【「書くことの実感と論理」伊藤整、の、私的勉強用レジュメ】 進行豹 ―――――――――――――――― (注)  この文章は、明治書院、野間宏編 「小説の書き方」に所載されている 伊藤整「書くことの実感と論理」を、私、進行豹が、自分の勉強のために、 自分の読み方で読み、自分の書き方でまとめなおしたレジュメです。  私が原著を理解しきれておらず、あるいは誤読している危険は大変に高く思われ、 また、私が、「私の必要としている勉強には余分」であると感じた部分は、 本レジュメ内にはまとめられておりません。  ので、本レジュメを読んでくださる方が「これは役に立ちそう」と お感じになられた場合には、原著の方をご参照されること、強くおすすめ申し上げます。 ―――――――――――――――― 一「注意力ということ」 ・ マラソン選手と普通の人が走るのを比べても、一歩二歩では大差がない。   それと同じように、一流作家とそうでないひとの文章も、各部分の差は大したものに見えない。   しかし、全体を通して比較すれば、その少しずつの違いが圧倒的な大差になる。   その「少しづつの違い」の差のひとつは「注意深さ」の差である。 ・ Aという人は、人の表情を注意深く見る。    他の人が 「美しい」「可愛い」で済ませてしまうところを、   「むしろ均整の取れてない顔ではあるが、そのアンバランスさが美しさを作っている」とか、     「顔つきは平凡なのだが、はにかむ表情が可愛いのだ」 とか観察することができる。   このAという人は、他の人とくらべて、「より詳細に、正確に」表情を描写できるであろうし、   また、「美しさ・可愛らしさ」などといったものに いくつもの面があることを伝えることができる。   Bという人は、人の気持ちの変化や、人と人との関係には良く気がつく性質を持っている。   他の人が「美しい」「可愛い」で済ませてしまうところを、この人は   「この女性は、とても楽しげなのだ」と感じることができる。   そこから「何故楽しげなのだろう?」という疑問を感じ、観察し、   「どうやら、この女性はこの男性と一緒にいるのが幸せらしい」という観察結果を得ることができる。   このBという人は、他の人とくらべて、「仕草や動作に現れる感情」を良く描写できるであろうし、   また、「美しさ・可愛らしさ」といったものが、他者との関係によっても産まれてくることを伝えることができる。 ・ 小説とは「人間」を書くものであるから、このように「人間に対して注意深くある」ことは、   良い作品を作っていく上で、ほとんど必須ともいえる条件となる。 ・ 「どのような点に注意・興味が向きやすいか」という注意力の傾向には、産まれながらの差異があるように思われる。   「自分が、何に興味を持ちやすく、何に対して集中できるのか」を知ることは、注意力を伸ばす第一歩である。 二「影響について」 ・ 注意力はしかし、十分に訓練されず、伸ばしきられずに終わってしまうことが多い。   どのようにすれば、注意力を見出し、伸ばすことができるのだろうか? ・ 自分が、「何に興味を持ちやすく、何に対して集中できるのか」を知るためには、   「他人の作品の中の、何に共鳴するか」につき意識してみると良い。   「好きな作家」「好きな作品」の中に、共通する要素が無いかを探してみると良い。   それは技巧的なもの(話の組み立て方、キャラクターや舞台の設定、演出方法など)かもしれないし、   内面的なもの(書かれた人物や、その向こうの作者の思想や人生観)であるかもしれない。   が、いずれであっても、「好きな作家・作品に共通する要素」を見出せたのなら、   それが「あなたが興味を持ち、集中しやすい要素」である確率は高い。 ・ しかし「それが自分の本質」であると決めつけてはならない。   好きな作家は作品は、大概の場合、自分の成長や変化につれて、移り変わっていく。   興味の持ち用・集中しやすさにも、そのように、時代に即して移り変わっていくものと、   そうではないものとがある。   そのどちらも非常に重要であるので、「これが自分の本質」と安易に決め付けず、   それが移ろうものだと知りつつ「今の自分が、何に対して興味を持ち集中しやすいか」を   常に意識して探った方が良い。 ・故に、「注意力を伸ばすためには他者の作品、あるいは行動、言葉などに影響されることが必須」である。  影響される、ということが必須である。 ・影響されることから産まれてくるものは「真似」である。  