「枕草子」学習のための書き写しとフィーリングによる(恐らくは間違いだらけの)現代語訳 進行豹 2012/05/10- (一から十   : http://hexaquarker.com/gakushuu_makurano_1_10.txt ) (十一から二十 : http://hexaquarker.com/gakushuu_makurano_11_20.txt) (二十一から三十): http://hexaquarker.com/gakushuu_makurano_21_30.txt) ------ 三十一 心ゆくもの  心ゆくもの ようかきやる女絵の、ことばをかしうつづけておほかる。物見のかへさに、乗りこぼれて、をのこどもいとおほく、牛よくやる者の、車走らせたる。白く清げなるみちのくに紙に、いと細くかかへてはあらぬ筆して、文書きたる。調半に調おほくうちたる。河船のくだりざま。歯黒のよくつきたる。うるはしき糸のあはせぐりしたる。物よくいう陰陽師して、河原に出て、呪詛の祓したる。夜寝起きて飲む水。つれづれなるをりに、いとあまりむつましくはあらず、うとくあらぬまろうどの来て、世ノ中の物語、このごろある事の、をかしきも、にくきも、あやしきも、これにかかり、かれにかかり、おほやけわたくしおぼつかなからず、聞きよく、ほこりかに語る、いと心行く心地す。神、寺などに詣でて、物申さるするに、寺には法師、神は禰宜などやうの者の、思うほどよりも過ぎて、とどこほりなく聞きよく申したる。 (満足できるもの。  上手に書けている女絵<*1>に、気の利いた添え言葉がたくさん書いてあるもの。  見物にいった帰り道に、牛車からあふれるほどの人と乗合い、それに男たちもたくさんつきそって、御者が気持ちよく車を走らせてるとき。  真っ白で清楚な感じの東北製の和紙に、とても細くて上品な筆で、手紙を書くとき。  丁半のサイコロ遊びをしてるとき、狙い目が多くでるとき。  川を船が下っていく様子。  お歯黒が綺麗にくっついたとき。  綺麗な糸をより合わせてより糸をつくること。  呪文をあげるのが上手な陰陽師に頼んで、河原にでて、呪詛の祓いをしてもらうとき。  夜起きて飲む水。  退屈をしているとき、それほどに親しいとはいえず、けど疎遠でもないお客さんが来てくれて、世間話――このごろ起きた、楽しいのも、腹がたつのも、おっかないのも、あれやこれや、公のことから個人のことまで、あぶなっかしいところもなく、聴きやすく、得意げに話してもらうのは、すごく心地よくて満足できる。  寺社仏閣にお参りして、神仏に請願をあげたてまつってもらうのに、お寺なら法師、神社なら禰宜が、予想してた以上にすらすらと聴きやすい誓言をあげてくれるのも満足できる。)     <*1 女の人を描いた絵でも、女の人が描いた絵でもなく、  「白黒、あるいは淡彩の絵」だそうです。(ちなみに、鮮やかに彩色した絵は男絵)> ------ 三十二 檳榔毛は  檳榔毛<*1>は、のどかにやりたる。走らせたるはかろがろしく見ゆ。網代<*2>は走らせたる。人の門よりわたるを、ふと見るほどもなく過ぎて、供のひとばかり走るを、たれならむと思ふこそをかしけれ。ゆるゆると行くは、いとわろし。 (檳榔毛で飾り付けしてある上等の牛車は、ゆっくりと進ませるのがいい。走らせちゃうと軽々しく見える。  網代の牛車は、走らせないとだめ。  人の家の門の前を、あら、と見るよりも早く通過して、あとからお供の人だけがおっかけてるのを、誰の牛車なのかしらん、と思ったするのが、らしくていい。  網代の牛車をとろとろ進めてるのは、すっごく格好悪い。)       <*1 蒲葵の葉を乾かして白くして細かく割いてしきつめるという、   高級装飾をされた牛車のこと> <*2 杉やのひのき、竹などの薄板を組んで編んだ簡易装飾。軽くて涼しい。> ------ 三十三 牛は  牛は、額いと小さく白みたるが、腹の下白き。足のしも、尾のすそ白き。 (牛は、おでこがすっごく小さくて白っぽくて、お腹の下も白くって。  で、足の下の方と、尻尾の先が白いのがかわいい) ------ 三十四 馬は  馬は、紫<*1>のまだらつきたる。芦毛。いみじく黒きが、足肩のわたりなどに白き所。淡紅梅の毛にて、髪尾などはいと白き、げに木綿髪といひつべし。 (馬は、栃栗毛で白斑が入ってると綺麗。芦毛もいい。  まっ黒な青毛馬で、脚や肩のあたりに白が入ってるのも素敵。  淡目の紅梅月毛で、たてがみが真っ白なのは、本当に“ゆう髪”とでも言うべきだろう。) <*1 ここでいう紫は、栃栗毛のことだそうです。紫 +“馬へんに留という書く字”で、しりゅう、というのが正式名称? だそうで> <*2 木綿髪で、ゆう髪、と読むそうです。ニュアンスとしては“雪が降っているように真っ白な髪”くらいだそうです> ------ 三十五 牛飼は  牛飼は、大きにて、髪あかしらがにて、顔赤みて、かどかどしげなる。 (牛飼いは、大柄で、髪が赤茶けていて、顔も赤ら顔で、いかにも気が強そうだといい) ------ 三十六 雑色随身は  雑色随身は、やせてほそやかなる。よき男も、なほ若きほどは、さる方なるぞよき。いたく肥えたるは、ねぶたからむ人とおぼゆ。 (お偉方の護衛についている人たちは、痩せてスラリとしてるといい。  身分のある人も、とくに若いころは、やっぱりそんな体型だといい。  でっぷりと太っていると、眠そうな人に見えてしまう。) ------ 三十七 小舎人は  小舎人は、小さくて、髪うるはしきが、裾さはらかに、すこし色なるが、声をかしうて、かしこまりて物など言ひたるぞ、りやうりやうじき。 (貴人に側仕えするお小姓さんは、ちいちゃくて、髪がつやつやで、毛先がさらっとしてて少し色味が入ってて、で、声が綺麗で、かしこまって何か言ったりしていると、上品で可愛らしくて萌える) ------ 三十八 猫は  猫は、上のかぎり黒くて、ことはみな白き。 (ネコは、背中のとこだけが黒くて、そこの他は全部白いコが可愛い) ------ 三十九 説教師は  説教師は、顔よき。つとまもらへたるこそ、説くことのたふとさもおぼゆれ。ほか目しつれば、忘るるに、にくげなるは、罪や得らむとおぼゆ。このことはとどむべし。すこし年などのよろしくほどこそ、かやうの罪得方の事も書きけめ、今は、いとおそろし。  また、「たふとき事。道心おほかり」とて、説教すという所に、さいそにいにゐる人こそ、なほこの罪の心地には、さしもあらで見ゆれ。 (お経を教えてくれるお坊さんは、イケメンに限る。  顔をじっくり見てれば自然、言ってることのありがたさも頭に入ってくる。  他に目がいって気が散ると話の内容も忘れちゃうので、ブサイクなのは罪だと思う。  ……そんなこと言いはしないけど。  わたしがもう少し若かったら、そんな罰当たりなこともかいたろうけど、今は本当に仏罰があたっちゃいそうで、わりと怖い。  それと、「ありがたい。私は仏道を求める心がたくさんあるからな!」って、お話を聞かせてもらえる所に真っ先に入ってきて陣取る人なんかは、やっぱり仏罰があたるのが怖いんじゃないかと思うと、そんなに仏道を求める心がありそうもなく見えちゃう。) ------ 四十 蔵人おりたる人、昔は  蔵人おりたる人、昔は御前などいふこともせず、その年ばかり、内わたりには、まして影も見せざるける。今は、さしもあらざンめる。「蔵人の五位」とて、それをしもぞいそがしくもてつかへど、なほ名残つれづれにて、心一つは暇ある心地すべかンめれば、さやうの所にいそぎ行くを、一度二度聞きそめつれば、常に詣でまほしくなりて、夏などのいと暑きにも帷子いとあざやかに、薄二藍、青鈍の指貫など、踏み散らしてゐたンめり。烏帽子に物忌つけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えむとにや、いそぎ来て、その事する聖と物語して、車立つるをさへを見入れ、ことにつきたるけしきなる。