帰宅拒否(原作:yosita/リライト:山田沙紀) 「一体……どうなってるんだよ……!」  放課後、誰もいなくなった教室で一人、僕は机に向かっていた。傍らに積まれた教科書 の山、目の前に広げられたノートに、ただひたすら問題を解いていく。古典長文憲法微分 積分電磁気力。勉強をしているはずなのに、内容は全く頭に入ってこず、それが焦りと なってかペンを握る手に一層の力が入る。全て、僕の意思とは関係なしに、だ。  それは、用事が終わり家に帰ろうと鞄を取りに教室に戻ってきた時だった。急に、椅子 から立ち上がれなくなり、身体が勝手に勉強の支度を始めていた。  こんなことを続けてもう一時間近くになる。はじめのうちは帰宅前の生徒がちらほら 通りかかっていたが、教室で勉強しているというごく当たり前の風景に、何の疑問も持た ずに通り過ぎていった。下校時間はとっくに過ぎており廊下には人の気配も感じられない。 「おっ、いたいたいたー。いやー、やってるねえ勉強。どう、はかどってる?」 「田川先生!?」  不意に、教室の扉が開き、そこから姿を表したのは副担任の田川先生だった。いつも 元気で生徒に人気もある英語の先生だが、その若々しい口調とは裏腹にたしか今年で さんじゅ 「と思ったけど、誰もいませんでしたね。見ませんでした。それではサヨウナラー!」 「待って下さい、若くてかわいい田川先生!」  閉まりかけた扉が再び開く。ニコニコ笑顔の田川先生が教室の中に入ってきた。 「おやおや、岸川くんじゃない。どうしたんですかこんな時間に、勉強熱心なのは構わ ないけれども、下校時間はとっくに過ぎてるわよ」 「それが、その……やめられないんです」 「とまらない?」 「か〜っぱっぱっぱ。いや、そうじゃなくて、右手が止まらないんです」 「あらあらまあまあ、若いのね」 「頬を赤らめるような年じゃないでしょう 、先生」 「失礼ね、これでも先生まだしょ」 「聞いてませんから! 聞こえませんから!」  胸を張る田川先生の言葉を遮って、僕は今起きていることを手短に説明した。その間も、 右手は休まることなく問題を解き続ける。 「なるほどー、わかったわ。これはあれねー」  特に驚いた様子も見せずに、田川先生は笑顔で頷いた。 「あれってどれですか」 「岸川くん、なにか家に帰りたくない事情があるんじゃないかしか?」  先生に言われ、少し思いふける。そして、僕はそのまま黙りこんでしまった。 「どうやら心当たりがあるようね?」 「えっと、その……」  どう言ったものか、考えあぐねていると、田川先生が言葉を続けた。 「帰りたくない理由は、今日返却した中間テストね。岸川くん、いつもより大分点数が 下がっちゃったものね」 「……」  図星だった。今回はたまたま調子が悪かったといえば言い訳になるが、こんなひどい 成績のテストを持って帰ったりすれば、特別教育熱心であるとは言えない両親でも機嫌が 悪くなることは目に見えている。そう思うと、帰宅の足は重くなり、無理やり用事を作り 帰宅を遅らせていたのだ。 「でも、別に本当に帰りたいわけじゃないんです」 「それは判ってるわ。ふふふ、心配しなくても大丈夫よ、岸川くん。先生が優しくリード してあげるから」  そう言って田川先生は自分の胸元に手を差し入れる。引っ張られた襟元から覗く白い 首筋に、僕は思わず息を呑む。  そして先生が懐から取り出したのは人束の白い紙だった。 「っじゃじゃじゃーん!」 「……えっと、なんでしょう、これ」 「この特別追加試験で合格点を取れば、岸川くんも無事家に帰ることができるようになる のです!」 「はぁ?」  なんとも言えない表情をする僕を気にもとめずに、先生は僕の眼の前にあるノートと テスト用紙を入れ替える。ざっと眺めてきたところ問題の範囲は中間テストと同じ、ヘマ をしなければ合格点なんて簡単に出せるはず。僕は自分奮い立たせて問題に立ち向かった。 「はい、ようやく合格点ね、おめでとう」 「死ぬかと思った……」  三周目の追試が終わり、僕は机に突っ伏していた。もう当分英語はいらない。 「それよりも、岸川くん。そろそろ帰れそうかしら?」 「はっ」  そこでようやく気づく。机に向かうことしかできなかったはずの身体が動く、動かせる のだ。今までは机に突っ伏すことすら出来なかったのに。 「立てる! 歩ける! 