「枕草子」学習のための書き写しとフィーリングによる(恐らくは間違いだらけの)現代語訳 進行豹 2012/04/20- (一から十 : http://hexaquarker.com/gakushuu_makurano_1_10.txt ) ------ 十一 山は  山は、小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。かせ山。ひえの山。かささり山こそは、いかならむとをかしけれ。いつはたの山。のち瀬山。かさとり山。ひらの山。床の山は、「わが名もらすな」と御門のよませたまひけむ。いとをかし。  いぶせの山。あさくら山、よそに見るがをかしき。いはた山。をひれ山も、臨時の祭りの使など思ひ出でらるべし。手向山。三輪の山、いとをかし。音羽山。まちかね山。たまさか山、耳なし山。末の松山。葛城山。美濃のを山。柞山。位山。吉備の中山。嵐山。更級山。姥捨山。小塩山。浅間の山。かたため山。かへる山。妹背山。 ( お気に入りの山は、、小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。かせ山。ひえの山。   かささり山は、いったいどうやって傘を捨てるのか面白い。   いつはたの山。のち瀬山。かさとり山。ひらの山。   床の山は、「わが名もらすな」と帝が歌にお詠みになられてて、実にいい感じ。   いぶせの山。あさくら山は、直視しないで横目で見ると雰囲気がある。   いはた山。をひれ山も、お祭りのときに臨時のお使いのことがきっと思い出される。   手向山。三輪の山、すごく素敵。   音羽山。まちかね山。たまさか山、耳なし山。末の松山。葛城山。美濃のを山。柞山。位山。吉備の中山。嵐山。更級山。姥捨山。小塩山。浅間の山。かたため山。かへる山。妹背山。 ) ------ 十二 峰は  峰<*1>は、つるはの嶺。あみだの峰、いや高の峰。 ( 頂上が素敵なのは、つるはの嶺。あみだの峰、いや高の峰) <*1> 山と峰とでわざわざ分けているので、多分、「山頂」にとくに言及するニュアンスかなぁ、と。    ------ 十三 原は  原は、たか原。みかの原。あしたの原。その原。萩原。あはづの原。なし原。うなゐごが原。あべの原。篠原。 (草原だったら、たか原。みかの原。あしたの原。その原。萩原。あはづの原。なし原。うなゐごが原。あべの原。篠原。がいい。) ------ 十四 市は  市は、たつの市。つば市は、やまとにあまたあるなかに、長谷寺に詣ふる人の、かならずそこにとどまりければ、観音のご縁あるにや、心ことなり。おふの市。しかまの市。飛鳥の市。 (お買い物には、たつのいちがいい。  つばいちは、大和にたくさんいちがあるのに、長谷寺に御参りする人が必ず立ち寄るんだから、観音さまのご縁があるような気がして、特別な感じがする。  おふのいちとか、しかまのいち、飛鳥のいちも楽しい) ------ 十五 淵は  淵は、かしこ淵。いかなる底の心を見えて、さる名をつきけむと、をかし。ないりそ<*1>の淵。たれにいかなる人の教へならしむ。青色の淵こそをかしけれ。蔵人などの身にしつべくて。いな淵。かくれの淵。のぞきの淵。たま淵。 (淵でおもしろいのは、かしこ淵。淵の底を見てどんな心情をよみとって、そんな名前をつけたのかしらんと思うと楽しい。  ないりその淵。誰に、どんな人が“入らないでください”と教えたんだろう。  青色の淵もほんとに素敵。秘書官たちが服にしちゃいそうで。  いな淵。かくれの淵。のぞきの淵。たま淵。あたりもいい) <*1 “な+ 動詞の連用形 + そ”で、「××しないでください」的な意味。この場合は “な + 入り + そ”で「入らないでください」の、淵>   ------ 十六 海は  海は、水うみ。与謝の海。かはぐちの海。伊勢の海。 (海だったら、真水の海<*1>がいい。  あと、与謝の海。かはぐちの海。伊勢の海も。)   <*1 多分、琵琶湖> ------ 十七 みささぎは  みささぎは、うぐひすのみささぎ。かしは原のみささぎ。あめのみささぎ。 (天皇の陵墓だったら、うぐひすの陵がいい。それから、かしは原の陵。あめの陵。)   ------ 十八 わたりは  わたりは しかすがのわたり。みづはしのわたり。<*1>   (船の渡し場で面白いのは、しかすがのわたり。それと、みづはしのわたり)   <*1 "しかすが は、「そうはいっても」という意味。