。
と同時に、小首を傾げた。
「はじめまして……でよかったでしょうか?」
私は軽く首肯した。
「はい、はじめまして」
その言葉に、婦人はほっとしたように微笑みを強くする。
「ああ、よかった! 最近物忘れが酷くて、よく失礼をしてしまうことがあるので」
私は会釈だけをして、ベンチの反対の端に腰を下ろした。
───もう十年以上、私はこの婦人とそんな会話を続けている。
「───どなたかを、お待ちなんですか?」
「主人を、待っているんです。しばらく前に本土に出稼ぎに出まして。その帰りを
待っているんです」
「そうなんですか」
「六ヶ月間、という約束でした」
「……長いですね」
「そう思っていました。でも、明日でちょうど六ヶ月。だから、明日には主人が
帰ってくるはずなんですよ」
「それは楽しみですね」
婦人は微笑んで私の方を向く。
「主人は不器用な上にぶっきらぼうな人でしてね。村の人がみんな言うんですよ、『よ
くあんな男と結婚したものだ』って」
「ほう」
「でも、私は知っているんです。あの人は自分を表現するのが下手なだけだって」
婦人は再び視線を海の方に戻し、目を細めた。
「私が辛い時はいつも傍に居てくれましたし、私が困った時は必ず助けてくれました。
私は本当に主人に支えられている、と思うのです」
年甲斐もない惚気ぶりに、つい意地悪をしたくなってしまう。
「明日、とはいっても、ご主人、何かの事情で帰ってこれないかもしれませんよ?」
私の言葉に、婦人は急に凛として、また私に向き直った。
「いいえ、」
その眼差しは、真摯そのものだ。夫を信じて疑わない、そんな意思に溢れている。
「あの人は約束を必ず守ります。今まで一度だって違えたことはありませんもの」
婦人の強い言葉に、気おされながら、私は少し安心して。
「……や、これは失礼しました。少し言葉が過ぎましたね、申し訳ない」
私の謝罪に、婦人は微笑を取り戻す。
「いいえ、こちらこそ、少し感情的になりました、すみません」
そして、気付いたように口元を押さえた。
「あらいやだ、こんなこと、初対面の方にお話しするようなことではありませんでし
たね。ごめんなさい」
その様が可愛らしくて、私はつい噴き出してしまうのだ。
今日の連絡便を見送った後、彼女はすいと立ち上がり、私に向いて会釈した。
踵を返した婦人は、二、三歩歩いた後、立ち止まる。
「そういえば、あなたの待ち人もいらっしゃらなかったようですね、お気の毒です」
婦人の言葉に、私は、つと暗い気持ちになった。
「そう……ですね、一体いつになったらお会いできるのでしょう」
「どうかお気を落とさず。いつかきっとお会いできますよ」
「ありがとうございます、私もそう信じています」
婦人は精一杯の笑顔で、私を励ましてくれた。
しかし、その言葉は、ますます私の心を重くするのだ。
「では」
そんなやり取りの跡、婦人はゆっくりと歩いて、少し高台にある病院へと戻って
いく。
私もベンチから立ち上がり、大きく伸びをする。
明日は、何度目かの正念場、か。
翌日は、朝から冷たい雨になった。
小雨とはいえ、風を伴う冬の雨は体にこたえる。私は傘を持ってその橋の上へ駆け
つけた。
果たして、婦人はいつもどおり、ベンチに座っていた。
簡素なレインコートを身につけてはいたが、傘もささず、髪も服も濡れて、雨雫が
滴っている。
私はそっとその横に立ち、婦人を傘の陰に入れた。
彼女はそんな私に全く気付かぬように、食い入るように埠頭を見つめていた。
昨日とはうって変わって、どんよりとした雲が空を覆っている。海面は黒く逆巻
いて、風に煽られた飛沫が飛ぶ。
今日は、婦人の主人が帰ってくる、約束の日。
しかし、連絡便は小さな船だ。海が荒れると、欠航することがある。
婦人は、埠頭から目を離さない。
傘を持ったまま、私は時折ごうと唸る風に耐えた。