帰れる! やったーうっ」  勢い良く立ち上がった瞬間に軽くめまいを感じる。ずっと座っていたからな。 「お疲れ様」 「でも先生、一体何が起きていたんですか? 先生は、なにか知っているんですか?」 「んー、そうねぇ……岸川くんは『帰宅拒否』って知ってる?」 「登校拒否、じゃなくて?」 「そう、今日の岸川くんみたいに、なんとなくだけど『家に帰りたくないなー』って思う  じゃない。すると、その生徒は家に帰れなくなる。そして、ずっと同じ行動を繰り返し  続けるの」  そんなバカなと言いたいところだったが、ついさっきまでそうだった自分は何も言い 返せない。 「まだ納得行かないって顔ね。わかった、ついてきて」  田川先生に連れられ、玄関を出て向かった先は学校の校庭。 「この校庭には言い伝えがあってね。夜中になると校庭を走り続ける女子生徒の霊が出る という……」  その噂なら聞いたことがある。といっても、どこの学校にでもあるようなお決まりの 怪談で、真に受けたことなど一度もなかったが、今となってはこの話、引っかかるところ が一つある。 「走り、続ける……」 「なかなか鋭いわね、岸川くん。さあさあ、今日はいるのかしら」  先生と話しながら校庭にたどり着くと、そこにはトラックを走る女子の姿があった。 もちろん幽霊などではない。『帰宅拒否』になった生徒だった。 「どうするんですか、先生」 「もちろん、帰らせるに決まってるじゃない」 「どうやって?」  言いながら、自分にあったことを思い返す。僕はテストの点数が悪いのを気にして帰り たくなかった。そこで先生は僕に追試で合格点を取らせたのだ。じゃあ、彼女に対しては 何をしてやればいいのだろう。 「まずは、帰りたくない理由を知ることからね。岸川くん、ちょっと聞いてきてよ」 「って、走ったままじゃ話もできないですよ」  走っている彼女もこちらに気づいたようで、走りながらも助けてほしそうな視線を向け ている。 「並走すればいいでしょう」 「でも彼女結構足が速いし」 「つべこべ言わずに行ってこーい!」  そして彼女を追ってトラックを走ること三周。 「ぜい、ぜい……。もう、無理……」  走り続ける彼女から離脱して、フィールドの芝生に倒れる。 「おかえりー、で、どうだった?」 「少し……休ませて下さい……」  頭に続いて身体も酷使した結果、膝ががくがく震えている。もう当分走りたくない。 「……彼女は2年生の……工藤さん……だそうです」  まだ多少息は上がったままだが、彼女と並走して聴きだした内容を田川先生に伝える。 「ああ、陸上部の工藤さんね」 「やっぱりか……」  話しながらもハイペースで走り続ける彼女に食らいついた結果がこのザマである。 「それで、工藤さんはどうして帰りたくないのかしら」 「それが……」  工藤さんが言うに、近頃体重が増えてきたを悩んでいるのだそうだ。そして今日、つい その原因は料理を作ってくれる母親であると言って家を飛び出してきてしまったのだと いう。 「なるほど、これは深刻な女子の悩みね」  同じ女性同士共感するところはあるのだろう。先生が女子であるかどうかはさておいて。 「岸川くん、もう一度走ってきてくれるかしら。今度は、タイヤを引いてみましょうか」 「笑顔が怖いです、先生」 「きっとお母様のご飯が美味しすぎるのが悪かったのね」 「それは、ちょっと傷つきますね」 「工藤さんもそれがひどい言いがかりだってわかってるからこそ、帰りたくなかったん  でしょう」 「どうしたら工藤さんを止められるんですかね」 「そうね、帰りたくない原因はお母様との喧嘩だけどその直接の原因は、なんだった  かしら?」 「えっと、体重……ですか?」 「じゃあ岸川くん、ちょっと耳を貸して……」  急に田川先生が僕の肩を抱き寄せ、小さな顔を僕の顔に近づけてくる。身動きが取れず に固まってしまった僕に、先生はそっと耳打ちをした。 「ほ、本当に言うんですか」  メガホンを持たされた僕はスタートラインの脇に立っていた。後ろには田川先生が控え ている。 「このまま工藤さんに走らせ続けていいの?」 「でも、先生がやればいいじゃないですか」 「こういうのは、生の意見のほうが説得力あるに決まってるじゃない。ほら、来たわよ」  最終コーナーを回って、工藤さんが一直線に走ってきた。