地名であろうしかすが(春日?)と、「そうはいっても(船は怖い)」というのが重なってるのが面白い、っていう感じかと。    みづはしも水橋なので、船の渡し場の名前としては大変にエレガントな感じなのかなぁ、と)> ------ 十九 家は  家は、近衛の御門。二条、一条よし。染殿の宮。せかゐ。みかゐ。<*1>すが原の院。れぜいの院。とう院。小野宮。紅梅。あがたのゐど。東三条。小六条。 (家で素敵なのは、近衛の御門。  二条、一条も綺麗。  染殿の宮。せかゐ。みか院。すが原の院。れぜいの院。とう院。小野宮。紅梅。あがたの井戸。東三条。小六条。   <*1 世界。未開。ではなく、例えば、“静花院”“美花院”とかそういう固有名詞であろうかと推測いたします>  ------ 二十 清涼殿の丑寅の隅の  清涼殿の丑寅の隅の、北のへだてなる御障子には、荒海のかた、生きたるものどものおそろしげなる、手長足長ぞかかれたる。うへの御局の戸押しあけたれば、常に目にみゆるを、にくみなどして笑ふほどに、高欄のもとに、青きかめの大きなるすゑて、桜の、いみじくもおもしろきが五尺ばかりなるを、いとおほくさしたれば、高欄のもとまでこぼれ咲きたるに、昼つかた、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の指貫、白き御衣ども、うへに濃き綾のいとあざやかなるを出して、まゐりたまへり。うへのこなたにおはしませば、戸口の前なるほそき板じきにゐたまひて、物など奏したまふ。御簾の内には女房桜の唐衣どもくつろかにぬぎ垂れつつ、藤、山吹など、色々にこのもしくて、あまた小半蔀の御簾より押し出でたるほど、昼の御座の方に、おものまゐる足音高し。けはひなど、「おしおし」と言ふ声聞こゆ。うらうらとのどかなる日のけしき、いとをかしきに、果ての御盤持ちたる蔵人まゐりて、おもの奏すれば、中戸よりわたらせたまふ。  御供に大納言殿まゐらせたまひて、ありつる花のもとにかはりゐたまへり。宮の御前の御几帳押しやりて、長押のもとに出でさせたまへるなど、ただ何事ともなく、よろづにめでたきを、候ふひとも、思ふことなき心地するに、「月日もかはりゆけども久に経るみむろの山の」と。「宮高く」といふ事をゆるるかにうちよみ出してゐたまへる、いとをかしとおぼゆる。げにぞ、千年もあらまほしげなる御ありさまなるや。 陪膳つかまつる人の、をのこどもなど召すほどもなくわたらせたまひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにのみ、ただおはしますをのみ見立てまつれば、ほどほどつぎめもはなちつべし。白き色紙を押したたみて、「これにただいまおぼえむ古ごと書け」と仰せらるるに、外にゐたまへるに、「これはいかに」と申せば、「とく書きてまゐらせたまへ。をのこは言まずべきにもはべらず」とて、さし入れたまへり。御硯取りおろして、「とくとくただ思ひめぐらさで、難波津も何も、ふとおぼえむを」と責めさせたまふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みて思ひ乱るるや。  春の歌、花の心など、さいふに、上臈二つ三つ書きて、「これに」とあるに、    年経ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし ということを、「君をし見れば」と書きなしやるを、御覧じて、「ただこの心ばへどものゆかしかりつるぞ」と仰せらるるついでに、「円融院の御時、御前にて、『草子に歌一つ書け』と殿上人に仰せられけるを、いみじう書きにくく、すまひ申す人々ありける。『さらに手のよしあしさ、歌、をりに合はざらむをも知らじ』と仰せられければ、わびてみな書きける中に、ただいまの関白殿の三位中将と聞こえけるころ、    しほの満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふやはわれ といふ歌を、末を『たのむやはわれ』と書きたまへりけるをなむ、いみじくめでさせたまひける」と仰せらるるも、すずろに汗あゆる心地ぞしける。若からしむ人は、さもえ書くまじきの事のさまにやとぞおぼゆる。例の、ことよく書く人々も、あいなくみなつつまれて、書きけがしなどしたるもあり。  