真似て、しかし自分が、影響された元の作品には遠く及ばないものしか書けないと知ることが、  創作の第一歩である。 三「書くことの練習」 ・ われわれは誰でも「ことば」を使える。   ことばを使うのに日常不自由しない故、われわれは、ことばに熟達しているように思っている。   しかし、われわれが日常つかうことばは、表情、仕草、イントネーションなどなどによって   大変に助けられているものである。 ・ ことばを文字にして紙に書いてしまえば、その助けは失われてしまう。   われわれが「思ったほど書けない」理由の第一はこれである。 ・ 書くことに上達する、ということはつまり、  「表情や、仕草や、イントネーションに変わるものを文章に与え、ことばを生きているものにできるようにする」  ということである。 ・ そのような技術を身につけるための方法としては、  「自分の尊敬する作家の作品を書き写す」というものが良く知られている。   しかし、注意深い観察により「書かれているものの本質」を見極めようと努力することなしに書きうつしを行ってしまえば、  「ただ、その作家に特有の言い回しや文章のクセ」のみを学び取ってしまうことになる危険性がある。 ・ あるいは、「詩」「短歌」「俳句」のように、短く力ある言葉を書きうつし学ぶ、という方法もある。   これにより、自分が詩や短歌や俳句に適正があると知れば、それを終生の表現方法とすればよい。   ・ 「自分の詩を書くこと」は、その衝動があるのであれば、書きうつし以上にオススメできる書くことの練習となる。   ただし、詩や短歌や俳句には「自己の傾向を極端にしてしまう」という危険性がある。   たとえば、自分の心の動きにばかり目が向く人の詩は、自分の心の動きをとらえることのみに集中し、   他者との関係や社会のありようから目を閉ざしてしまうことになりがちであるかもしれない。   あくまで、小説を書くことが目的であるのなら、その点には注意しなければならない。 ・ 戯曲を読み、芝居を見ることは「人と人との組み合わせ方」を知るために大変に良い勉強になる。   なんとなれば、戯曲・芝居は「会話」のみが中心となり進められるものであるから。    ・ 日記をていねいに書くことも、観察・反省・記録の方法としては大変に役にたつ。   ただし、書くことに執着し「書くために書く」となってしまうと、自己を閉じ込めてしまう。   書くことと、読み・見ることとは交互に同時的に行うべきことである。 ・ 翻訳ができるひとは、翻訳をすることで、大きな勉強をすることができる。   特に、自分の作品を書いてみて、自分が「どこをどう書けない」のかを知ったあと、   海外の偉大な作家の作品を翻訳してみると、先人がどのようにその壁を破っているのかをまざまざと知ることができる。   技術的な急所を知るために、これほどに優れた方法は無い。 四 「小説を書く基礎の働き」 ・ 二十代の人には二十代の情感の働きがあり、   三十代をすぎた人には、その経験からくるものの見方がある。   よほど天才的な人間でないかぎり、二十代の情感を生かしながら、同時に人間の存在の本質を把握することはできない。   二十代の青年が、その年齢において失敗しないためには、ゆえに、背伸びせず、  「そのときに自分の内側にあるものを、そのまま(文章に)定着させること」である。 ・ もしほんとうに自分を生かした作家になろうと思うのならば、   発表ということを一応別にして、数多く、あらゆるものを、常にそのときの自己に即して、熱情的に書かねばならない。   ほとんど無限というべき修練のみが、「芸」を作りあげる。 ・ 熱情的に書き散らしたものは、もちろん、そのまま作品にはならない。   興奮状態が冷めてのち、醒めた冷静さの中で書き散らしたものを見直し、   「はじめの着想・感動をどうしたら良く伝えられるか」という意識をもって、作品に仕立てなおさなければならない。    ・ 「本当に心を動かされたこと」こそが、小説を書くためのもっとも大切な原資である。    それを、ゆめゆめおろそかに扱ってはならない。 ・ ここで、話は一番最初の 「注意力」に戻る。   とても可憐な花を見て心を動かされたとする。   そのとき、ノートに「とても可憐な花を見た」と安易に書き写したのであれば、   のちに、「そのときに何故心が動いたのか」を追認することは、恐らく極めて難しくなる。   「何に心をどう動かされたのか」を知り、安易な表現に流されることなく、   自分のことばでそれを丁寧に掬いあげることこそが、まさに「作家の仕事」なのである。