『What is it ?』
作者:糸染晶色


離れた街灯の光にうっすらと浮かぶ陰影を頼りに進む。
アスファルトの地面に、コンクリートの屋根。
すぐ左を流れる川はその表面にゆらめく黒をたたえている。

見つかったらどうしよう。
通りの賑わいから抜け落ちたような裏側。こんなところに一人でいるだけで不審がられても仕方ない。
歩く足を止めて振り返る。いくら僕が不審でも、ここには他に誰もいない……はず。
目を凝らしても動くものは何もない。
それを確認して関係者以外立入禁止の安っぽい看板がかかった金網フェンスに近づく。
南京錠のかかった扉の脇で、網の目に足をかけてよじ登る。
いくらか軋んだけれど問題なく乗り越えられた。
よっと。
心の中の呟きとともに向こう側へ飛び降りる。

「あたっ」

着地で少し足首が傷んだ。
ちょっと失敗したか。
軽く足を振り、それから下ろして体重をかける。
いくらかの圧迫感はあるけれど、捻挫というほどでない。
……でも。
もうやめて帰ろうか、という考えも頭に浮かぶ。
足も痛いし、いまなら誰にも見つからずに帰れるよ? だいたい何のために行くんだよ?
元来た金網の向こうに目をやり、それから背を向けて足を踏み出した。
これで痛いだなんて、また諦める理由を探している自分に嫌になる。

金属の手すりを掴み、つま先でつつくように確かめてから足を載せると、小さく灰色の音が響く。
もう一度首を回して確かめるが、それを聞きとがめられることはない。
それでもなるべく音を立てないように、らせん階段を上っていく。
丈夫な金属なのだろうけれど、厚さ1センチにも満たない板に乗っていると思うと、少し落ち着かない。

何をやってるんだろうなあ。
その問いはふと浮かんではじきに消え、また浮かんできて僕を苛む。
大学に入って、それから。
最初のころは一応講義にも出席していた。
けれど二カ月もしないうちに休みがちになり、レポートと試験だけ間に合わせで単位を取る。
何回か彼女を作ったりしたけど、いまは独り身だ。
大学に行かずにしてることといえば、酒を飲んだり旅行に行ったり、バイトしてその金を作って、また酒と旅行。
受験勉強の束縛から放たれて、それぐらいいいじゃないかと思っていた。
だがそれも二年近く続けて、残っているものがない。
これじゃ苦労して大学に来た意味がない。高校を卒業してフリーターやってるのと変わらないじゃないか。
だから。何をやってるんだろうなあ、だ。

階段を上り続けるうちに頭上を覆うコンクリートの屋根が近づいてきた。
それと一緒に音もはっきり聞こえてくる。
エンジンの駆動音とタイヤの摩擦音のうなりに鼓膜が震える。
ちらと眼下をのぞいたが既に地上は黒に溶けて見えない。
それでも対岸を臨めばガラスを散らしたように街の明かりが灯っている。

上をひときわ大きな気配が通り過ぎた。
大型トラックだ。
対岸へと渡っていくのだ。
振動の余韻が消えてからもう一度上り始める。

「…………」

何か言いたい気持ちになった。
けれどその言葉を聞いてくれる相手はいない。
それに絶えることなく往来する車の音に掻き消えて、横にいたとしても聞き取ることはできないだろう。
だから声にすることなく飲み込んだ。

屋根のようだったそれの側壁に触れられる位置まできた。すると手からはっきりと振動が伝わってくる。
気合を入れなおして最後の数段を上りきった。
もう太ももがパンパンだ。
それでも手すりにもたれて踏みとどまる。
側壁に穴を開けたように出入口になっている鉄柵の向こうをヘッドライトが右に左に飛び交っている。

「ああ」

下から吹き上げる風を受けて顔を上げると、ふっ……と浮遊感があった。
ほんの一瞬だけ。
それでも肩の重みが抜け落ちたようだった。

「……じゃあ、行こう。……行く」

進むのは鉄柵の向こうではない。
南京錠がかかっていて開かないようになっている。
乗り越えることはできるかもしれないが、川を跨ぐこの橋には歩道はない。
すぐそこを車が走っているのだ。

その代わりに側壁に沿って対岸へと伸びる点検用通路を歩き始める。
道路側からは橋の側壁に隠れているし、この夜中ならば地上から見咎められることもない。

「…………」

歩き出してすぐ、腹の底が冷えるような心地になった。
右手で壁に触れながら前進する。
幅はどうにか大人が二人すれ違えるくらいはある。
だが左手側には腰くらいの高さの手すりがあるだけだ。

なるべく重心を残すように気を付ける。手すりから下を覗き込めば、もちろん川が流れている。
たゆたう闇は階段に踏み入れる前と変わらないはずだが、橋の上から見ると吸い込まれそうな恐怖があった。

「ここから……」

落ちたらどうなるだろうか。
十分な深さがあるから案外どうにかなるかもしれない。
いや。
水面に叩きつけられる衝撃でショック死、よくても気絶して溺死、仮に意識があっても暗闇の中で流れにもまれて……。

