題名:追憶に溶けていく
作者:糸染晶色
「正確には結果待ちだが、1カ月以上は経ってるな」
大家からの通報で駆け付けたアパートの一室。布団の中に男性の遺体が横たわっていた。
腐敗が進み、胸の奥が膿むような臭いがたちこめている。
室内に争った形跡はなし。
まず間違いなく老衰による自然死だろう。
―パチパチパチパチ―
……さて。
一度部屋の外へ出る。
こういう臭いは仕事柄、何度も嗅いだことはあるが、それで気持ちよく感じるわけでもない。
「発見までの経緯をお聞かせ願いますか?」
周りを高い木やコンクリートの崖に囲まれて、日中でも日差しが届かず、湿った空気が停滞している。
怯えるよう中をに覗き込んでいた大家の顔には深く皺が刻み込まれ、髪は真っ白だ。
まあ年齢は私とそう離れていないだろうから、人のことはいえないか。
「えと、中の様子は……?」
「残念ですがすでに亡くなっています」
「は、はい。それは……」
まあわかってるだろう。
一目見て生きていないことは明らかだ。
「すみませんが発見までの経緯をお聞かせ願えますか?」
「あ……はい。その、このところですね、他の入居者の方たちから苦情が……、
えっと綿部さんの部屋から悪臭がすると……。それで一週間くらい前からですかね。
何度かここの呼び鈴を鳴らしたり、電話を掛けたりしたのですが、一度もお会いできず……」
「今日になって合鍵を使って中に入ったと」
「はい」
「綿部さんに間違いありませんか?」
視線を扉の奥へ移しながら訊く。
「え、あ、その、はっきり見たわけではないので……。びっくりしてすぐ警察を呼んだんです」
「そうですか」
「あの、もしかして綿部さんじゃない……とか……?」
「いえ。形式的な確認です。身元を確かめる必要がありますので」
先程の様子を思い浮かべて、それから表札を確かめる。
あとで身分証を探して、それで難しければ歯型の鑑定になるだろう。
しかしホトケさんが別人ということはまず考えがたい。
「綿部さんのご年齢を教えていただけますか?」
「年齢……えっと……かなりご高齢だったかと思いますが、正確にはちょっと」
「……だいたいは?」
「80代……70……いや90いっていたかも……?」
「最後に綿部さんと会ったのはいつですか?」
「えっと、どうでしょう。何カ月前だったか……はっきり思い出せません」
「綿部さん、ご近所づきあいとかは?」
「いえ、ほとんど無かったかと思います。何しろお歳なので、あまり表を出歩くこともなかったようです。
ええ。滅多に姿を見なかったですね」
「家賃の滞納はありませんでしたか?」
「いいえ。口座からの引き落としでして、綿部さんは滞納は一度も」
確かに事件性を疑わせるような痕跡は何もない。
ただ妙なところが一つだけ。
もう少し調べておこう。
「それでは、しばらくしたら私の仲間がもう数人ばかり来ると思います。済みませんが表で車の誘導をお願いできますか?」
「車というとパトカーでしょうか?」
「はい。それはもちろん」
「その……できればパトカーはやめてもらえないでしょうか。普通の車ではだめでしょうか」
「どうしてですか?」
「パトカーなんかが……あ、いや別に悪い意味じゃなくて、目立ってしまいますし、周りの噂にも……。
その、アパートで死体が出たなんて知れたら借り手が……」
「申し訳ありませんが、もう連絡して出発してしまっているので。
サイレンは鳴らさないようにさせますから、どうかご理解ください」
「…………」
「私はもう少し中を調べさせてもらいます。重ね重ね済みませんが誘導をお願いします」
「わかりました……」
どちらにせよサイレンは鳴らさないのだが。
うなだれる大家を残して遺体の下へ戻る。
この部屋で一つだけおかしいのは――
――ワァッ――
薄暗い部屋に歓声が響き、次々に切り替わる青白い光が私の顔をまだらに染め上げる。
主を失った部屋で、一台のテレビだけが動き続けていた。
――〜〜〜〜――