雨が彼女に当たらぬよう、風が彼女を冷やさぬよう。
風上に立って、彼女を守り続ける。
白い息が渦巻く風にさらわれて行くのに、じっと耐える。
そうして、しばらく。
到着時間を随分過ぎた後、連絡便の欠航を告げるサインが掲げられるのが見えた。
やはり、この天候では無理だったか。
諦められないのか、婦人は埠頭を見つめたままだった。
私も黙って、そんな婦人を見つめている。
更に時間が経ち、雨が上がって、雲の間に間に、薄い夕日が射すようになった頃。
「───なぜ、」
婦人が呟いた。
「───なぜ、帰ってきてくれないの?」
その横顔に、光るものがあった。
「約束、したのに」
雨粒なのか、涙なのかはわからない。
「あの人が約束を破ったことなんか、一度もなかったのに」
ふらりと立ち上がった婦人は、埠頭に向かって、何かを求めるように両手を伸ばす。
「何か、理由が、理由があるのかも───」
そのままよろよろと前に進んだ婦人は、手すりから身を乗り出すようにして───、
「危ないッ!」
私は彼女を後ろから抱き止めた。
下は海とはいえ、季節は冬だ。落ちればただではすまない。
服の上からでもわかるほどに冷え切った小さな彼女の体は、寒さからなのか絶望から
なのか、小刻みに震えていた。
ぼんやりと私を振り返った彼女の混濁した瞳。
それが私を捉える。
二、三回瞬きをした後、その瞳に、みるみる光が戻っていくのが判った。
「ああ、あなた!」
叫ぶと同時に、彼女は私の胸に飛び込んできた。
きっと、彼女の目には、私でない私が見えているのだろう。今の私よりもずっと
若い、そう、十年前、彼女と再開するはずだった私が。
「───ただいま」
私は精一杯の笑顔で、それを演じる。罪悪感など、とうに失せてしまった。
「遅い、遅いわ!」
「すまない、荒天で船が遅れたんだ」
私の胸に顔を埋めて泣きじゃくる婦人を、私は両腕で優しく覆う。私の腕の中で、
彼女の体の震えは収まり、体温が戻ってくるのがはっきりとわかる。
「でも、本当によかった」
婦人は私を見上げて、涙の光る笑顔でそう言った。
「だってあなたは、ちゃんと約束を守ってくれたんですもの」
「六ヶ月後、この場所で、だよね」
婦人は笑顔を益々濃くした後、つ、と私にしなだれかかった。
静かな寝息を立てて、眠ってしまったようだ。
眠ったままの彼女を背負い、岡の上の病院──サナトリウムまでの道を歩く。
道すがら、サナトリウムの先生から聞いた話を思い出していた。
かつて、あのまま彼女は橋から転落し、冬の海に落ちたのだ、と。
その時のショックで、自らの時を止めてしまったのだ、と。
今でも記憶に従って夫を待ち続け、そのうちに海に身を投げてしまうのだ、と。
それを何度も何度も繰り返すのだ、と。
そして、彼女を治す方法は、無いのだ、と。
あの日、天気が荒れたばかりに。
あの日、連絡便が欠航したばかりに。
あの日、私がたった一日遅れたばかりに。
それだけで、彼女の人生は壊れてしまった。
私の背中で安らかな寝息を立てる彼女の体は、一歩ごとに重みを増すようだった。
翌日、昨日の風雨が嘘のように、空は穏やかに晴れ渡っていた。
橋の上のベンチには、日溜りの中、何事も無かったかのように彼女が座っている。
「おはようございます」
「あら、おはようございます」
私が声をかけると、彼女はこちらを見て柔らかく微笑む。
そして。
「はじめまして……でよかったかしら?」
何度聞いても、私はその言葉に苛まれるのだ。
覚悟はもうできている。
この輪廻が終わるときまで、私は彼女のそばに居る。
せめて、失望の淵で海に沈むのではなく、夫との再開に喜ぶそのうちに、幸せな
輪廻が続くように。
病める時も健やかなる時も、互いに敬い、愛し、支えあって生きる。
それが私と妻との、約束なのだから。
<了>