そこから離れるように後ろの壁にもたれて座り込み、疲れてだるい足を伸ばす。
強い風が吹き続けている。

僕は何しに来たんだ?
煽られて乱れる髪を押さえて周りを見回す。
暗く、誰もいない橋の上。背中から感じる振動に胸の奥が刺激されて、空しさが募ってくる。

「ここを渡って、それで……」

それで、それだけ。
無為に過ぎる日常に嫌気が差して、非日常が欲しくて、それだけ。
日常から逃げ出せばどうにかなると思ったのだろうか。
まるで中身のない逃避。はっきり言えば現実逃避。

「どうして、こうなんだろうなあ」

大型トラックの揺れが背中に響く。

どうして僕は。
いつかきっと。そう思ってどれだけ経っただろう。

何かできるはずと、そう信じてきた。
成功した人々が受ける賛美の声。僕もそうして讃える観客の中の一人だった。
最初は心から拍手を送っていたと思う。
いつからか、それは妬みに変わり、笑って賛辞を口にする腹の内では粗探しをし始めていた。
そんな自分に気が付いたとき、その汚さに吐き気がした。
僕も褒められる側に行きたい。
そのためには何かを成し遂げなくちゃいけない。成し遂げられると信じるしかなかった。
けれども僕はずっと、どこにも進めないまま足踏みをしている。
そんな僕は、その他大勢、と十把一絡げに括られる顔のない一人に過ぎなかった。
昔も、今も、これからも。ずっと、ずっと、ずっと。

「バカだ」

ほんとに、バカだ。
こんなところに来て、それで褒められるわけがない。

力の戻った足で立ち上がる。

「…………」

手すりに寄って川の流れる先を見る。
今度は真っ直ぐ立って、むしろ手すりに体重を預けるようにして。

「跳べたら」

ここから跳べたら、どうだろうか。
そんなことをする奴はいない。できる奴はいない。
その他大勢ではない、僕として認識してもらえるだろうか。

「そうだな……」

ああ、きっと認識してもらえるだろう。
ただし、そのとき観客から僕に向けられるのは称賛ではなくて嘲笑だ。
ひょっとしたらテレビや新聞にも出るかもしれない。
数秒の映像や紙面の一画だけで記憶にも残らず忘れ去られるのだろうけれど。
……命を賭けても僕にできるのはその程度なのだ。

ポケットが震えた。
携帯電話を取り出して届いたメールを読む。ただの飲み会のお誘いだった。
結局のところ、こんなふうに埋もれた日常を生きるしかできないということだろうか。

酒の席で酔った風を装って何人かにそれとなく聞いてみたことがある。
こんなところでくすぶっていていいのか。大きなことをやってみたくはないか。
彼らの答えは実につまらないものだった。

昔はそう思ってたこともあったけど、もうそういうのは諦めたよー、無理無理ー。
おいおい現実見ようぜ、そういうのは才能ある奴の特権だって。
もう少し大人になんないと、いまいくつよ、成人してんだろ。

内心でそんな彼らをつまらないと吐き捨ててきた。
けれど僕も彼らと同じでしかない。
口だけ大きなことを言っている分、いっそう惨めである。

そうだ、それに余計なことを思い出してしまった。
酒の席でつい、『自分は大きなことをしたいが才能がない』など稚拙なことを
騒いで店の店員にまで絡んでしまったのだ。
その確か女子店員はうんざりしていた。

ダメだ、忘れよう……。
そんなことは……。


僕は再び壁に沿って歩き始める。
ここまできて、元来た階段を下りて帰るのを想像して、あまりに寒々しかったから。

空を見上げるが、いくつかの明るい星がまたたいているだけで、たいした景色とはいえない。
中学生の修学旅行で行った田舎の山で見上げた夜空は、敷き詰めたように星で彩られていた。
都会と田舎の違いは、人工光の量の違いだという。
弱い星の光は地上の光に掻き消されて埋もれてしまう。
それは人間の電灯が悪いというような話だった。
当時は僕もそう思っていた。
けれども、いまは違うと思う。

宇宙の星も、地上の電灯も、その輝きを比べて競っているのだ。
ぽつんと立つ街灯でも、小さな星くれを塗りつぶしてしまえるくらいの輝きを放つことができる。
そうだとしても、一等星の輝きを覆い隠すことはできない。

例えば、バンドを組んで定期的にコンサートを開いているというヴォーカルの彼。
インディーズにしても売れているとは言えないらしい。
だけど、彼は僕の目に輝いて映る。
確かにテレビで歌うアーティストたちの輝きには遠く及ばない。埋もれてしまっているといってもいい。
けれども、ほんの小さな弱々しい光だとしても、他人に照らされるだけの僕には眩しいくらいだ。

「何が違うんだろう」

彼だって傍から見たら、夢見がちで分不相応に振舞おうとする愚か者と思われてもおかしくない。
なのに僕から見てもそうであるように、彼を嘲笑おうとする誰もが、自分に惨めさを感じずにはいられない。
ことによると、自分の惨めさを振り払うために彼を貶めようとしているのかもしれない。

