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あらゆる生あるものの目指すところは
死である

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 予見術、神官術と並ぶ 最も古き魔術の一つ、死霊術。

 それがなぜ求められ、産まれてきたのでかは、
誰にでも容易に想像できよう。

 だが、あえて言おう。
 その想像は、誤解であると。


 全ての生は死と背中あわせにしか存在できない。

 生を思うことは死を思うことであり、
生を送るということは死を迎えるということである。

 それゆえに、
原初の死霊術師たちは、決して死を畏れなかった。

 死とは、迎え入れるべきものであり、
思うべきは「生の永続」ではなく「死の その後」であったのだから。

「死の その後」を如何に望むかは、大きく二分された。

「死後の世界」を望むものと。
「現生とかかわり続ける」ことを望むものとに。

 前者の望みは、宗教――神官術の発展へとつながり。
そして、後者の望みが、死霊術を発展させていった。

 神官術は、長い長い時間をかけて、
「死後の世界」を作り上げ。
よみがえり(蘇生)
あるいは うまれかわり (輪廻・転生)
などの魔術概念を織りなしていった。


 片や死霊術は、
「死後の生」のみを希求しつづけ、
文字通りの“死霊化”――
つまり、死後も“霊 ≒ 肉体を有しない純粋な意識体”として
「死後ではない世界」に存続し続けることを、その究極の目的として発展していった。

 死霊術とは、
死を恐れ、死を回避する魔術系でも、
生を求め、生に固執する魔術系でも無く、
“死と生とを 値の面において差異の無い/連続させたものとして扱う”ことこそを、
その魔術根拠とする魔術系なのである。


 しかしながら、人々の暮らしが発展し、
“生”を謳歌していくようになるに伴い、
死霊術は神官術、またその魔術概念に圧倒されていくようになった。

 “多数派の万象術”との異名を持つ神官術の発展に、
死を生と等しく扱うことを“望む”もの自体が減少し、
魔術根拠自体の喪失の危機に瀕した死霊術が抗い得る筈もなく。
 死霊術は、衰退の一途をたどっていくこととなった。

 が、死霊術は滅びなかった。

 滅びに瀕した古の死霊術師たちは、
キリスト教の隆盛と呼応させるかのように、
“神官術の魔術根拠”の、意図的な借用を行うようになったのである。

 また借用元の範囲は、キリスト教のみにとどまることもなかった。


 この効果は絶大であり、影響は深刻なものとなった。

 もともとは――

“魂が死霊化に成功するまでの間、
 現世にとどらせつづけるための器”

――であるにすぎなかった(古エジプトにおける)ミイラは、
“キリスト教的転生のための手段”と解釈されるようになり、
それにともない、神話そのものが本来のものとかけなれたものとして
“解読”されていくようになった。

 各種宗教の死生観の“輸入”は、死霊術の“信じられやすさ”を
飛躍的に向上させ、絶滅寸前であった死霊術の息を吹き返させた。

 が、この借用を許し難く感じた神官術師たちの“伝道”により、
“死霊術師たちは、 屍を意のままに操り、辱めるものである”というイメージが
定着させられてしまった。

 このイメージは、むろん、大いに誤っている。

 “魂の宿らぬ死体を、単なる<もの>と解釈し、そこに魔力を付与し操る”
のであれば、それは死霊術師ではなく、付与術師、の所業であるに違いないので。

(と、私に死霊術を教授してくれている信じられぬほど古い死霊術師は語っている。
 付与術師の諸兄においては反論もあられようが、今はご容赦願いたい)


 ともかく。
 死霊術とは、
<死と生とを区別し、連続したものと扱う>
ことを魔術根拠とするものであり、死霊術師たちが“屍者”を扱う場合においても、
それは“死体を操る”ものではありえない。

 一見、死霊術師たちが“操っている”ように傍目には見える屍者たちは――

“死霊化を出来るだけの能力を持ち得なかった死霊術師、
 あるいは、その他の目的を有した何物かが、
 <死後も現世にかかわりつづけるための手段として、
 死せる肉体を器とすることを選んだ>”

――ものにすぎない。


 繰り返すが、死霊術師の究極の目的とは
“死後も死霊とし存在しつづけ、その<生>の目的を完遂する”
ことにあり、
“魂を扱う術”は、そのために磨かれてきた“手段”にすぎない。

 繰り返そう。
 死霊術師の根源欲求――
死霊術師たちの魔術根拠は、
“死と生と同居”なのである。

それは死の肯定ではなく、ましてや死の否定でもない。


 死霊術師が死と死者と魂とをもてあそぶ、
真に邪悪なものであったのであったのならば、
“死霊術”などという術系統は、とうに消滅していたであろう。

 死霊術師は、死を恐れず、けれど死に対する畏れを失うことも無い。

 
 死霊術は常に“死”とともにあり続け――
 故に。
 常に“生”とともにあり続けるのだ。