『被告人を懲役十年に処する』 by KAICHO

 

 帰宅して玄関ドアを開けると、そこは一面の血の海だった。
 しばらく、何が起こっているのか判らなかった。頭が真っ白になって、その場に立ち
尽くす。
 どくどくと自分の心音が耳の中でこだまするのを、随分と長い間聞いていた気が
する。
 小刻みに体が震えていたことに気づき、それでやっと我に返った。
 ぼんやりとした意識をなんとかして落ち着かせ、震えを堪えながら、周囲を見回す。
 赤黒い液体は、これでもかといわんばかりに廊下一杯にぶちまげられていた。壁にも
血痕が派手に飛び散って広がり、所々に争った跡のようなものが見える。
 一体、誰の血なのか?
 最悪の事態を考えないようにしながら視線を移すと、壁についた手形に、小さな
ものが混じっていることに気づいた。
 ───娘の、もの…?
 夜8時。この時間なら、妻と娘は確実に家に居たはずだ。
 廊下の血溜まりは大きく、とても子供一人の量ではない。だとすると、妻も……?
 視線を前に向けると、奥の居間に向かって血の跡が伸びていた。
 靴跡が一つと、何か大きなものを引きずった跡。
 自分が生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
 その時。
 ごそり、と。
 居間から物音が響いた。
 知らず、私はびくりと体を硬直させる。
 妻か娘が、助けを求めているのか。

 ───それとも、侵入者か。

 靴を履いたまま、忍び足で居間を目指す。
 半開きのドアから中を伺うと、テレビの前に、人が倒れているのが見えた。慌てて
ドアを開き、駆け寄る。
 妻と、娘だ。
 そこかしこに血がべっとりと付着し、服の胸部には何かで穿った跡とひときわ大きな
出血があった。
 二人の生死を確認しようと手を伸ばしたその時。

「先生」

 そう話しかけられて、吃驚した。
 慌てて、声の方へと振り返る。
 テレビに対面するソファに、男が一人、静かに腰掛けていた。
 ひょろりとした背の高い男だ。年のころは40といったところか。
 短く刈り揃えられた髪、上着から覗く腕は細く、日焼けしていない白い肌。人懐っ
こい表情はには敵意は見られない。
 しかし、正常なのはそれだけだった。
 返り血だろうか、男の服の前面は、ほとんどが赤黒く染まっている。
 右手には、文化包丁。こちらも滴るばかりに血のりが付着している。
 こいつだ。
 妻と娘を刺したのは、こいつ以外にない。
 厳しい視線で男を捉えながら、私は、ゆっくりと立ち上がる。

「先生、気分は、どうだい?」

 微笑を浮かべながら、男はそう言った。
 気分はどうか、だと?
 いいわけがない。妻と娘が刺され、その犯人が目の前に居るのだ。
 職業柄、こういう場面の写真は何度も見てきた。だが、写真で見るのと目の前にある
のとでは、全く様子が違った。
 しかも、傍に倒れているのは、私の家族なのだ。
 男の問いに答えず、押し殺した声で聞く。
「おまえが、やったのか?」
 聞いてどうなるものでもないことはわかっていたが、それでもなお、聞かざるを
えなかった。犯人を目の前に、冷静さを欠きつつあったのだ。
 男は、手に持った包丁を私に向かって投げつけた。私に怪我を負わせようとしたの
ではなく、単純に『凶器はこれだ』と示すために投げてよこしたようだった。
包丁は血溜まりを潤滑油にフローリングの床の上を滑り、私の足元で停止した。
 それを凝視する。
 これが、妻と娘を刺したものか? これで、妻と娘を刺したのか?
「先生、気分はどうだい?」
 男は、微笑を崩さす、ソファに座ったまま、もう一度同じことを問うた。
 ───こいつは、誰だ?
 敵意を隠さず男を眺めるが、その顔に見覚えはなかった。過去に関わった事件の
被告かとも思ったが、被告といえば殆どが申し合わせたように病的な表情か体格を
していて、こんなに「普通な」被告など見たことがなかった。
 しかし、男は私を『先生』と呼んだ。
 その名で私を呼ぶのは、私の職を知るごく少数のみのはず。

「先生、気分はどうだい?」
 更にもう一度、その言葉を聞いた時。
 頭に血が上るのを禁じえなかった。
 気分はどうか、だと!?
 悪いに決まっている! 妻を刺され、娘を刺され、気分のいい夫がどこに居る!?