古今の草子を御前に置かせたまひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末はいかに」と仰せらるるに、すべて夜昼かかりておぼゆる、け清く覚えず、申し出でられぬことは、いかなることぞ。宰相の君ぞ十ばかり。それもおぼゆるかは。まして五つ、六つ、三つなど、はたおぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さやはけにくく、仰せ言を、はえなくもてなすべき」と言ひ、くちをしがるも、をかし。知ると申す人なきをば、やがてよみつづけさせたまふを、「さてこれはみな知りたることぞかし。などかくつたなくはあるぞ」と言ひ嘆く。中にも、古今あまた書き写しなどする人は、みなおぼえぬべきことぞかし。 「村上の御時、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一条の左大臣殿の御むすめにおはしましければ、たれかは知りきこえざらむ。まだ姫君におはしけるとき、父おとどの教えきこえさせたまひけるは、『一には御手を習ひたまへ。次には琴の御琴を、いかで人に弾きまさむとおぼせ。さて古今二十巻をみな浮かべさせたまはむを御学問にはせさせたまへ』ととなむ聞こえさせたまひけると、聞しめしおかせたまひて、御物忌なりける日、古今を隠してわたらせたまひて、例ならず御几帳を引きたてさせたまひければ、女御、あやしとおぼしけるに、御草子をひろげさせたまひて、『その年その月、何のをり、その人の読みたる歌はいかに』と問ひきかせたまふに、かうなりと心得させたまふもをかしきものの、ひが覚えもし、忘れたることなどもあらば、いみじかるべき事と、わりなくおぼし乱れぬべし。その方おぼめかしからぬ人二三人ばかり召し出でて、碁石して数を置かせたまはむとて、問いきこえさせたまひけむほど、いかにめでたくをかしかりむ。御前に候ひけむ人さへこそ、うらやましけれ。せめて申させたまひければ、さかしうやがて末などはあらねど、すべてつゆたがふ事なかりけり。あさましく、なほすこしおぼめかしく、ひが事見つけてをやまむと、ねたきまでおぼしめしける。十巻にもなりぬ。『さらに不要なりけり』とて、御草子に夾算して、御とのごもりぬるも、いとめでたしかし。いと久しうありて起きさせたまへるに、 『なほ、この事左右なくてやまむ、いとわろかるべし』とて、『下十巻、明日にもならば、ことをもぞ見たまひ合わする、今宵定めむ』とて、御との油近くまゐりて、夜ふくるまでなむよませたまひける。されど、つひに負けきこえさせたまはずなりにけり。うへわたらせたまひて後、かかる事なむと、人々殿に申し立てまつりければ、いみじうおぼしさわぎて、御誦経などあまたせさせたまひて、そなたに向ひてなむ、念じくらさせたまひけるも、好き好きしくあはれなる事なり」など語り出でさせたまふを、うへ聞しめして、めでさせたまひ、「いかでさおほくおませたまひけむ。われは三巻四巻だにも、えよみ果てじ」と仰せらる。「昔は、えせ者もすきをかしうこそありけれ。ころごろ、かやうなる事は聞ゆる」など、御前に候ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたまるなどまゐりて、口々言ひ出などしたるほどは、まことに思ふことなくこそおぼゆれ。 (清涼殿の北東のすみ、北の方を隔てている襖には、荒れた海の様子、生きてる者たちの恐ろしげな様子、妖怪・手長足長の姿が、描かれている。  上の御局の戸を開ければいつでも目に入ってくるので、いやぁねえと笑ってしまうのもだから、建物の外まわりののへりのところに、青くて大きな甕をおいて、そこに桜の、すっごく綺麗な1.5メートルくらいの枝をたくさんたくさんさしたら、へりの下までこぼれ咲いてきちゃって。  お昼頃、大納言 <*1>どのが、桜のがらの、すこし柔らかな感じの着物に、濃い紫の袴をはいて、襟元には白をのぞかせて、上には濃い綾織りの素晴らしく鮮やかな衣をまとって、宮中へとあがってらしゃった。)  お上(天皇)がこちらにいらっしゃったので、大納言どのは戸口の前の細い板敷の上におすわりになって、ご報告などされている。  御簾の内側にはメイドたちがチャイナ風の着物をゆったりと重ね着していて、藤の柄や山吹の柄とかがとりどでとってもキュートで、仕切りの御簾の中からちらっと押しだしてのぞかせてる。  お上が昼を過ごされる席の方には、お昼ご飯を持ってくる人たちの足音が高く響いている。