『彼の吊り橋』 re-written by KAICHO

「やっと、完成だな」
 目覚めて最初に聞いたのは、そんな言葉だった。
 気付けば、わしは小さな川を跨いでいた。
 谷間に渡した二本の鋼線にしがみつくようにして作られた、吊り橋。
 わしはつまり、その吊り橋だった。
 風が吹けばゆらりと揺れるわしの中央で、彼は欄干に身を預けて何かぶつぶつと
呟いている。
「できてみると、なかなか男前じゃないか」
 彼はわしの体を何度か撫でて、満足げにうなづいた。
「遊園地への通路としてはちょいと地味だが、うん、趣がある。俺が面倒をみてきた
中じゃ一番だ」
 三十路といったところか。よく焼けた手足の引き締まった筋肉。上下ツナギの作業服
のあちこちに開いたポケットからは、スパナだのモンキレンチだのワイヤーアンカー
だの、大きめの工具がそこかしこに顔を覗かせていた。
「これからは、俺が点検担当だ。よろしくな」
 彼はわしをぽんぽんと叩いてそう言った。
 よろしく、と言われても、わしに返事はできない。
 返事代わりに、ぎぎッと体を軽く軋ませてみる。
「はは、わかってるみたいじゃないか」
 彼はうれしげに微笑んだ。

 一ヶ月後、対岸の遊園地がオープンとなった。
 小さな駅から降りてきた人々が、わしを渡って、遊園地に吸い込まれていく。
 人々の笑顔が、眩い。
 子供たちは風船を手にはしゃぎまわり、大人たちは目を細め、それを愛おしげに
眺めている。
 そんな人々の中に、彼の姿もあった。
 妻と思しい女性と、娘と思しい小さな女の子を連れて。
「どうだい! これは俺が作った橋なんだぜ!」
 彼は誇らしげに二人にそう言い、妻はそれに微笑んで、娘はわしの上で笑顔で
走り回った。少女がぴょんぴょん飛び跳ねる度に、わしはぎしぎしと音を立て、ゆら
ゆらと揺れる。それが面白いのか、少女は益々はしゃぐのだ。
「そのくらいじゃこの橋はびくともしないぞ!」
 それは、自信と、誇りに満ち溢れた言葉。
 わしを作り、点検担当となった彼は、それをよく知っている。事実、少女が一人
飛び跳ねたからといって、わしが落ちるようなことは決してない。
「さぁ、遊園地に行こう! 今日はめいっぱい楽しむぞ!」
 彼は、妻と娘の手を引いて、対岸の遊園地に消えていく。
 わしは、その姿を、眩しい、と思った。

 彼は三ヶ月に一度、定期点検のために必ずここにやってきて、やれ誰それが結婚
しただの、街にサーカスがやってきただの、そんな話をわしに聞かせてくれる。
 わしは黙ってそれを聞くしかない。
 それでも彼は、いつも笑顔だった。
 いつしか、わしも、それでいいと思っていた。
「なんでいつも橋に話しかけてるんですか?」
 彼に、若手整備士が聞いたことがある。
「そりゃおまえ、こいつは俺の親友だからさ!」
 彼はさらりとそう答え、それを聞いたわしは嬉しくなって体を軋ませた。
 実際、彼は言葉通り、わしを大事に扱ってくれた。
 台風の日、わしを守るためにロープを張ったり、暑い夏の日、伸びたケーブルを
調整して回ったり、冬には雪の重みで倒壊せぬよう雪かきをしたり。
 友とはかくも甲斐甲斐しいものか、と驚嘆する。
 わしはそれに応えることはできないけれど───。


 十年の歳月が過ぎ───、

 ある定期点検の日、彼は現れなかった。
 そんなことは今まで一度も無かったから、わしは少し心配だった。
 他の整備士達が、口々に彼のことを噂していた。
「あいつの奥さん、亡くなったんだってよ」
「本当か? あんなに仲良さそうだったのになぁ……」
「娘さん、いたよな」
「あいつが一人で面倒見るんだと。他に身内も居ないらしくて」
「大変だな……」
「そうだなぁ……」
 ───時を同じくして、遊園地の人気は下火になっていた。
 以前は一日に何千人もの人がこの橋を渡ったものだが、それも段々と減り、今では
百人も通ればいい方だ。
「人はみんな都会に出て行ってしまうもんな」
「遊園地、もう長くないかもな」
「そうするとこの橋も取り壊しかな……」
 そんな話を聞いても、わしにはどうすることもできない。それが運命だというので
あれば、甘んじて受けるしかない。