芝の荒れた野球場でベンチから飛び出した少年たちが一塁にいる少年に駆け寄っていく。
サヨナラヒットを打ったようだ。
画面の足元で高価そうなHDDプレーヤーが埃にまみれて駆動している。
ヒットを打った少年の顔がアップになる。
なんとなく、その少年は布団の中で朽ちている老人の幼き日の姿なのだろうと思った。
「柴崎さん、これ、アパートで死亡していた男性の件の調査結果です」
この間の遺体の調査が終わって、その報告書を渡された。
あのあとは虎縞テープで部屋が封鎖されて、野次馬も集まった。
大家の希望は残念ながら叶わなかったことになる。
遺体は綿部敏郎93歳。……93か。結構だな。
それを捲りつつ、持ってきた木林に訊く。
「どうだった?」
「はい。やはり衰弱死ですね。事件性はないと判断されたみたいです。
だいぶ昔のものだったようですが、歯の治療歴とも一致したようです」
「ああ。近親者は?」
「妻は17年前に他界してからは一人暮らし。娘と息子がいますが、どちらも数十年来連絡は取っていなかったとのことです」
「そうか。仕事は何をしていたんだ?」
「市役所職員ですね。定年退職してからは年金生活だったようです」
「それで、あのビデオは?」
私はあの部屋で応援を待つ間、ただただ流れ続ける映像を見ていた。概ね検討はついている。
「それなんですが、どうにもホトケさんの……、なんていうんですかね、自伝ビデオ……ですかね。
ホトケさんの昔の映像や写真を編集して時系列ごとに繋ぎあわせたもの……みたいです」
「そうか」
あの部屋で見ていた限りでも、画面には運動会や卒業式の映像、友人たちと行ったらしい山での旅行写真が映っていた。
現場検証でHDDプレーヤーが止められたのは生まれた子供の映像と泣き声が流れているときだった。
「あれはなんだったんですかね。確かに事件に巻き込まれたとかではないでしょうけど、気味が悪いですね」
気味が悪い……ね。
そう感じたか。
木林を見ると服の上からでも筋肉の張りがわかる。
「お前、歳いくつだったっけか?」
「え? えーと31です。今月末で32ですね」
「そうか」
「それがどうかしましたか?」
そういえば少し落ちつきが出てきたような気はするが、三十路になって経験を積んだような気になったのかね。
「いや、お前はまだまだ若造だってことだ」
こいつが新米だった頃を考えると、いまの仕事ぶりは評価してやってもいい。月日の経つのは早いな。
とはいえもう定年が見えてきた私からすればまだまだひよっこだ。
「なんでですか。俺だってもう今年の新入りを指導する立場なんですよ」
「知ってるよ。それでもだ」
「ひどいですよもう。……それでこの事件は終わりですかね?」
「そうだな。娘と息子の遺産問題はあるだろうが、それはウチらの領分じゃない。仕事はいくらでもある。残念なことにな」
「……はい」
冷えたビールを喉に流し込み、温めなおした筑前煮を箸でつつく。
芸人がヨーロッパ旅行をする番組を眺めていたが、逐一大げさな驚きの表情を作る顔が不快になってチャンネルを変えた。
居間の扉を開ける音。
「葉子か」
「私しかいないでしょうに。達也が独立してから何年経つと思ってるんですか」
何年……そうだな、何年前だったかすぐには思い出せない。
ほんの去年までいたような気がして、それが何年経っても抜けないでいる。
「どうだ、一緒に飲まないか」
「遠慮しときます。もう歯も磨いてしまったので」
寝間着姿であくびをかみ殺すのが見えた。
「この筑前煮、旨いよ」
「なんですか急に。もう酔ってるんですか。歳なんだからお酒はほどほどにしてくださいね」
「まだ酔ってないさ」
「酔っぱらいはみんなそう言うものです」
「それじゃなんて言えばいいんだ?」
「酔っぱらってるって言えばいいんじゃないですか」
言いながら葉子が向かいの席に座る。
………………。
お互いになんの言葉も交わさず、テレビからニュースキャスターの声だけがする。