気配がして、「おしおし」という声が聞こえる。  うらうらとのどかな一日の様子がすごく素敵と思っていると、お昼ご飯のラスト一品ののせたお盆を運んでいた秘書官がやってきて、お上にお食事の用意が整ったことをご報告すれば、お上は中の戸からお昼の席におうつりになる。  お上のお供に、大納言どのもやってらして、さきほどのこぼれるほどの桜の枝の下に、席をお変えになる。  中宮・定子さまが、御前の間仕切りを押しやって長押の舌にまで出てらっしゃったりて、本当に何というほどのこともなくて、なのに全てが幸せな感じで、おそば仕えをする私も、もう何の気がかりもない満ち足りた気持ちがする、と、大納言どのが「月も日も かはりゆけども 久に経る みむろの山の――」<*2>と、 「宮高く」つまりは、「月日がどんなにかわったとしても、みむろの山のように、中宮さまの幸福がずっと高くつづきますように」ということを、ゆるやかにお詠いになられて、すっごく素敵だなぁと感じる。  本当に、千年だってこのままでいらしてほしいほど、中宮さまは素敵な様子をしてらっしゃる。    配膳係の人が、食器をさげるための人が集めおわりもしないうちにお上がこちらへ渡ってらっしゃる。中宮さまが「硯に墨をお擦りなさいな」とおっしゃられるのだけど、目はふらふらとお上のご様子を見てしまって、あやうく墨の継ぎ目を離してしまいそうになる。中宮さまは、白い紙をおたたみになられて、「これに今思いついた古歌を書きなさい」とおっしゃられるので、外にいた方に「これはどうしましょう?」と話しかけると、「すぐにお書きなさい。男が口出しすることではありません」と言って、御簾の外へと差し出した紙を差し戻されてしまう。  中宮さまが、硯をおろされて、「早く早く、考えてばかりでないで、難波津でも何でも、思いついたのでいいから」とお急かしになるので、どうしてそんなに怖じけづいてしまったものか、顔じゅう真っ赤になってしまって、慌ててしまう。  春の歌や、花の心を詠った歌など、そうはいいながらも身分の高いメイドの方々が二つ、三つとお書きになって、「ここに」とおっしゃるので、    年経れば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし    --- 年月がたち 私は老いてしまっている そうではあるけれども 花を眺めれば 何の憂いもなく過ごせる ---- という歌の「花をし見れば」を「君をし見れば」 -中宮さまを眺めれば- と改めて書いたのを、中宮さまがご覧になって、 「ただ貴方達の心のありように興味があったの」とおっしゃられ、同時に、 「円融天皇のお治めになられていた時代、天皇が、その御前で『この帳面に歌を一つ書くがよい』と宮中の人々におっしゃられたところ、とても緊張して書きにくいので、とても書けませんと言いだす人たちがいて。 『字の上手い下手や、歌が時節にあってなくてもかまわないので』とおっしゃられるので、みながお詫びして書きはじめる中、そのときは三位中将だった今の関白殿<*3>が、    しほの満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふやはわれ    --- 潮が満ちる 出雲/いつもの浦で いつも、いつでも あなたのことを 私は深く想っていますよ ---- という歌の最後のところを 『たのむやはわれ』 --私は、陛下に疑いを持たず自分の未来を任せます-- とお書きになったのを、大変におほめになったということがありました」とおっしゃられるので、汗がダラッダラ出てきちゃいそうな気持ちになった。  若い人だったら、『よはひは老いぬ』なんてとても書けなかっただろうし、と思う。  普段は大変上手に字を書くひとたちも、なんとなく委縮しちゃって、書き損じをしちゃったりもしている。  中宮・定子さまが“古今集”を御前に置かせになられて、いろいろな歌の上の句をお詠みになられて、「これの下の句はなんでしょう?」とおっしゃられると、昼も夜もなく熱心に読みこんで全部覚えてるはずなのに、はっきりとは思い出せず、口から出てこなくなっちゃうのは、どうしたことか。  宰相の君<*4>でさえ十首ほど。覚えてる、と言えるものかどうか。他のひとたちにいたっては、五首とか六首とか三首とか。“どうにも思い出せません”と正直に申しあげるべきなんだけど、「せっかくご出題くださったのに、そんなにつまない答えはしにくい」と言って、やきもきしてるのも面白い。  