他人に照らされるだけの自分の姿と、おぼろげながらも輝く彼との姿を並べてみる。

「眼……」

僕はどこにも踏み出さない。
不満を抱えてつまらなそうに世界を眺める姿。
その眼はくすんで錆びついたように何も映していない。
彼は楽しそうに歌っていた。
コンサートではもちろん、練習に行くというときでさえ駆け出していきそうな姿。
その眼は果てなき遠くといえども向かう先を見据えている。

足踏みしているだけの日々に背を向けて、僕がいまいるのがここだ。
何もない橋の上。向かう先は車に乗ればすぐの対岸へ。
逃げ出そうとしてなお僕はどこにも踏み出せていないのだ。

僕はどこへ向かうのかも決められず、最初にいた場所から闇雲に行ったり来たり。
時間だけ過ぎて気づけば元の場所に戻っている。
どこにも向かえず、ただ同じ場所から動けない人々の集まりが僕らだ。
彼は行く先を定めて歩き続けている。ただその方向へ一心に。
だから時間が経ったときには僕らの場所から離れて目標に近づいている。

「嫌だ……」

どこにも行けず、時間に取り残されて一生を終えるのは!
彼のようにどこかへ向かう人々に置いてかれるのは!

歩く足が徐々に早まり、いつの間にか駆け出していた。
吹き上げる風を切って前へ。前へ、前へ。
僕がここにいる間にも、誰かがその夢に向かって努力している。
どんどんどんどん僕から遠くに行ってしまう。
遠くからでも届くその光を見て、そのとき僕はどうしているだろうか。

僕だって。僕だって。何かしたい!
何か。何か。何か!

「何か、って何だよ! ……はっ、はっ、ぜぇ」

息が切れて膝をつく。

「何か、って何なんだよ……」

泣き出しそうになる。
ずっと願ってきた何か、は空虚で。
何か、はどこにもなくて。
だからいくら望もうとも僕はどこへも進めない。

晴れ晴れしい舞台の上の彼ら。
何かを成し遂げた彼らは、何か、なんて求めていなかった。
自分が目指しているそれがわかっていた。
だから迷わず進むことができたんだ。
遠くの果て無き先へさえ辿り着くことができた。
そこからでさえ届く一等星の輝きを得たのだ。

ヴォーカルの彼が向かう何かは、バンドだと決まっていた。
彼はそこへ進もうとしている。

僕は何に向かえばいいのか。
それがわからないから、こんな場所で惨めな姿をさらしている。


「……あなたは?」
暗闇の先から女の声。
しかも、若い女。
「だ、だっ、だ」
言葉がでない。
「あなたこそ、何をしているの? こんなところで」
「つ……」
人影はゆっくり近づいてきて、
「あの時の学生さんですか」
見覚えのある、女。
いや、女の子。
「居酒屋のーー」
そうだ、先週僕が悪酔いした時居酒屋で働いていた、女の子。
「な、何をしているんだい?」
やっと吐きだした言葉。
「……」
女の子は僕を一瞥してから、
「私、よくここで発声練習しているの」
は?
「これでも、テレビ出たことあるのよ? 役者よ役者」
「ちょい役だけどね」
……。
「じょ、冗談だろ……」
あ、いや待て……。
そう言われると……。
「信じないならいいけど」

彼女は、舞台の上の人間か……。
そうか……。
僕はこんな年下にまで……。
バカにされて……。

「は、は、ははは……」
自分で自分をあざけ笑う。
「あなた、叫んでいたわね」
「『大きなことをやりたい』とか」
覚えていたのか。

「ど、どうせキミと僕は違う人間だ、どうせ僕にはーー」

「あのね」
彼女が睨み付ける。
「私、あなたの話を聞いて腹立ったの」

「あなたはただ舞台に立とうともしていない 違う?」
「だって、僕には何も……」
そうだ、僕には……。
「僕には好きなことも何も……」
そうだ、僕は空っぽで何もない……。
「見つけようとしてないだけよ」
見つけようとしない……。
「だって、君には才能があるのさ……、だから……」
そうさ、才能のある人間の特権ーー。
「『1パーセントの才能、99パーセントの努力』って言葉は古くさいかもしれないけど」
「私だって特別な人間じゃない。ただ目標があるだけ。だから、こうして練習もしているの」
「あとはやるか、やらないか……。それだけよ」
「……」
僕には何も言い返せない。
「そうね、まずは本気でその何かを見つけたらどうなの?」
「あぁ……」
かなり乱暴な言葉だが、今の僕には痛いほど突き刺さる。
そして、彼女は一息ついて笑う。
「尊敬する先輩の受け売りのセリフだけどね」

そうだ。
僕は見つけなくちゃいけない。
僕の何かは、何なのか。
何かが、何かでなくなって、胸を張って目指す先を言えるようになる日まで。
僕が一人の人間として輝きを放てるようになるために。

「僕は……行く」

立ち上がってもう一度歩き出す。遠く先へと辿り着くために。