 目の前に妻と娘が血まみれで倒れている。
 その犯人は目の前にいる。
 しかも犯人は自ら凶器を手放し、
 それは私の目の前に転がっている。

 考えるよりも早く、包丁を手に取り、男に突進していた。
 憎い、憎い、憎い。
 ただそれだけを考えて。

 男は、ソファに深く腰掛けたまま、全く動かなかった。
 ソファの背もたれに広げた両腕を閉じようともしなかった。
 包丁を突き出して突進してくる私を避けようともしなかった。
 顔には微笑みを貼り付けたまま。
 ただ、私が突き出した包丁が、自らの胸に深々と刺さるのを、悠然と見守っていた。

 刃物が肉に食い込むいやな音と感触がして、それで私は我に返った。
 男の胸には、包丁が柄まで食い込んでいた。服の上からでもわかるほど、そこから
大量の血が噴出している。
 見る間にそれはソファを汚し、男の足元に新たな血溜まりを作り──。
 それでも男は、ひきつった笑みを顔に貼り付けたまま。
 やっと動く口で、最後に、また。
「き、き、きぶ、ん、は、───ど、う、…だ、……い……?」
 そう言って、動かなくなった。
 胸から流れ落ちる血の量が徐々に少なくなっていく。
 私は呆然としながら、それを眺めていた。
 
 どのくらい時間が経ったのか。
 急に、私は気づいた。
 むせ返るような血の匂い。
 鼻膣に広がる死の香りは、今まではなかったものだ。
 ───今まではなかった?
 あわてて妻の元に駆け寄る。その下に広がった血溜まりを人差し指で撫でると、指先
にはかすかにざらりとした感触が残った。気づけば、しばらく時間を置いたはずな
のに、固まる気配が全くない。
 嗅ぐと、わずかに水蝋のような匂いがした。注意深く観察すると、溶け込めなかった
顔料様のものが指先のそこかしこに付着している。
 これは、血ではない。
 妻の手を取る。……脈が、ある。
 服の胸に穿たれた穴は、よく見ると貫通していない。わざわざ上着だけに絞って
穴を開けてある。
 よく見れば、娘も安らかに寝息を立てている。表情に苦悶はなく、こちらも外傷が
あるわけではなさそうだ。
 私はそれに安堵して、笑みをこぼしそうになる。
 そして、男の遺体を見て再び愕然とした。
 男はもう動かなかった。息もしていなかった。
 男は、死んだのだ。
 微笑を顔に残したまま。
 足元に、本物の血溜まりを残して。

 なぜ───、
 なぜ、こんなことに───?

 そもそも、この男は誰だ? なぜここに居る?
 他人宅へ押し入り、虚偽の殺人を演じるなど、一体何の意味がある?
 家族を殺された(と錯覚した)者にどのような目に会わされるか、知らなかったわけ
ではあるまい。
 言えば、男の死は必然だったのだ。

 『必然の死』……。

 その言葉を反芻して、私は、思い出していた。
 それは今から十年前の、あの事件。


「主文:被告人を懲役十年に処する」

 私はその判決を朗々と読み上げた。法を熟読し、過去の判例をくまなく調べ、他の
裁判官と議論を尽くし、それが最も妥当な量刑だと、そう確信していた。
「被告人は帰宅直後、自らの妻及び娘が刺殺されていること、及び犯人Aがまだ邸内に
居ることに気づき、逆上。Aと格闘の末、奪った包丁にてこれを刺殺した。Aが被告人
宅に押し入った理由は、被告人とAとに面識が無いことから行きずりの強盗と推測され
るが、詳細は不明」
 事実認定を読み上げる。
「───以上の理由から、被告人がAを刺殺したことは正当防衛の範疇を著しく逸脱
しており、これには相当の懲罰をもって対処すべきと判断した」
 ここまで言って、私は被告人を見た。
 彼は能面のような顔で、私を見ていた。
 悔恨や、憎悪や、そういった感情を全て削ぎ落とした、どんよりと濁った瞳。
 例えるなら、それは『諦観』。
 家族を失い、自らも刑に処されることに対する諦めが垣間見えた。

