待ち人、来たらず(原作:KAICHO/リライト:山田沙紀)

 深呼吸をすると、鼻膣に淡い潮の香りが残った。
 冬だというのにうらららかな日差し。五分もすれば汗ばむ程の小春日和の中、私は、
港の中を歩いている。
 目指すのは、小さな埠頭へとかかる幅広の橋。
 半年――六ヶ月という約束だった。
 はじめは耐えられないと思った。あの人と一緒になってから一度も、そんなに長い間
離れ離れになったことはなかったから。
 不器用で、ぶっきらぼうで、村の人はみんな「よくあんな男と結婚したものだ」という
けれど、私は知っている。あの人は自分を表現するのが下手なだけなのだ。私が辛い時
には何時もそばに居てくれて、私が困ったときには必ず助けてくれた。他の誰が何を
言おうとも、私は、あの人の無言の愛情をしっかりと感じていたのだ。
 そんな彼が本土に出稼ぎに行くと聞いたとき、私は彼について行くつもりだった。
しかし、出稼ぎに行く先はこの島以上に何もない山の中で、私は彼についていくことを
許されなかった。
 だから半年、一年にも満たないこの期間ですら、私には永遠のように感じられた。
月に何度か届いた手紙は、相変わらずにそっけない文面だったけど、私はそれを一言一句、
抱きしめるように読み、彼を待ち続けた。
 彼を待つ間、私は毎日この場所に足を運んでいた。彼と約束をした、この橋の上に。
 明後日だ。あと二日すれば、彼が帰ってくる。
 そう思うと、自然と歩みも早くなる。
 ギシギシと音を立てる橋の上から見える埠頭の向こうには、青く広がる穏やかな海。
太陽が反射して水面がきらきらと輝いていた。人影もまばらな港には、時折響くかもめの
鳴き声以外には耳障りな音もなく、静かな潮騒が私を包む。
 湾の向こうに連絡便の姿が見えた。小さな船体から弱々しいエンジン音を立てながら、
どうにかこうにか埠頭に近づいてくる。
 埠頭に横付けした船から船員が降りて、舫杭にロープを巻きつける。
 船からは荷物が一つ降ろされて二つ載せられ、乗客が一人か二人が入れ替わりに乗降
するのが見えた。
 十分程で連絡便は作業を追え、再び弱々しいエンジン音と共に、ゆっくりと埠頭を
離れる。その姿が視界から消えるまで、私はじっとそれを見守っていた。

 翌日も、私は橋の上へと向かう。
「───どなたかを、お待ちなんですか?」
 いつものように、海を眺めていると、初老の男性に話しかけられた。
「ええ、主人を、待っているんです。しばらく本土に出稼ぎに出てましてその帰りを――。
 六ヶ月、という約束でした」
「それは、長いですね」
「そう思っていました、でも、明日でちょうど六ヶ月。だから明日は主人が、帰ってくる
 んですよ」
 明日が。口に出したことで改めて実感する。
「ですが、明日とはいっても、何かの事情で帰ってこれないかもしれませんよ」
 男性は、複雑な表情を浮かべて私にそう言い放つ。しかし、私は心揺らぐことなく彼に
反論した。
「いいえ、あの人は約束を必ず守ります。今まで一度だって約束を違えたことはありま
 せんもの」
 私の言葉に、男性は深々と頭を下げる。
「これは失礼しました。少し言葉が過ぎましたね、申し訳ない」
「いいえ、こちらこそ、少し感情的になりました、すみません」
 それから、今日も連絡船の様子を眺めたあと、男性と別れて橋を後にした。

 そして、約束の日。
 今日は、朝から冷たい雨になった。
 小雨とはいえ風を伴う冬の雨は体に応える。私はレインコートを身に纏い彼を出迎える
ための傘を持って、橋の上へと向かっていった。
 連絡船が到着する時間が近づいている。雨はいよいよ本降りになり遠くに波がさざめい
ている。
 船着場では数人の作業員が、喚いているのが聞こえる。波風の音にかき消され、断片
だけが私の耳に入って来る。
『…………出港……はず……』
『……連絡が……ない………』
 何を行っているのか、私には理解できなかったがなにやら慌てている様子だった。
 黒く逆巻く海面を見つめ続けてしばらくが立った。あの人を乗せた連絡船はまだ姿を
現さない。
「どうして……」
 激しくなった横風に吹かれ、フードが外れたのも気にせずに私は呟いた。
「どうして、帰ってきてくれないの……?」
 濡れた髪が顔に張り付き、雨雫が頬を伝わり落ちる。
 港の事務所から男の人が出てきて、私の方に近づいてくる。
「あんた、こんなところで何やってるんだ。危ないから、今日はもう帰りなさい」
「約束した……。約束したから、あのひとは今日帰ってくるのに、待っててあげなきゃ」
「落ち着きなよ、今日はもう無理だって、見ればわかるだろ」
 男の人が私の腕を掴み、橋から下ろそうとする。私は、その手を振り払い、欄杆から
身を乗り出して叫んだ。
「約束したでしょ……。帰って来るって……ねえ、だから、お願い……早く帰ってきて」
「危ない……っ!」
 濡れていた欄杆に手を滑らせ、私はバランスを崩す。眼の前に海面が迫る。このまま
海に落ちてしまうのも悪くない。そこで、私の意識は途絶えた。

 目を開けると、ぼんやりと人影が見えた。
 やがてその輪郭は、少しずつ、はっきりとした姿に変わっていく。私の、ずっと、会い
たかった人の姿に。
「……すまない、荒天で船が遅れたんだ」
 懐かしい声、相変わらず、何を考えているのかが全く読めない表情。
「ううん、大丈夫……。あなたが約束を守ってくれた、から、私はそれだけで、十分よ。
 でも、ちょっと疲れちゃった、かな……」
「……今は、ゆっくり休むといい……」
「わかった、そうする……わ……おやすみなさい、あなた」
「ああ……おやすみ……」
 幸せな気持ちに包まれたまま、私はしばしの眠りについた。

 目が覚めると、そこは自分の家だった。
 狭い家の中には私以外の人がいる気配はない。そうだった、あの人は本土に出稼ぎに
行っているのだった。
 六ヶ月。私にとっては途方もなく、長い。しかし、あの人は私のために出稼ぎに出て
くれて、私はそれを覚悟して送り出したのだ。弱音を吐いていてはいけない。
「そうだ」
 私はふと思い立ち、港に向かう。、昨日の風雨が嘘のように、空は穏やかに晴れ渡って
いた。
 晴天の下、深呼吸をすると、鼻膣に淡い潮の香りが残った。
 冬だというのにうらららかな日差し。五分もすれば汗ばむ程の小春日和の中、私は、
港の中を歩いている。
 小さな埠頭へとかかる幅広の橋。この場所で、私はあの人と約束をした。

 
 あと半年、約束をしたこの場所で、海風とともに私は待ち続けるのだ。