久しく会はざりける人などの、詣で会ひたる、めづらしがりて、近くゐ寄り、物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束したる数珠かいまさぐりて、手まさぐりにうちし、すがりを物言ふ拍子にこなたに打ちやりなどして、車のよしあしほめそしりなにかして、その人のせし経供養、八講と言ひくらべゐたるほどに、この説教のことも聞き入れず。何かは、常に聞く事なれば、耳馴れて、めづらしうおぼえぬにこそはあらめ。  さはあらで、講師ゐてしばしあるほどに、さきすこしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりもかろげなる直衣、指貫、生絹の単衣など着たるも、狩衣姿にても、さやうにては若くほそやかなる三四人ばかり、侍の者、また、さばかりして入れば、もとゐたりつる人も、すこしうち身じろぎくつろぎて、高座のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに数珠押しもみ、きうに伏し拝みて聞きゐたるを、講師もはえばえしく思ふなるべし、いかで語り伝ふばかりと説き出でたり。聴聞すると立ちさわぎ額づくほどにもなく、よきほどにて立ち出づとて、車どもの方見おこせて、われどちうち言ふも、何事ならむとおぼゆ。 (天皇の秘書官を辞職した人は、昔は特に別の役職にもつかず、引退した年には身を謹んで、宮中内には、それこそ影すらみせないものだった。  今は、そうでもないようだ。  「蔵人の五位」と呼んで、そういう人をわざわざ起用してあれこれ働かせたりするけれども、やっぱり引退前の気持ちをひきずっちゃうのか、心のどこかに暇であるような気持ちがしちゃうのか、いいつけられた仕事場に急いで行って、一つ二つもお話を聞けば、必ず御前に参上したくなって、夏のめちゃくちゃ熱いときにでも、びしっと和服を着こなして、薄二藍や青鈍色の袴をざっと広げて座って構えている。  烏帽子に物忌の印をつけているのだから、今日は物忌で引きこもっていなければダメな日なのだけれども、功徳を積む行為をするのだったら物忌の障りにはならないと考えてるのか、いそいで来て、功徳を積むためのお説教などしてくれる高僧とあれこれ話して、牛車を立てる準備さえを手伝って、非常に場慣れしているように見える。  長いこと会わなかった人がお参りに来ているところにばったり会って、奇遇ですなと近くによってあれこれはなし、頷き、面白いことなんかもいって、扇を大きく広げながら口にあてて笑って、数珠のかざりをまさぐって、手なぐさみにして、(数珠の)さがりの部分を何かいったはずみに向こうにぶつけちゃったりして、牛車の良し悪しを評論したりで、今目の前でお坊さんがあげているお教のことを、他のお説教と比べたりして、結局、目の前のお説教は少しも耳に入れてない。  もっとも、いっつも聞いているお説教なので耳慣れて、少しも耳新しいところが無いという気持ちなのだろうけれども。  そんなマナーの悪い人だけが居るわけでもなく、講師が座って少しする間にも、牛車を少し先にとめて降りる人たちや、蝉の羽よりもっと軽そうな上衣と袴と純絹の単衣などを着ている人や、はたまたざくっとした普段着姿の人、そんなラフな服装で三四人かたまっている若者たち、それに、そのお供の人たちなんかがぞろぞろと入ってくるので、もとからた人たちも少し居場所を動いてスペースを作ってあげて、講師が話す席の近くの柱の下なんかに座らせてあげれば、さすがに数珠をじゃらじゃらやって、熱心に伏し拝んで説教を聞くので、講師も光栄なことだとと感じ、後の世にまで語り継がれるような名説教をなんとか、と頑張って話したりする。  講話を聞くときには熱心さのあまり立ち騒いだり伏し拝んでたりした人たちが、帰るのに良い頃合いになってでていこうとして、牛車の方を見て、仲間内であれこれ話しているのを見ると、何事かしらと思う。