 結局彼は控訴することもなく、判決はしばらく後に確定したのだった。

 半月後、私は彼を刑務所に訪ねた。判決後の連絡事項等の通達のためだ。通常は担当
裁判書士の仕事だが、その時は都合がつかず、私自身、彼のその後が気になったことも
あって、時間を作って会いにきたのだった。
 半月ぶりの彼は、疲れきった表情で、私と目を合わせることなく、面接ブースの
透明なアクリル板の向こうに座っていた。
 連絡事項を伝え終わった時、あまりの彼の変化のなさに、私はつい、こう言った。
「あなたの行動が間違っていたとは言わない。ただ、少々やりすぎただけだ」
 しかし、彼はうすぼんやりとした瞳で、無表情に頷いただけだった。
 私が帰ろうと腰を上げた時、彼はふと、誰に言うでもなく呟いた。
「僕は、犯人の死は必然だったと信じている。同じ状況に置かれたら、誰もが同じ行動
を取るだろう」
 続いて彼は、今日初めて私の方を見て、こんなことを問うた。
「もし先生が、私と同じような事件に巻き込まれたらどうする? 家族が惨殺され、
その犯人が目の前に居るとしたら?」
 そんなことを聞かれたことはなかった。そもそも、答える義務はない。しかし、
ここで彼に正しい道を示すことが、今後の彼の人生に意味があるのではないか。そんな
気がした私は、
「私は裁判官だ。法に則り、自らの行動を律することができると思う」
 自信を持って、そう答えた。
「───そう、か」
 彼は寂しげに口角を上げた。
 なんとなく、その表情が印象的だったことを覚えている。
 それきり、彼には会っていない。
 日々の業務に忙殺され、一つ一つの事案など構っていられないという現実もあった。
 個々の裁判に対する裁判官の感慨なんて、そんなものだ。


 記憶を辿って───彼の容姿を思い出す。
 ひょろりとした細身に人がよさそうな顔、癖の無い長髪。
 コンピュータエンジニアだと語った彼は、今回の事件が無ければ、人に危害を加える
ことなど一生なさそうな優男だった。
 翻って、目の前の男。
 体は一回り逞しくなり、髪は白髪が多く短く刈り揃えられてはいるが……、
 間違いない、彼だ。
 気づけば、あれからちょうど十年。刑期を終え、ちょうど出所してくる頃ではある。

 なぜ、こんなことを?
 なぜ、わざわざこんなに手が込んだ劇を演じる必要がある?

 答えは、わかっている。
 私を試すためだ。
 私の言葉を確認するためだ。
 当時の彼と同じ状況に私を陥れ、私がどう行動するか。
『法に則り、自らの行動を律することができると思う』
 その言葉に偽りはないか、それを見据えに来たのだ。
 そのためだけに、こんなことを……。
 十年も前のことなのに……。
 そう考えて、私は自嘲した。私にとっては十年「も」前のことだが、出所したばかり
の彼にとっては、あの事件は十年間ずっと続いたままだったはずだ。
 十年の歳月を経て、彼は塀の外に戻った。そして、私を───。

 復讐、ではない。
 もしそうなら、単独で私を襲う方がよほど簡単だ。
 それに、わざわざ血のりを用意してまで、彼は私の妻や娘を傷つけることを避けた。
それは彼なりの良心だったのだと信じたい。
 今となっては知る由もない。

 果たして、私は、彼を刺殺した。
 十年前の彼と全く同じだ。
 彼と違うのは、妻と娘が生きていることだけ。それ以外には、彼との間に何の差も
無かった。

 110番にダイヤルを回してしばらく。
 パトカーのサイレンが近づいてくる。
 私は、血まみれのソファーに座り込んだ。

 彼は、死してなお私を嘲けるように笑っていた。

<了>