ぼくは諦めてメガホンを口に 当て、打ち合わせ通りのセリフを喋る。 「工藤さん! お、女の子は少しふっくらしてたほうが魅力的だって……一般的な男子は  思ってますよー!」  工藤さんの、走りが緩む。 「それに、ご飯を美味しそうに食べる女子は可愛いって……友だちが言ってました」 「いい感じよ、岸川くん。ついでに女の子は30からが本番だって」 「言いませんからね。とにかく、今は無理して痩せなくても……工藤さんなら問題ないと  思いますよー」  工藤さんはすでに走りを止めており、ゆっくりと、左右にふらふらしながらこちらに 向かってきていた。 「……ゴール」  工藤さんがラインに倒れ込むところを慌てて支えた。うん、全然重くない。 「っと、だ、大丈夫ですか……工藤さん、工藤さん?」 「大丈夫よ、疲れて眠っているだけ」  放課後の間ずっと走り続けていたのだ、無理もない。 「『帰宅拒否』の後は、こうなっちゃう生徒がほとんどなのよ。岸川くんみたいにすぐに 動き回れる方が珍しいわね」  後ろから、田川先生が教えてくれる。 「そして、目が覚めた時には起こったことを忘れちゃうの。だから、ああやって噂や怪談  みたく伝わっちゃうんでしょうね」  それを聞いて安心した。少なくとも、さっきの台詞は忘れてもらえるということだ。 「とりあえず、教室まで運んであげましょう。気がつけば、一人で帰れるはずだから。  保護者の方には、先生から連絡を入れておくわ」 「わかりました……って、僕が運ぶんでしょうか。そうですよね」  工藤さんは重くないから特に問題はなかった、全然問題はなかった。すごく疲れた。  工藤さんを運び終えて、先生と僕は職員室で一息ついていた。 「でも、先生はどうして『帰宅拒否』だってわかったんですか?」 「それはね、先生も昔。『帰宅拒否』になったからよ」  そうして先生が語った昔話。高校の頃、妹におやつの焼き芋を食べられて喧嘩した時に、 やはり帰りたくないと思ってしまったこと。そして『帰宅拒否』により、校内の落ち葉を 拾い続ける羽目になったこと。 「その時助けてくれたのが、今の教頭先生なのよ」  毎朝人のよさそうな笑顔で教頭先生の姿を思い浮かべる。その笑顔がどことなく田川 先生と被る。 「じゃあ、先生もここの卒業生だったんですね」 「そう、ここを卒業した私は、先生になって戻ってきたのです。えっへん」  何がえっへんなのかはわからないが、母校に帰ってきた田川先生は事情を知る教頭先生 に頼まれ、教頭先生の後を引き継ぎ『帰宅拒否』の生徒を助けているのだという。 「一体どうしてこんなことが起きてるんでしょうねぇ」 「さあ? 教頭先生が若かった頃から続いているとは聞いているけれども、呪い……に  しては大したものでもないのよね」  とりあえず、教頭先生から田川先生の代に至るまでには一度も深刻な被害が発生した ことはないのだという。 「でも、先生は思うの。学校ってきっと、どこか帰りたくなくなる場所なんじゃないかな、  って」  マグカップを両手で挟み込み、先生はつぶやく。 「友達との休み時間、放課後の部活動、それからちょっとだけ退屈な授業のある、いつ  までも続いてて欲しい、そんな日常。でも、必ず3年で、もう少し掛かる人はいるけど  ……必ずいつかは出ていかなきゃいけない場所。今いる生徒たちや、卒業していった  人たちの想『帰宅拒否』を引き起こしてるんじゃないのかなって」 「起きてることは迷惑極まりないんですけどね」 「岸川くんも、きっと卒業したら分かるようになるわ」  先生の笑みに、僕ははあとしか答えることができなかった。  校門のすぐそばに立てられた銅像。登校する生徒の誰もが目にするその像を、ずっと 磨いている女子生徒がいた。  うつむいたまま本を読み続ける姿をかたどった銅像は、夜中に見ると少々怖い。  近づいて声をかける。 「こっ、これ、なんなんですか。身体がっ、勝手にっ……」  ネクタイの色が緑だから、三年生だろう。もう、長い時間像を磨き続けているようで、 僕に向けて泣きそうな顔で助けを求めてきた。 「早く帰らなくちゃいけないのに……助けてください、岸川先生!」 「まあまあ、落ち着いて。まずは話を聞かせてもらおうか」  錯乱している女子生徒をなだめて、僕はいつものように話しはじめる。 「君は帰りたくないと思ったことがあるかい?」