 その次の定期点検の日、半年ぶりに会った彼は、少しやつれていて。
 しかし、いつものように私に話しかけるのだ。
 街を通る単線の鉄道の本数が半分になった、という話の後、彼はふっと自嘲気味に
笑った。
「遊園地、来週で閉園なんだとさ」
 ───そうなのか。
「おまえの役目も、終わっちゃうのかな」
 薄々気付いてはいたが、正直感慨もない。これだけ入園者が減れば、仕方のない
ことなのだろう。
「幸せな時間は長くは続かない、ってことかなぁ……」
 そんなことはない、と言いたかった。
 しかし、わしは体を軋ませることしかできない。
「ああ、すまん、ちょっと愚痴っぽかったかな」
 わしの軋みに気付いたのか、そう言った彼の笑顔は、いつもの笑顔だったけれど。
 なぜか、見ていると心が痛んだ。

 翌週、彼は娘を連れて遊園地にやってきた。
 遊園地の最終日を楽しむ人々で、わしの上も久しぶりにごった返した。
 十年ぶりに見る彼の娘はかわいらしく成長していた。中学生くらいだろうか。手足は
まだ発育途上だが、今後の開花を予想させる艶やかな外見。
 しかし、それとは裏腹に、二人の顔は暗い。
 無理もない。妻を亡くしてまだ半年、加えて、三人で来た思い出の地が無くなるかも
しれないとあっては、そうそう笑うこともできまい。
 しかし、わしには声をかけることはできない。
 せいぜい、体を軋ませるだけ。
「お父さん……今、橋が軋んだよ」
「ああ、この橋はね、時々俺を元気付けようとしてくれるんだ」
「橋が? そんなことがわかるの?」
「わかるさ。だって、この橋は俺が作って、俺がずっと見てきたんだから」
 そう言って、彼と娘は少し微笑んだ。
 その悲しみが少しでも和らぐように、わしは谷を通る風に合わせ、体を揺すり、
軋む。
 わしにはそれしかできないから。
「行こう、お父さん」
「そうだな、一日、楽しもう」
 壊れそうな笑顔を残し、二人は遊園地へと消えていく。
 思い出の場所で、少しでも心を癒すことはできたろうか。
 それを願ってやまない。

 次の定期点検の日、彼は珍しく笑顔になっていた。
「おまえ、このままここに残ることになったよ。遊園地はなくなったけれど、その
中の教会が、そのまま残ることになったからだとさ」
 吊りワイヤーのほつれを直しながら、彼はそう言った。
「定期点検も続くことになった。まだまだ腐れ縁は切れそうにないな」
 油まみれの顔で、彼はそう言って笑った。
 わしもその笑顔がうれしくて、体を揺すって軋んだ。
 事実、教会のおかげか、日曜日には、わしの上を礼拝に訪れる人が通るように
なった。その落ち着いた賑わいが、少し、うれしい。


 また十年の歳月が過ぎ───、

 わしの上に、三人が立っていた。
 少々頭が薄くなった彼と、美しく成熟した女性となったその娘。
 それと、もう一人。
 見たことがある。点検の時に、彼の傍でいつもたどたどしく働いている新米だ。
真面目一徹の目線が印象的な青年。
 その青年が、彼に向かい、顔を真っ赤にしてこう言った。
「娘さんを、ボクに下さいッ!」
 なんとまぁ、プロポーズかね。
 よりにもよってわしの上でとは。ロマンのかけらもなかろうに。
 青年の後ろで、彼の娘は心配そうに父親を見上げている。
 しかし、彼はことのほか喜んで。
「俺が口出しするまでもない。娘がお前を好いてるなら、それでいい」
 そう言って、青年の背中をばんばんと叩いた。
「お前なら、安心だ。娘を、よろしく頼む」
「ありがとうございます!」
 青年は涙を浮かべて俯いた。娘も微笑んでいる。
「それに、」
 彼はわしを見た。
「ありがとう、わざわざここを選んでくれたんだな」
 新米は涙混じりに微笑んで。
「だってここには、僕達の誇りが詰まってますから」

 数週間後の小春日和、わしの上に赤く厚い絨毯が敷かれた。
 タキシード姿の彼が、ウェディングドレスに身を包んだ娘の手を引いて、その上を
ゆっくりと進む。
 わしを渡りきった対岸には、即席の結婚式場が作られていて。
 そこには、あの青年が、白いスーツ姿で二人を待っている。
 彼が青年に娘を預け、しばらく後に顔を涙でくしゃくしゃにするのを見て、それでも
わしはなぜか満足だった。
 わしが渡した人々が、幸せになる。
 それがわしの存在意義なんじゃないだろうか。
 いまさらにそれが判ったような気がしたのだ。
 体を揺すると、軋み音もいつもより軽快に響いた。