知っていると答える人がいないときには、定子さまがそのまま下の句までお読みになられて、「ね? これは皆しってる筈の歌でしょう? 答えたられないのは情けないわよ?」とおっしゃってガッカリされる。  中でも、古今集をなんかいも書写して覚えている人は、全部覚えているはずなのだけれど。  中宮・定子さまが―― 「村上天皇の時代に、宣耀殿の女御と呼ばれた方は、小一条の左大臣殿の娘さんでいらっしゃるので、誰でも知ってらっしゃいますよね。  その方がまだ姫君でらしたころ、お父上の大臣がお教えになっられたことは、 『第一にはお習字を習いなさい。次に楽器、琴の演奏が、どうやったら他の人上手にできるかを考えなさい。そして、古今和歌集二十巻を全部暗誦できるようになることをめざしてお勉強なさい』 ということだったと、村上天皇は以前からお聞きになられていて。物忌みのお休みの日に、古今和歌集を隠しもって宣耀殿の女御のところにお行きになられて、いつもとは違って間仕切りを用意おさせになられたので、宣耀殿の女御がどうしたのかしらんと思っていると、(間仕切りの向こうの)村上天皇は秘書官に隠し持っていた古今和歌集を開かせて、『何年何月のこういうときに、誰誰が読んだ歌はなんだ』とご質問されて、女御は、そういうことか、と理解して面白いとはお思いになったものの、覚え違いがあったり、忘れたりしてることがあったら、大変なことだとどうしようもなく思い乱れてしなったに違いありません。 村上天皇は、古今和歌集について詳しくなくはない人を二、三人ばかりお呼びになられて、間違ったところがあれば碁石を置いて数を記録しようとされて、問題を出させたりしたりしたのですから、どんなに楽しく赴きのあったことでしょう。そのやり取りの近くに居た人のことさえ、うらやましく思われます。  村上天皇が答えるようにと強く女御にお求めになられたので、利口ぶって下の句までを読んだりはされなかっただけれど、全部に間違いがなかったそうです。  村上天皇は意外な展開に驚かれ、それでも少しは危なっかしいところもあったので、なんとか間違いを見つけようと、意地になってしまわれました。それでとうとう十巻になってしまいます。  村上天皇は、『ああ、無駄なことをしてしまった』とおっしゃって、古今和歌集の詠んだところまでにしおりを挟んで、お眠りになられてしまうのも、とてもらぶらぶで素敵ですね。  ずいぶんたってからお起きになられて、『ここまで来て勝ち負けをはっきりさせないのも実に気持ち悪い』とおっしゃて、「下の十巻、明日にもちこしてしまったのなら、耀殿の女御が見直して覚え直してしまうかもしれない、今夜決着をつけよう」とのことで、油に火をともした近くまでお寄りになって、夜が更けるまでお詠ませになられた。けれど、ついに最後まで耀殿の女御を負けさせることはできずじまいに終わりました。  村上天皇が宣耀殿の女御のお部屋にはいられたあと、こんなことになってるようです、といろんな人が宣耀殿の女御のお父上である小一条の左大臣殿にお伝えになって、左大臣殿は娘さんのことをとても心配されて御騒ぎになられて、御経をたくさんあげさせたりして、ご本人もそちらの方へ向かわれて、お祈りなどされたということも、実に風流で味わいのあることですね」 ――とおっしゃられていたのを、お上(一条天皇)がお聞きになられて、おほめになられ、 「どうやったらそんなにたくさん覚えられるのだろうね。私は、三、四巻さえも読み切れないだろうに」とおっしゃられる。 「昔は、とるにたらないようなものでも風流をたしなんでいたのですね。このごろに、こんな話を聞けるものでしょうか」などと、お上の御前に控えていたり、お上つきのメイドでこちら側に同行することが許されている者などがやってきて、口々に話はじめたりする様子は、実にあけっぴろげな感じがして素敵。    <*1 藤原伊周。清少納言がお仕えしている、中宮・定子さまのお兄さん> <*2 月も日も かはりゆけども 久に経る みむろの山の とつ宮どころ――という、万葉集にある歌を詠ったようです。> <*3 藤原道隆。中宮・定子さまのお父さん> <*4 宰相の君。清少納言よりも先輩の、頼れる、おっとりおねーさんメイド長、という感じの人だったみたいです。藤原重輔の娘。> ( 最新版:http://hexaquarker.com/gakushuu_makurano.txt )