空になったグラスにビールを注いで口をつける。
泡だけが流れ込んできた。
「……愛してるよ」
妻は私を見て口を開け、時間が止まったかのように動かなかった。
「愛してる」
「……あ、え。なんなのほんとに。あなたちょっとおかしいわよ。私はもう寝ますから。あまり深酒しないようにね」
そして立って行ってしまう。
また一人になった。
ビールを呷る。今度はちゃんと黄金色の液体も味わえた。
テレビではまだアナウンサーが今日あった出来事を伝えている。
その真面目そのものな表情には何も思うところはなかったが、リモコンの電源ボタンを押した。
音が消える。
この仕事をしていると身の危険を感じることもしょっちゅうだ。
殉職の話を聞いたことも一回や二回ではない。
自分がそうなるとは思わないにしても意識したことはある。
目の前の男が突然ナイフを抜いて飛び掛かってこないとも限らない。
それが当たり前になって、危険だとさえ思わなくなって久しい。
きっとオフィスの会社勤めの連中は殉職なんて考えたこともないんだろうな。
そんな危険の欠片もなかった仕事。あの老人の遺体がぼんやりと、だが薄れることなく脳裏に染みついている。
顔がグラスに映り込んだ。
凄味を利かせる迫力は経験とともに積み上げてきた。しかし、昔の、新米の頃の覇気は失って久しい。
私は定年後にどうしているだろうか。
仕事一筋で生きてきた。仕事が生きがいだった。仕事が人生だった。
そのために他のものは全て犠牲にしてきた。葉子も、達也も、犠牲にしてきた。
私は達也の入学式や卒業式なんてたぶん小学校のときしか参席していない。
葉子のために夫として、達也のために父として、何をしてやれただろう。
外で仕事をして稼いでくるという役割は十二分に果たしてきたと胸を張れる。
だがそれだけでよかったのか。
あの部屋で見た映像が鮮明に思い出される。
在りし日のあの老人は恋人と、多くの友人たちに囲まれ、その人たちを照らすほどに輝いた笑顔を浮かべていた。
報告書によればあの映像はちょうど24時間に編集され、最後まで終わると最初から繰り返し再生されるようになっていたという。
子供が独立した後、伴侶も失い、一人残された老人はどのように日々を過ごしていたのだろう。
歳を重ねるにつれて友人も次々に他界する。
きっと、だからだろう。
自分が生きてきたその記憶を、妻と子供と友人たちとともにいた日々を、失いたくなかった。
最後には幸せな日々の夢をみながら死ぬことを望んだ。
だんだん動かなくなっていく身体で布団に横たわり、薄れていく意識に溶けていくように。
ずっと、ずっと、終わらない追憶の日々。
あの機械は役目を終えた後も、止まることなく繰り返し、繰り返し、映像を流し続けていた。私たちに発見されるまで。
きっと老人はその願いの通りにその人生の幕を引くことができたのだ。
では私は。
ああして振り返るような人生を歩んできただろうか。
……残ったビールを飲み干す。
これからは葉子のために何かしてやろう。
休日には家で寝ていないで葉子をどこかへ連れて行ってやろう。
……いや、違う。
私が葉子とどこかへ行きたいのだ。葉子のために、なんて誤魔化しもいいところだ。
これまでずっとわがままを通してきて、またわがままを言おうとしている。
今度の休日に温泉にでも行こうか、だなんて言ったら葉子はどんな顔をするだろうか。
それでもいい。唐突なのはわかっている。
もし葉子が温泉を喜ばなくても、次は葉子のわがままを聞いてやればいい。
むしろ葉子の方こそがわがままを言うべきなのだから。
なにか欲しいものがあるなら一緒に買いに行こう。
洋服でも化粧品でも。ちょっとしたブランドもののバッグだって買ってやれるくらいには働いてきた。
空になった食器を流しにさらすと、水が小鉢の汁を押し流していく。
過ぎ去ってしまった時間は変えることができない。
後悔していないと言ったら嘘になる。
だからせめてこれからの時間だけでも、幸せだったと振り返れるように。