 結婚式が終わった後、ハネムーンへと旅立った二人を見送った彼は、誰も居なく
なった橋の上で、一人ワインを空けている。
「いや、今日だけは飲ませてくれよ」
 誰に言うともなく、独りごつ。
「手塩にかけた娘が旅立つのを見るのは、うれしくて……、辛くて、切ない、なぁ……」
 手にしたワイン瓶から、たぱたぱと上等のワインがわしの上に落ちる。
「ま、飲め。おまえにも幸せのおすそわけだ」
 うれしくは無いが、
 ───こんなのも、悪くない。
 願わくば、わしの上で酔いつぶれた彼が風邪を引く前に、誰かに発見してもらえます
ように───。


 さらに十年の歳月が過ぎ───、

「お前、取り壊されることになったよ」
 すっかり頭が薄くなり、顔にしわも増えた彼が、わしに向かってそう言った。
 一年前に教会が撤退してから、わしの上を通る人はめっきり減った。使われなく
なってからは痛みも激しく、三ヶ月ごとの点検整備では維持が難しくなったらしい。
 そもそも維持する必要があるのか、という議論もあったとか。
「お前がいなくなると、ますますさびしくなるな……」
 眉を八の字にして、彼は泣きそうな顔をした。
 ───そう、だな。わしも、さびしい。
 わしが居なくなるのは、かまわない。橋なのだから、役目が終われば、取り壊される
だけだ。
 わしがさびしいのは、わしが生まれてから、ずっと面倒を見続けてきてくれた彼が、
「さびしい」と感じていることだ。
 彼を悲しませたくない。彼を寂しがらせたくない。
 だが、わしに何ができるというのか。
 谷間を渡る風に、体を軋ませるのが関の山だ。
「そうか、お前もさびしいか」
 それでも彼は、わしの気持ちを察しようとしてくれるのだった。
「……娘が死んだんだ。あいつと一緒に、事故でね」
 彼はそう呟いて、寂しげに笑った。
「俺の一生って、一体何だったんだろうな……」
 わしは、その言葉に答える術を持たない。

 取り壊しを翌日に控えたその日。
 彼は、ふらりとやってきた。
 上下ツナギの作業服。三ヶ月ごとの定期点検の時のいでたちだ。
「やっぱり、お前と会う時はこうじゃなくっちゃな」
 しかし、今日は定期点検の日じゃないはずだが?
 と、彼は、一人でわしの点検と整備を始めた。
 ───明日には取り壊されるというのに。
 緩んだワイヤを張り、ほころびた部分を修正し、痛んだ足板を取替える。
 そうして彼は、丸一日かけて、丁寧にわしを整備した。
 夕方になるころには、わしはかつてないほどに完調となった。
 これなら、あと十年はここで頑張っていられる。
 そう思った矢先。
「今まで、俺に付き合ってくれて、ありがとう」
 橋の中央の欄干に手をかけた彼が、そう呟いたのが聞こえた。
「おまえのおかげで、退屈しない人生だったよ」
 穏やかな、笑顔。
「これで、お別れだ」
 わしは、彼を見る。
「一足先に、向こうで待ってる」
 すいっ、と、
 彼は宙へと躍り出た。
 あっと思ったが、わしにはどうすることもできない。
 落下する彼の目は、わしを捉えたまま。
 その顔は、微笑んだまま。
 すぐにその姿は見えなくなり、暗くなった谷底に消えた。
 おぉ…おぉ…!
 わしは体を震わせた。
 三十年来の知己が、わしの目の前で……。
 谷を渡る風に抗うように、わしは体を震わせる。
 みしり。
 最初は、小さな小さな音。
 ぱちん。
 みしみし!
 ばりばりばり!
 やがてそれはだんだんと大きくなり、
 最後には唸りを上げてわしの体全体から発せられる。
 足板が割れる音。
 欄干を支える支柱が折れる音。
 ケーブルが切れる音。
 わしを支えていた二本の鋼線が、遂に千切れた。

 宙を舞う初めての感覚に戸惑いながら、
 わしは谷底に、彼の姿を探した。
 悲しい、という気持ちを、ようやく理解できた気がする。
 一人で先に行く、なんて言わないでくれ。

 わしも、一緒に───、


<了>